第6話 白い駅
# 第六話 白い駅
模試の翌々日。
将太はいつもどおり学校へ行き、いつもどおり授業を受けた。
数学では教師より先に答えが浮かび、英語では長文の途中で集中が切れる。
休み時間には来海たちとサッカーボールを蹴った。
昨日までと変わらない一日。
――のはずだった。
違うのは、一つだけ。
黒い羽織の青年が、ずっと近くにいることだった。
授業中は教室の後ろ。
休み時間は窓際。
昼休みは校庭を見下ろす渡り廊下。
将太がどこへ行っても、青年は一定の距離を保って立っている。
話しかけても、ほとんど返事はしない。
ただ見ている。
観察するように。
待つように。
「……見られるのって、落ち着かないんだけど。」
昼休み、誰にも聞こえないよう小さく呟く。
青年は校庭へ目を向けたまま答えた。
「慣れよ。」
「慣れるか。」
それで会話は終わった。
将太は小さくため息をつく。
怖いというより、最近は面倒くさい。
本人に聞こえたら、また何か言われそうだった。
◇
放課後。
将太は塾へ向かう電車へ乗り込んだ。
車内は受験生でいっぱいだった。
英単語帳。
数学の問題集。
参考書へ付箋を貼る高校生。
模試の結果について話す中学生。
日常。
どこにでもある夕方の通学風景だった。
青年はドアの横へ立っている。
吊り革も持たず、窓の外を眺めていた。
もちろん、誰もその存在には気づかない。
将太はスマートフォンを取り出した。
昨日返ってきた模試の自己採点を見返す。
数学、百点。
英語、六十一点。
国語、五十八点。
数字を見るたび、胸の奥が少し痛む。
「まだ見ているのか。」
青年が言う。
「悔しいから。」
「悔しさは忘れるな。」
珍しく否定しなかった。
将太は少しだけ驚く。
「でも、それに囚われるな。」
「どっちなんだよ。」
青年は答えない。
電車がトンネルへ入る。
窓ガラスが黒い鏡へ変わった。
映るのは、自分の姿。
制服。
リュック。
少し伸びた前髪。
その後ろ。
青年の姿は映っていない。
「……あれ?」
将太は眉をひそめる。
ガラスに映っているのは、自分だけだった。
違う。
もう一人いる。
白い服を着た少年。
自分と同じくらいの年齢。
ガラスの向こう側に立ち、静かにこちらを見つめている。
あの日、停止した世界で出会った少年だった。
少年は笑わない。
ただ、ゆっくりと右手を上げる。
小さく手招きをした。
――おいで。
声は聞こえない。
それでも意味だけは、はっきりと伝わる。
将太は勢いよく振り返った。
誰もいない。
乗客たちはスマートフォンや参考書へ目を落としたままだ。
もう一度、窓を見る。
少年は消えていなかった。
今度はホームの方を指差している。
電車がゆっくり減速を始めた。
まもなく駅へ着く。
塾の最寄り駅ではない。
降りる理由などない駅だった。
青年が初めて窓へ目を向ける。
白い少年を見ることはない。
だが、その表情がわずかに変わった。
「……来たか。」
その一言と同時に、電車のブレーキ音が静かに響いた。
電車がホームへ滑り込む。
ブレーキの音。
ドアが開く音。
「○○駅です――」
車内アナウンスが流れる。
将太はホームを見た。
見慣れた駅だった。
ベンチ。
自動販売機。
制服姿の高校生。
買い物帰りの女性。
何もおかしくない。
(気のせいだ。)
将太は小さく息を吐いた。
窓に映っていた白い少年の姿も、いつの間にか消えている。
疲れているんだ。
そう思うことにした。
ドアが閉まり始める。
その瞬間だった。
――カチリ。
どこかで、小さな音がした。
将太は顔を上げる。
動いていた人が止まっている。
ホームを歩いていた会社員。
スマートフォンを見ていた女子高生。
ドアへ駆け込もうとしていた男性。
全員が、その姿勢のまま止まっていた。
車内も同じだった。
吊り革が揺れたまま止まる。
ページをめくりかけた参考書。
口を開きかけた女子中学生。
まばたきさえ、止まっている。
「……また。」
世界が止まった。
第1話の、あの日と同じだった。
将太はゆっくり立ち上がる。
心臓の音だけがやけに大きい。
青年を見る。
黒い羽織の青年だけは、静かに立っていた。
まるで最初から分かっていたような顔で。
「行け。」
短く、それだけ言う。
「どこへ。」
「呼ばれている。」
将太はホームを見る。
白い少年が立っていた。
ホームの真ん中。
人が誰もいない場所で、こちらを見ている。
ゆっくりと手を差し伸べた。
――おいで。
将太は動けない。
降りたら戻れない。
そんな気がした。
「ここ……どこなんだ。」
少年は答えない。
ただ、もう一度だけ頷く。
青年が静かに言う。
「恐れるな。」
「簡単に言うなよ。」
「恐れてもよい。」
将太は青年を見る。
「だが、止まるな。」
その言葉だけは、不思議と胸に落ちた。
将太は大きく息を吸う。
一歩。
電車の外へ足を下ろす。
靴底がホームへ触れた瞬間。
景色が音もなく崩れた。
色が消える。
赤が。
青が。
黄色が。
空も。
壁も。
柱も。
床も。
すべてが白へ塗り替えられていく。
ホームにいた人々は消えていた。
ベンチだけが残る。
古びた木製のベンチ。
駅名標は真っ白で、文字がない。
時計もない。
発車案内もない。
聞こえるはずの電車の音もない。
あるのは静寂だけだった。
将太はゆっくり振り返る。
さっきまで乗っていた電車は、もうなかった。
線路だけが、白い霧の中へ真っすぐ伸びている。
終わりの見えない線路。
その先から、かすかに鈴のような音が聞こえた。
チリン――。
白い少年は振り返る。
そして初めて、小さく微笑んだ。
何も言わず、ゆっくり歩き始める。
将太は立ち尽くしたまま、その背中を見つめていた。
白い少年のあとを歩く。
ホームには、自分の足音だけが響いていた。
どれくらい歩いたのか分からない。
時間という感覚が、この場所にはなかった。
やがて、一本の木製ベンチが見えてくる。
古びている。
何十年もそこに置かれているようにも、新しく置かれたばかりのようにも見えた。
そのベンチに、一人の男が腰掛けていた。
白い外套。
背筋を伸ばし、線路の向こうを静かに見つめている。
将太たちが近づいても、男は振り向かない。
白い少年だけが、男の隣で足を止めた。
しばらく沈黙が続く。
やがて男が、小さく口を開いた。
「遅かったな。」
誰に向けた言葉なのか分からなかった。
少年は何も答えない。
将太は思い切って声を掛ける。
「あの……。」
男がゆっくり振り返る。
穏やかな顔だった。
若くも見える。
年老いても見える。
不思議な顔立ちだった。
ただ、その瞳だけは、長い長い時間を見続けてきたような静けさを宿していた。
「ここは、どこなんですか。」
男は少しだけ笑う。
「駅だ。」
将太は思わず苦笑する。
「それは見れば分かります。」
「そうか。」
また沈黙。
それ以上は答えない。
将太は肩の力を抜いた。
ここにいる人たちは、みんな同じだ。
聞きたいことには答えてくれない。
けれど、不思議と腹は立たなかった。
白い少年は線路の先を見つめたまま動かない。
男も同じ方向を見ている。
つられて将太も霧の向こうへ目を向けた。
白い霧が静かに漂っている。
その奥は何も見えない。
ふいに、小さな音が響いた。
チリン――。
鈴のような、ベルのような音。
男が静かに立ち上がる。
その動きに合わせるように、白い少年も一歩前へ出た。
「何か来るんですか。」
返事はない。
霧の奥に、淡い光が灯る。
一つ。
また一つ。
やがて二つの光が並び、ゆっくりとこちらへ近づいてきた。
将太は息をのむ。
列車だった。
真っ白な車体。
窓だけが黒く、車内は見えない。
音はしない。
レールも震えない。
それでも列車は確かに近づいてくる。
まるで、この駅そのものが列車を迎え入れているようだった。
列車は将太たちの前で静かに止まる。
ドアが開く。
誰も降りてこない。
誰も乗っていない。
ただ、白い空間だけが車内に続いていた。
男が将太を見る。
初めて、まっすぐに。
「乗るか。」
将太は白い車内を見つめた。
乗れば、もう元には戻れない。
そんな気がした。
怖かった。
それでも。
知りたかった。
自分だけに見えるものの正体を。
白い少年が、先に列車へ乗り込む。
振り返らない。
将太は小さく息を吸った。
そして、一歩だけ前へ踏み出した。




