第59話 生き残り
59話 生き残り
将太は目を覚ました。
自室だった。
窓の外はまだ暗い。
時計を見る。
午前四時三十分。
最近では珍しくない時間だった。
夢ではない。
そう思った。
白い駅。
リン。
少女。
雪。
アナウンス。
『観測準備開始』
全て覚えている。
これまでは、目が覚めると曖昧になっていた。
だが今回は違う。
まるで本当に行ってきたような感覚が残っていた。
冷たい空気。
雪を踏む感触。
少女の声。
『あと十一日』
あの言葉だけが、耳の奥に残っていた。
将太は机を見る。
自分のノート。
閉じられている。
だが、嫌な予感がした。
ゆっくり開く。
白紙。
白紙。
白紙。
そして、あのページ。
『観測開始まで』
『残り十一日』
数字が変わっていた。
将太は息を呑む。
白い駅で聞いた数字と同じだった。
偶然ではない。
もう誰が見ても偶然ではない。
「三成」
『ああ』
「お前も見たのか」
『見た』
三成は珍しく即答した。
『あれは夢ではない』
将太は黙った。
やはりそうだった。
『問題は別だ』
「何だ」
『リンだ』
三成の声が低くなる。
『あいつは何かを隠している』
「それは俺も思った」
『知っていることの半分も話しておらん』
将太は苦笑した。
確かにそうだった。
だが、それ以上に気になることがある。
少女。
『今度は忘れないでね』
あの言葉だった。
なぜ。
初めて会うはずなのに、あんなことを言ったのか。
塾。
冬期講習前。
最上位クラスの教室には、既に何人か来ていた。
悠真。
麻里。
双葉。
心陽。
真心。
いつもと変わらない朝。
そのはずだった。
将太は無意識に心陽の足元を見る。
影。
普通だった。
少なくとも今は。
動いていない。
笑っていない。
こちらも見ていない。
だが、以前より濃く見える。
そんな気がした。
見られすぎた者。
そう呼びそうになって、将太はすぐに打ち消した。
違う。
それで呼んではいけない。
如月心陽。
本人の名前を忘れてはいけない。
「綾小路」
声。
悠真だった。
どこか疲れた顔をしている。
「お前も寝不足か」
「何で」
「俺もだから」
将太は何も言わなかった。
悠真も数秒黙る。
そして、短く言った。
「駅」
将太は顔を上げた。
「見たんだろ」
否定できなかった。
「お前もか」
「お前もか」
ほぼ同時だった。
二人とも少しだけ笑う。
だが、笑顔はすぐ消えた。
「天堂は?」
将太が聞く。
「まだ来てない」
悠真が答える。
その時だった。
教室の扉が開いた。
天堂だった。
だが様子がおかしい。
顔色が悪い。
明らかに寝ていない。
「おい」
悠真が立ち上がる。
「大丈夫か」
「大丈夫じゃないな」
天堂は苦笑した。
そして、将太を見る。
「白い駅」
教室の空気が止まった気がした。
「お前も見たか」
将太は頷く。
悠真も。
三人はしばらく黙っていた。
偶然ではない。
もう誰もそう思っていなかった。
授業前の短い時間。
三人は教室を出て、非常階段へ向かった。
塾の建物の裏側にある、人気の少ない場所。
冬の空気が冷たく流れ込んでいる。
将太。
悠真。
天堂。
「整理するぞ」
天堂が言う。
「俺たちは同じ夢を見た」
「夢じゃない気がする」
悠真が言う。
「俺もそう思う」
将太が頷く。
「白い駅」
「少女」
「意味不明な放送」
天堂が指を折る。
「あと中国人」
悠真が言った。
将太は顔を上げる。
「見たのか?」
「ベンチにいた」
悠真が答える。
「俺も」
天堂が言う。
将太は驚いた。
リンは、自分だけに会っていたと思っていた。
だが違う。
悠真も見ていた。
天堂も見ていた。
リンは最初から、三人全員を見ていたのかもしれない。
「リン……」
将太が呟く。
その時だった。
風が吹いた。
冬の冷たい風。
だが、それとは別の寒気があった。
『将太』
三成の声。
『後ろだ』
将太は振り返る。
誰もいない。
だが。
非常階段の踊り場の上。
金属製の手すりの向こう。
一人の少年が立っていた。
黒髪。
細身。
長身。
リンだった。
将太は目を見開く。
悠真も。
天堂も。
同時に気付いた。
「リン!」
将太が叫ぶ。
だが、リンは反応しない。
いや。
反応はした。
ゆっくり首を振る。
来るな。
そう言うように。
将太は違和感を覚えた。
リンは自分を見ていない。
悠真も。
天堂も。
見ていない。
もっと後ろ。
リンの視線は、非常階段の扉の向こうへ向いていた。
塾の廊下。
その先の教室。
あるはずのない暗がり。
将太は扉の窓越しに、中を見た。
誰もいないはずの空間。
冬期講習前の薄い光。
その中に、誰かが立っていた。
黒いコート。
フード。
顔は見えない。
黒衣。
境界を見る存在。
将太の呼吸が止まった。
悠真も固まる。
天堂の顔色が変わる。
黒衣は動かない。
ただ立っている。
こちらを見ている。
そして、ゆっくりと右手を上げた。
人差し指。
一。
将太の背筋が凍る。
見覚えがある。
何度も見た仕草。
だが、今回は終わらなかった。
中指が上がる。
二。
悠真が息を呑む。
天堂が目を見開く。
そして。
薬指が上がった。
三。
「……っ!」
将太の声にならない声が漏れる。
三。
三人目。
リンの顔が青ざめる。
今まで見たことがないほど。
明らかな恐怖。
将太は、リンのその顔を見て理解した。
リンは知っている。
三人目が何を意味するのか。
そして、その先に何が起きるのかを。
「リン」
将太は声を絞り出した。
「お前、何を知ってる」
リンは答えない。
唇が震えている。
あのリンが。
いつも余裕を残していたリンが。
初めて、本気で怯えている。
悠真が低く言った。
「お前は、生き残りか」
リンの目が動いた。
将太は悠真を見る。
「生き残り?」
悠真はリンから目を逸らさずに言った。
「白い駅を知っている。観測開始を知っている。ダンニュクを恐れている」
悠真の声は冷静だった。
「なら、前にも起きたんだろ」
リンは何も言わない。
沈黙。
それが答えだった。
天堂が舌打ちする。
「つまり、前に誰かが落ちたってことか」
リンの顔がさらに歪んだ。
「落ちたんじゃない」
ようやくリンが言った。
声がかすれていた。
「消えた」
非常階段の空気が冷たくなる。
「名前ごと」
将太は息を呑む。
白い駅で聞いた話。
ダンニュクに落ちた者は、名前から消える。
いたことだけが消える。
リンは続けた。
「上海で、同じことが起きた」
その言葉に、三成の気配が変わった。
「俺たちは四人いた」
リンの声が震える。
「最初は夢だった」
将太は黙って聞いた。
「白い駅を見て、影を見て、同じ言葉を聞いた」
「ダンニュクか」
天堂が言う。
リンは頷いた。
「一人目が出た」
将太の胸が重くなる。
「二人目も出た」
リンは目を伏せる。
「三人目が見つかった時、観測が始まった」
将太は言葉を失った。
三人目。
今、黒衣が示した数字。
悠真か。
それとも、三人全員なのか。
あるいは、将太が見つけてしまった順番なのか。
分からない。
だが、リンが恐れる理由だけは分かった。
同じ段階まで来ている。
前に誰かが消えた場所まで。
「その後、どうなった」
悠真が聞く。
リンは答えなかった。
かわりに、黒衣が一歩前へ出た。
扉の向こう。
暗い廊下。
現実の塾のはずなのに、そこだけ停止世界のように沈んでいる。
黒衣は、三本立てた指をゆっくり閉じた。
そして、将太を見た。
いや。
将太だけではない。
悠真。
天堂。
リン。
全員を順番に見た。
フードの奥から、声がした。
「生き残りは、一人だけだった」
リンの顔が完全に強張った。
将太は黒衣を見る。
「お前がやったのか」
黒衣は答えない。
「上海で、何があった」
黒衣は、少しだけ首を傾げた。
まるで、その問い自体が間違っていると言うように。
「見られたものは、地図になる」
黒衣が言った。
「忘れられたものは、空白になる」
将太の胸が冷える。
「二つが重なれば、駅が開く」
如月心陽。
田中真心。
光と空白。
将太は唇を噛む。
「開いたらどうなる」
黒衣は答えた。
「順番を間違えれば、ダンニュクに落ちる」
その瞬間、非常階段の床に白い線が走った。
駅のホームの線。
塾の非常階段が、白い駅のホームに変わりかけている。
心陽の影。
真心の影。
悠真の影。
天堂の影。
将太自身の影。
それらが一瞬だけ、床に重なった。
リンが叫んだ。
「逃げろ!!」
その瞬間、世界が歪んだ。
扉が遠ざかる。
階段が伸びる。
塾の廊下が白いホームへ変わる。
止まったはずのない現実が、停止世界に引きずり込まれる。
将太は咄嗟に叫んだ。
「如月心陽!」
その名を呼んだ瞬間、遠くで何かが震えた。
続けて叫ぶ。
「田中真心!」
白い線が一瞬だけ止まった。
だが、完全には戻らない。
黒衣の声が響く。
「順番を間違えるな」
次の瞬間。
非常階段の踊り場に、白い駅のアナウンスが流れた。
『観測準備進行中』
『三人目を確認』
悠真の顔色が変わる。
天堂の影が揺れる。
リンが歯を食いしばる。
三成が低く言った。
『まずい』
将太は足元を見る。
自分の影が、床から少し浮いていた。
影だけが、先に白い駅へ行こうとしている。
将太は息を呑んだ。
黒衣は最後に、静かに言った。
「次は、四人目が目を覚ます」
そして、白い光が弾けた。




