第60話 間に合うといいね
60話 間に合うといいね
その夜。
将太は勉強に集中できなかった。
数学の問題集を開いている。
だが、同じ問題を三回読み返していた。
頭に浮かぶのは別のことだった。
『リンに会ったんだ』
真心の言葉。
『間に合うといいね』
あの言い方。
あの表情。
まるで、全て知っている人間だった。
「三成」
『ああ』
「真心は何なんだ」
三成は少し黙った。
『分からん』
「またそれか」
『本当に分からん』
三成の声は珍しく真面目だった。
『だが』
「だが?」
『あの娘は異常だ』
将太は黙る。
『観測者でもない』
『ウィットネスでもない』
『なのに知りすぎている』
それは将太も感じていた。
リン。
一人目。
白い駅。
ダンニュク。
観測開始。
全部。
真心は知っている気がする。
知っているどころか、最初からこの出来事の中心にいるような感覚すらあった。
その時だった。
机の上。
将太のノート。
勝手にページがめくれた。
「っ!」
将太は身を乗り出す。
白紙。
白紙。
そして、新しい文字。
『残り十日』
数字が減っていた。
将太の鼓動が速くなる。
白い駅で聞いた数字。
観測開始。
残り日数。
全部が繋がっている。
さらに、その下に文字が浮かび上がる。
『一人目は待っている』
将太は息を呑む。
見たことがある。
以前にも。
だが、今回は違った。
続きがあった。
『一人目は待っている』
『二人目は近づいている』
将太は立ち上がった。
「二人目……」
誰だ。
真心か。
心陽か。
悠真か。
天堂か。
それとも、自分なのか。
考えて、すぐに首を振る。
違う。
少なくとも、今までの情報では違う。
一人目は観測者ではない。
見られすぎて、地図になった存在。
なら、二人目も同じ方向に近づいている者。
将太の頭に浮かんだのは、如月心陽だった。
見られすぎた者。
影が本人から離れかけている者。
だが、それを認めた瞬間、心陽が本当に二人目になってしまうような気がした。
将太は奥歯を噛んだ。
ページはそこで終わっていた。
だが、将太には分かる。
このノートは、何かを伝えようとしている。
まるで未来を知る誰かが、少しずつ情報を残しているように。
『一人目は待っている』
『二人目は近づいている』
その二行だけが、いつまでも目に残った。
翌日。
塾。
冬期講習前の最上位クラス。
将太は無意識に教室の中を見ていた。
悠真。
天堂。
麻里。
双葉。
心陽。
真心。
全員、普通だった。
少なくとも表面上は。
だが、将太にはもう普通には見えない。
悠真は白い駅を見た。
天堂も見た。
真心は何かを知っている。
心陽の影は異常だ。
そして、残り十日。
何かが起きる。
「何見てんの?」
突然。
心陽だった。
将太は慌てて視線を逸らす。
「いや」
「怪しい」
心陽は笑う。
「最近変だよね」
またその言葉だった。
心陽自身も、自分の周囲で何かが起きていることを感じている。
だが、理由までは分からない。
「綾小路くん」
心陽が少し声を落とす。
「誰か探してる?」
将太は固まる。
「何で」
「そんな顔してるから」
心陽は笑った。
だが、その瞬間だった。
足元の影。
将太は見た。
影が、心陽本人とは別に、首を横に振った。
ゆっくり。
まるで。
『言うな』
そう伝えるように。
将太の全身に鳥肌が立つ。
「どうしたの?」
心陽は気付いていない。
影だけだ。
異常なのは。
将太は息を整えた。
「如月心陽」
「何?」
「今日は、無理するな」
心陽は少し目を瞬いた。
「急に?」
「急に」
「変なの」
心陽は笑う。
だが、将太は笑えなかった。
影がまだ、足元でこちらを見ている。
本人ではない。
影だけが。
その時、教室の扉が開いた。
真心だった。
教室へ入る。
ただそれだけ。
何も変わらない。
だが、将太は見てしまった。
窓際に伸びる机の影。
椅子の影。
生徒たちの影。
講師用の机の影。
黒板の影。
教室中の影が、ほんの一瞬だけ同時に揺れた。
風はない。
誰も動いていない。
なのに、全ての影が真心の方を向いた。
将太の呼吸が止まる。
影だけではない。
影の向き。
影の角度。
影の濃さ。
全部が変わっていた。
まるで、王の前で頭を垂れるように。
真心へ向かっていた。
そして、その中心に立つ真心だけには、影がなかった。
将太は凍り付く。
心陽の影は動く。
天堂の影は立ち上がる。
黒衣たちも影と関係している。
だが、真心だけは違う。
影そのものが存在しない。
真心は何も気付いていないように席へ向かう。
いや。
本当に気付いていないのか。
将太には分からなかった。
その時だった。
真心が席へ座る直前。
ほんの一瞬だけ、将太の方を見た。
目が合う。
そして、小さく笑った。
誰にも気付かれないほど。
本当に小さく。
だが、確かにその口が動いた。
『間に合うといいね』
声は聞こえない。
なのに、意味だけが理解できた。
将太の背筋を冷たいものが走る。
次の瞬間、全ての影が元に戻った。
何事もなかったように。
教室には小さな話し声が戻る。
講師が入ってくる。
冬期講習が始まる。
誰も気付いていない。
将太だけだった。
いや。
もう一人。
悠真が、こちらを見ていた。
静かな目。
何かを見落とさなかった目。
悠真は何も言わない。
ただ、真心の席を一度見て、それから将太を見る。
将太は、その視線だけで分かった。
悠真も今の一部を見た。
全部ではない。
だが、違和感を掴んだ。
授業が始まっても、将太の頭には真心の姿が残っていた。
影のない少女。
全ての影が向かう中心。
忘れられた者。
けれど、ただ忘れられた存在ではない。
真心は、一人目でもない。
二人目でもない。
もっと別の何かだ。
それが何なのか、まだ分からない。
だが、残り十日。
その答えを知る日は、確実に近付いていた。
講師の声が黒板の前で響く。
「見えている条件に飛びつかないこと。大事なのは、まだ書かれていない条件です」
将太はノートを見る。
その言葉が、妙に胸に残った。
まだ書かれていない条件。
一人目の名前。
真心の正体。
心陽の影。
そして、ダンニュク。
将太はシャープペンを握った。
問題用紙の端に、無意識に文字を書いていた。
如月心陽。
田中真心。
綾小路将太。
そこまで書いて、手が止まる。
もう一つ、書くべき名前がある気がした。
だが、思い出せない。
空欄だけが残った。
その空欄を見ていると、胸の奥が痛んだ。
まるでそこに、最初から誰かがいたように。




