第5話 順位表
# 第五話 順位表
模試の翌日。
放課後の塾には、いつもとは違う緊張が漂っていた。
教室のあちこちで問題冊子が開かれる。
スマートフォンで解答速報を確認する者。
赤ペンを片手に自己採点を始める者。
誰も大きな声では話さない。
それでも、小さなため息だけは何度も聞こえてきた。
模試は終わった。
だが、本当の勝負はまだ終わっていない。
数字になる。
努力も。
手応えも。
期待も、不安も。
全部、点数という数字に変わる。
綾小路将太は自分の席に座り、問題冊子を机へ広げた。
「……やるか。」
赤ペンのキャップを外す。
最初は数学だった。
一問目。
丸。
二問目。
丸。
三問目。
丸。
赤い丸が並んでいく。
途中で手は止まらない。
最後の証明問題まで採点を終え、将太は小さく息を吐いた。
「よし。」
答案用紙の右上へ、大きく書く。
**100**
思わず口元が緩んだ。
やっぱり間違っていなかった。
あの補助線で正解だった。
その時だった。
「満点?」
後ろから声がした。
振り返ると、天堂蓮が問題冊子を片手に立っていた。
「やっぱりな。」
将太は少し照れくさく笑う。
「そんな分かりやすかった?」
「昨日、『たぶん満点』って言うてたやん。」
「あれは勘。」
「勘で百点取れるなら苦労せえへん。」
天堂は呆れたように笑った。
「俺、最後の証明で落としたわ。」
「惜しかったね。」
「補助線一本やった。」
「途中までは合ってたし。」
「その一本が遠いんやけどな。」
天堂はそう言うと、自分の席へ戻っていく。
席は少し離れている。
途中で別の塾生に呼び止められ、そのまま話し始めた。
将太は再び答案へ目を落とす。
次は英語。
長文読解。
赤ペンを動かしていく。
丸。
×。
×。
△。
赤い斜線が少しずつ増えていく。
長文が終わる頃には、胸の中に嫌な感覚が広がっていた。
「……え。」
もう一度、計算する。
六十一。
もう一度。
やはり六十一。
間違いではない。
将太は英語の答案を見つめたまま動けなくなった。
数学は百点だった。
なのに。
その隣には、六十一という数字が並んでいる。
机の横へ目を向ける。
黒い羽織の青年が、壁にもたれかかるように立っていた。
腕を組み、静かに将太を見ている。
昨日も。
今日も。
家でも。
塾でも。
気づけばいつも近くにいた。
将太は心の中で問いかける。
(何か言いたそうだな。)
青年は答えない。
(……言えよ。)
しばらく沈黙が続いたあと、ようやく口を開いた。
(負けだ。)
その一言だけだった。
将太は眉をひそめる。
(数学は百点だぞ。)
青年は将太の英語の答案へ視線を落とした。
(戦は、一つの部隊だけでは勝てぬ。)
それ以上は何も言わない。
将太も言い返さなかった。
英語六十一点。
その数字だけが、数学の百点より大きく見えていた。
英語の答案を閉じる。
見なかったことにしたい数字だった。
将太は小さくため息をつき、次の答案を取り出した。
「国語か……」
一番気が重い教科だった。
漢字。
文法。
ここまでは悪くない。
説明文。
小説。
記述。
赤い斜線が一本、また一本と増えていく。
「……うわ。」
最後まで採点を終え、点数を足す。
五十八。
英語より低かった。
将太は机に突っ伏した。
「終わった。」
「何が?」
顔を上げると、いつの間にか天堂が近くまで来ていた。
手には自分の答案用紙を持っている。
「国語。」
「そんな悪かった?」
「五十八。」
「うーん……。」
天堂は少しだけ考えるような顔をした。
「数学百点やろ?」
「だから余計にへこむ。」
「まあ、その気持ちは分からんでもない。」
「天堂は?」
「まだ全部終わってへん。」
そう言って、自分の机へ戻る。
将太も残りの理科と社会を採点した。
理科、七十二。
社会、六十五。
決して悪い点数ではない。
けれど、胸を張れる点数でもなかった。
赤ペンを置き、五教科を並べる。
数学 百点
英語 六十一点
国語 五十八点
理科 七十二点
社会 六十五点
数字だけ見れば、得意不得意がはっきりしている。
まるで、一人だけ飛び抜けて強い選手がいて、あとの四人は平均以下。
そんなチームだった。
「終わった。」
天堂の声が聞こえる。
将太は顔を上げた。
「どうだった?」
「ぼちぼち。」
「『ぼちぼち』って何点?」
天堂は苦笑しながら答案を重ねる。
「数学、八十四。」
「高いじゃん。」
「お前の百点のあとやと、高く感じへん。」
「それは比較対象が悪い。」
「英語、八十二。」
「おお。」
「国語、七十八。」
「え。」
「理科、七十六。」
「うん。」
「社会、七十九。」
将太は思わず黙った。
どの教科も極端に高くはない。
でも、どの教科も崩れていない。
「合計は?」
天堂が電卓を押す。
「三九九。」
「……高。」
「まあ、悪くはないかな。」
将太も自分の点数を足してみる。
電卓の表示は、三五六。
四十三点差。
数学では十六点勝っている。
それなのに、合計では大きく負けていた。
「そんなに違うか。」
思わず声が漏れる。
天堂は肩をすくめた。
「受験って、結局五教科やからな。」
何気ない一言だった。
けれど、その言葉が妙に胸へ残る。
将太はもう一度、自分の答案を見つめた。
数学だけが、浮いて見える。
黒い羽織の青年が静かに口を開いた。
「ようやく見えたか。」
将太は心の中で答える。
(何が。)
「お前は、百点を取った。」
(そうだ。)
「だが、勝ってはおらぬ。」
将太は何も言えなかった。
青年は答案用紙へ目を向ける。
「一軍がいかに強くとも、他が崩れれば軍は敗れる。」
その言葉は昨日よりも、すっと胸に入ってきた。
数学は強い。
それは間違いない。
だが。
英語。
国語。
理科。
社会。
そこが崩れれば、総合点では勝てない。
当たり前のことだった。
なのに、将太は今まで本気で考えたことがなかった。
「綾小路。」
天堂が問題冊子を持って近づいてくる。
「理科の最後なんやけど。」
「ん?」
「これ、解答おかしくない?」
将太は冊子を受け取り、式を書き始めた。
二人で問題を見比べる。
「やっぱり。」
将太が言う。
「条件やと、こっちになる。」
「やんな。」
天堂は少し嬉しそうに笑った。
「先生に聞いてみよか。」
「そうだね。」
二人はそろって教卓の方へ歩き出す。
黒い羽織の青年は、その後ろを静かについてきていた。
何も言わず。
ただ将太の歩幅に合わせるように。
教卓の前には、小さな列ができていた。
「先生、この理科なんですけど。」
天堂が問題冊子を開く。
将太も横から覗き込んだ。
講師は解答を見比べ、数秒考える。
「なるほど……。」
赤ペンで問題文に印を付けた。
「確かに、この条件なら別解が成立するね。」
「じゃあ、正解ですか?」
「本部に確認してみる。いいところに気づいたな。」
天堂が将太を見る。
「やっぱ数学強いな。」
「たまたまだよ。」
「その『たまたま』、何回聞いたやろ。」
二人は苦笑しながら席へ戻った。
その時だった。
「自己採点が終わった人から、こちらへ。」
講師がホワイトボードの横を指差す。
そこには、クラス全員分の記入用紙が置かれていた。
名前。
五教科。
合計点。
誰が何点だったのか、一目で分かるようになっている。
教室の空気が少しだけ重くなる。
高得点でも書きづらい。
低得点ならなおさらだ。
将太はペンを持ち、自分の点数を書き込んだ。
数学 100
英語 61
国語 58
理科 72
社会 65
合計 356
数字を書き終えた瞬間、妙に現実味が増した。
答案用紙を見ているだけの時とは違う。
三百五十六点。
それが、今の自分だった。
将太は列を離れる。
入れ替わるように天堂が前へ出た。
八十四。
八十二。
七十八。
七十六。
七十九。
合計、三百九十九。
やはり高い。
突出してはいない。
それでも、どの教科も大きく崩れない。
その安定感が、四十三点という差を生んでいた。
黒い羽織の青年が静かに言う。
「強き軍とは、一人の英雄ではない。」
将太は答えない。
「崩れぬ軍だ。」
その言葉だけが胸に残った。
教室の後方で椅子を引く音がした。
将太は何気なく振り返る。
一人の男子が静かに席へ座る。
昨日、模試会場で見かけた少年だった。
誰とも話さない。
机へ問題冊子を広げ、淡々と赤ペンを走らせている。
その背後には、長衣をまとい羽扇を持った男が立っていた。
昨日と同じ姿。
静かに少年を見守っている。
将太は思わず見入った。
すると、羽扇の男がゆっくり顔を上げる。
一瞬だけ。
将太と目が合った。
それだけだった。
男は何も言わず、再び少年の答案へ視線を戻す。
「……。」
将太は胸の奥がざわつくのを感じた。
あの男も、自分が見えていることを知っている。
そんな気がした。
「綾小路。」
講師の声が響く。
「今回の模試で一番大事なのは、順位じゃない。」
教室が静かになる。
「自分の弱点を知ることだ。」
将太は机の上の答案へ目を落とした。
数学は百点。
英語は六十一点。
国語は五十八点。
今までなら、百点だけを見て満足していた。
けれど今日は違う。
目が向くのは、赤い斜線が並ぶ英語と国語だった。
青年は何も言わない。
その沈黙が、かえって将太には痛かった。
――受験は、一教科では勝てない。
その当たり前の事実を、将太は初めて自分の敗北として受け止めていた。




