第4話 空席
# 第四話 空席
「そこまでです。鉛筆を置いてください」
試験監督の声が教室に響いた。
一斉に鉛筆が止まる。
張り詰めていた空気が、少しだけ緩んだ。
椅子へ深く座り直す音。
小さく息を吐く音。
答案用紙を前へ送る音。
誰もが、五十分間の緊張から解放されていた。
ただ一人を除いて。
綾小路将太は、机へ置いた両手を動かせずにいた。
試験は終わった。
それなのに。
教室の中に立つ"彼ら"は、まだ消えていない。
甲冑姿の武将。
数珠を手にした僧。
白い衣をまとった老人。
長い髪を垂らした女。
試験中は、それぞれの受験生だけを見つめていたはずだった。
今は違う。
少しずつ。
本当に少しずつ。
視線が将太へ集まり始めている。
目が合う。
慌てて逸らす。
もう一度見る。
まだ見ている。
将太の背中へ、冷たい汗が流れた。
「答案用紙、後ろから回してください」
試験監督の声で我に返る。
将太は答案を前へ送り、深く息を吐いた。
もう一度だけ教室を見回す。
さっきまでいた武将が消えている。
代わりに、僧が薄くなっていく。
老人も。
女も。
輪郭がぼやけ、光へ溶けるように姿を消していく。
まるで役目を終えたかのようだった。
最後まで残っていたのは、一人だけ。
黒い羽織の青年。
青年は将太を見ていなかった。
教室の一番後ろ。
誰も座っていない席を見つめている。
将太も、その席へ目を向けた。
空席。
試験が始まる前、青年が座っていた席。
受験番号札だけが机の上に置かれている。
最初から誰も来なかったのだろう。
それだけの席だ。
……そう思うのに。
なぜか、その席だけが妙に気になった。
青年が、小さく呟く。
「空席か。」
将太は耳を疑った。
初めてだ。
青年が独り言のように言葉を漏らしたのは。
将太は周囲を見回す。
誰も反応しない。
やはり聞こえているのは自分だけだった。
将太は席を立ち、最後列へ歩いた。
試験監督は答案を数えている。
周りの受験生たちは答え合わせを始めていた。
誰も将太を気にしていない。
青年との距離が縮まる。
あと一歩。
「なあ。」
青年は振り向かない。
「空席って何なん?」
返事はない。
「聞こえてるやろ。」
沈黙。
将太は肩をすくめた。
「答えたくないなら、それでもいいけど。」
青年は静かに空席を見つめたまま、ようやく口を開く。
「知らぬ方がよいこともある。」
「いや、それ一番気になる言い方やん。」
青年は答えない。
将太は苦笑した。
怖い。
怖いはずなのに。
この人と話していると、妙に調子が狂う。
まるで学校の先生でもなく。
親でもなく。
年上の変わった先輩と話しているような感覚だった。
「じゃあ質問変える。」
将太は青年を見た。
「俺に何が見えてる?」
青年は初めて将太へ視線を向ける。
細い目。
感情の読めない表情。
その視線だけで、教室の空気が少し冷えた気がした。
「……見えているのではない。」
短く、それだけ言う。
「は?」
「お前は。」
青年は少しだけ口元を緩めた。
「見つけられている。」
将太は言葉を失った。
「見つけられている。」
青年の言葉が、胸の奥へ重く沈んだ。
将太は何か言い返そうと口を開く。
だが、その前に試験監督の声が響いた。
「休憩は十五分です。次は英語になります。席を離れる人は、受験票を机に置いたままにしてください」
一斉に椅子が引かれる。
教室が一気に騒がしくなった。
青年の姿をもう一度見ようとした時には、もう最後列には誰もいなかった。
「……また消えた。」
将太は小さく息を吐く。
どこへ行ったのか分からない。
気配だけが、まだ教室のどこかに残っている気がした。
英単語帳を取り出そうとした、その時だった。
「綾小路。」
不意に名前を呼ばれる。
顔を上げると、教室の入口に天堂蓮が立っていた。
「ちょっとええ?」
将太は一瞬きょとんとした。
「俺?」
「せや。他に綾小路おらんやろ。」
天堂は問題冊子を片手に近づいてくる。
模試の順位表では何度も名前を見ている。
塾でも有名な存在だ。
けれど、まともに話すのはこれが初めてだった。
「数学、得意なんやろ?」
「まあ……。」
「最後の証明なんやけど。」
天堂は問題冊子を開く。
「補助線、どこ引いた?」
将太は図を覗き込んだ。
天堂の解答は途中まで合っている。
あと一本。
たった一本足りないだけだった。
「ここ。」
将太は指で図をなぞる。
「この点と、この点を結ぶ。」
天堂は数秒間、図を見つめた。
「あ。」
目が少し大きくなる。
「なるほど。」
そう言うと、自分の解答を見比べ、小さく笑った。
「惜しかったな。」
「途中までは合ってる。」
「一番悔しいやつや。」
「でも考え方は合ってるから。」
「慰めてくれてんの?」
「いや、本当に。」
天堂は問題冊子を閉じた。
「ありがとう。」
「うん。」
「やっぱ噂どおりやな。」
「噂?」
「数学だけ異様に強いって。」
「異様って何。」
「褒め言葉や。」
天堂は笑った。
将太もつられて笑う。
思っていたより話しやすい。
もっと近寄りがたい奴かと思っていた。
「ほな、また。」
天堂は軽く手を上げ、自分の席へ戻っていく。
その背中を見送ろうとした瞬間。
将太の視線が止まった。
三人。
やはり、いた。
赤黒い鎧をまとった武将。
黒い法衣をまとった僧。
そして、その後ろ。
輪郭の曖昧な、顔のない影。
三つの存在が、天堂のすぐ背後を歩いている。
誰も気づかない。
天堂自身も。
普通に歩き、席へ座り、英単語帳を開く。
何事もない。
将太だけが、その異様な光景を見ていた。
「……何なんだよ。」
思わず呟く。
その時。
黒い羽織の青年が、いつの間にか教室の窓際に立っていた。
腕を組み、天堂を見つめている。
その表情から、いつもの余裕は消えていた。
将太は小さく息をのむ。
青年が初めて見せる顔だった。
警戒。
あるいは――確認。
そんな表情だった。
将太は心の中で問いかける。
(あいつが、どうかしたのか。)
青年は答えない。
ただ、一度だけ目を細める。
そして、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
「……違う。」
その一言だけだった。
何が違うのか。
誰が違うのか。
将太には分からない。
ただ一つだけ確かなのは、青年の視線が天堂から一瞬たりとも離れなかったことだった。
休憩時間が終わる。
英語。
国語。
理科。
試験は予定どおり進んでいった。
将太は問題を解きながらも、何度も教室を見回した。
あの武将たちは、またそれぞれの受験生の背後に立っている。
試験が始まれば現れ、終われば薄れていく。
まるで、それが当たり前であるかのように。
黒い羽織の青年だけは違った。
教室のどこへいても、最後には必ず天堂へ視線を向ける。
それ以上は何も言わない。
将太が心の中で問いかけても、返事はなかった。
◇
最後の試験が終わる頃には、西日が校舎を赤く染めていた。
廊下には受験生があふれ、あちこちで答え合わせが始まる。
「英語どうやった?」
「長文、時間足りんかった」
「理科は去年より難しくない?」
そんな声が飛び交う中、将太は一人で階段を下りた。
「綾小路。」
後ろから呼び止められる。
振り返ると、天堂がリュックを肩に掛けながら歩いてきた。
「さっきはありがとう。」
「いや。」
「証明、帰ったらもう一回解いてみるわ。」
「たぶん解けるよ。」
「『たぶん』が信用できへんねん。」
天堂は苦笑した。
「また塾で。」
「うん。」
それだけ言うと、二人は校門へ向かって並んで歩き始めた。
特別に仲がいいわけではない。
けれど、さっきより少しだけ距離は縮まっていた。
校門を出る。
夕方の風が頬をなでる。
道路には保護者の車が並び、受験生たちが駅へ向かって歩いていく。
どこにでもある、試験帰りの風景だった。
その時だった。
天堂の足が止まる。
「……。」
将太も立ち止まった。
「どうした?」
天堂は答えない。
道路の向こうをじっと見つめている。
「天堂?」
「……いや。」
小さく首を振る。
「今。」
一拍置いて、呟く。
「誰か、おらんかった?」
将太は視線を追った。
歩道。
自転車。
信号待ちをする人たち。
特に変わったものは見当たらない。
「誰もいないけど。」
「……せやんな。」
天堂は少し困ったように笑った。
「疲れてるだけか。」
「模試やったしね。」
「頭使いすぎたわ。」
そう言って歩き出す。
いつもの天堂に戻ったように見えた。
将太は何となく振り返る。
黒い羽織の青年が、校門の前に立っていた。
こちらを見ているのではない。
天堂を見ているのでもない。
道路の向こう。
誰もいないはずの場所へ、静かに視線を向けていた。
その横顔からは、いつもの余裕が消えている。
将太は声を潜めた。
「何かいるのか。」
青年は答えない。
ただ一度だけ、目を細める。
その視線の先で、夕暮れの影が風に揺れた。
人影だったようにも見えた。
次の瞬間には、もう何もない。
将太は目を凝らした。
見間違いだったのか。
それとも。
青年は小さく息を吐き、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……始まったか。」
その意味を、将太はまだ知らなかった。




