第4話 試験後の怪物たち
第四話 試験後の怪物たち
『試験終了です。鉛筆を置いてください』
その声が流れた瞬間、教室の空気が崩れた。
張り詰めていたものが、一気にほどける。
ため息。
椅子を引く音。
問題用紙を閉じる音。
小さな答え合わせの声。
「最後の図形、やばくね?」
「いや、あれ補助線一本だろ」
「大問三、時間足りんかった」
「詰んだわ」
普通の模試後。
いつもなら、将太もその中に混ざっていたはずだった。
できた問題。
落とした問題。
偏差値。
志望校判定。
そういう話だけをして、帰ればよかった。
だが、もう普通には見えなかった。
机から立ち上がる生徒たちの背後に、影がいる。
薄い影。
濃い影。
消えかけている影。
試験中より、少しだけ輪郭がはっきりした影。
勝った者は濃くなり、折れた者は薄くなっているように見えた。
「……模試って、こんなに疲れるものだったか」
将太は小さく呟いた。
『普通の模試ならな』
横で三成が言った。
『今日は、見すぎた』
「見たくて見たんじゃない」
『それでも、見たことになる』
三成の声は淡々としていた。
将太は問題用紙を閉じた。
余白に浮かんでいた黒い文字は、もう消えている。
――空席を埋めるな。
――借りるだけなら、構わない。
あれは何だったのか。
誰が書いたのか。
考えるだけで、頭の奥が重くなる。
教室を出ると、廊下は受験生で溢れていた。
天神の模試会場。
古いビルの一階から五階までを借りた、休日だけの試験空間。
階段には親たちが待っている。
エレベーター前では塾講師が生徒をつかまえている。
ロビーには、すでに答え合わせを始めている集団もいた。
福岡の普通のビルの中に、全国を意識した子どもたちが集められている。
その歪さが、今の将太には妙に怖かった。
ロビーの一角が、少しだけ明るかった。
人が集まっている。
「心陽ちゃん、今日も受けてたんだ」
「最後の問題、どうやった?」
「このあと撮影?」
「写真って無理だよね?」
如月心陽がいた。
長い髪。
整った顔。
自然な笑顔。
彼女は無理に目立とうとしていない。
それなのに、そこだけ光が当たっているように見えた。
心陽の背後には、スポットライトの中で微笑む女の影が立っていた。
歓声。
拍手。
無数の視線。
そういうものを食べているような影だった。
『強いな』
三成が呟いた。
「誰なんだよ、あれ」
『本体ではない。だが、かなり濃い』
「本体?」
『今は知らなくていい』
三成はすぐに切った。
将太は心陽の背後を見た。
女の影は笑っている。
だが、その輪郭の一部が、ほんの少し欠けているように見えた。
右肩のあたり。
光が当たっているはずの場所だけ、薄い。
「……欠けてる」
『何?』
三成が珍しく反応した。
「いや、あの影。少し欠けてないか」
三成の目が細くなる。
心陽の背後の女が、ゆっくり将太を見た。
笑顔のまま。
目だけが冷たい。
『見るな』
三成が低く言った。
将太は慌てて視線を外した。
その瞬間、肺に空気が戻ってくる。
知らないうちに、息を止めていたらしい。
「今の、何だよ」
『見られることに慣れた存在は、見返す力も強い』
「意味わかんねぇ」
『人気というのは、優しい力じゃない。集める。縛る。飲み込む』
将太はもう一度だけ、心陽を見た。
彼女自身は普通に笑っている。
周囲の生徒たちに、丁寧に答えている。
だが将太には、その背後の欠けた影だけが頭に残った。
綺麗なのに、どこかおかしい。
その時、ロビーの空気が重くなった。
天堂蓮が階段から降りてきた。
周囲の生徒たちが、自然に道を空ける。
誰も指示していない。
だが、空気でわかる。
近づきたくない。
逆らいたくない。
でも、見てしまう。
天堂はポケットに手を入れたまま歩いていた。
笑っている。
模試が終わったことなど、どうでもよさそうだった。
その背後で、炎のような影が揺れている。
信長。
正確には、信長と呼ぶしかない何か。
教室の中では巨大に見えたその影が、ロビーでは少し薄くなっていた。
それでも、十分すぎるほど濃い。
「……怖ぇ」
将太は思わず漏らした。
三成が鼻で笑う。
『だから人が道を空ける』
「本人は気づいてるのか?」
『おそらく何も見えていない』
「じゃあ、あの空気は?」
『本人の資質と、後ろのものが混ざっている。どちらが先かは、場合による』
天堂が通り過ぎる。
その瞬間、彼がふと足を止めた。
将太の方を見る。
「なあ」
将太は固まった。
天堂は、にっと笑った。
「さっきの図形、できた?」
「……普通」
「嘘つけ」
天堂の目だけが笑っていなかった。
「お前、途中で変な顔してた」
「見てたのかよ」
「見えた」
その言葉に、将太の背中が冷える。
天堂は肩をすくめた。
「いや、答案じゃなくてさ。なんか、空気が変わった」
三成の表情が険しくなる。
天堂本人に、影は見えていない。
だが、完全に鈍いわけでもない。
天堂は将太の顔を少し覗き込んだ。
「お前、どこの塾?」
「……言う必要ある?」
「ないけど、気になった」
その背後で、炎の影が笑った。
『空いておる』
将太の手が冷たくなる。
天堂本人は、何も聞こえていないようだった。
「また会いそうだな」
天堂はそれだけ言って、ロビーの出口へ歩いていった。
人の流れが、また自然に割れる。
将太は息を吐いた。
『近づくな』
三成が言った。
「向こうから来たんだろ」
『なら、なおさらだ』
その直後、廊下の反対側が静かになった。
森岡悠真が歩いていた。
黒縁メガネ。
小柄な体。
きちんと閉じられた問題冊子。
周囲の生徒たちが、天堂の時とは違う理由で距離を取っている。
怖いからではない。
邪魔をしてはいけないものを見るような距離だった。
悠真本人は、何も気にしていない。
ただ、まっすぐ歩いている。
その背後で、孔明が静かに羽扇を持っていた。
天堂の影とは違う。
熱くない。
荒くない。
だが、深い。
水の底のような静けさだった。
『あれは深いな』
三成が言った。
「深い?」
『繋がりが強い。単に後ろにいるだけではない』
「悠真は気づいてるのか?」
『まだ、わからん』
悠真が、将太の横を通り過ぎようとした。
その時、ほんの一瞬だけ足を止めた。
将太を見た。
いや。
将太の顔ではなく、将太の少し後ろを見たように感じた。
三成の方。
だが悠真の目に、三成が映っている様子はない。
「綾小路くん」
名前を呼ばれて、将太は息を呑んだ。
「……俺の名前、知ってるの?」
「成績表で見たことがある」
悠真の声は静かだった。
威圧感はない。
だが、余計なものがない。
「さっき、図形で手が止まってた」
将太は答えなかった。
悠真は続ける。
「その後、急に解き方が変わった」
心臓が跳ねた。
見られていた。
答案を見られたわけではない。
だが、戦い方を見られていた。
「……何が言いたいんだよ」
「別に」
悠真は少しだけ首を傾げた。
「ただ、不思議だった」
それだけ言うと、悠真は歩き出した。
だが、背後の孔明だけが、将太を見ていた。
静かな目。
観察。
分析。
測定。
その視線が通り過ぎた瞬間、将太の頭の奥に、言葉ではない感覚が残った。
――借りたな。
将太の喉が鳴る。
三成が小さく舌打ちした。
『気づかれている』
「悠真に?」
『孔明にだ』
将太は、出口へ向かう悠真の背中を見た。
同じ中学生。
同じ模試を受けた受験生。
だが、背負っているものが違いすぎた。
ロビーの外では、親たちが子どもを待っている。
母・康子も人混みの中にいた。
将太を見つけて、少し安心した顔をする。
「将太、どうだった?」
いつもの声。
いつもの母親。
その声を聞いた瞬間、将太は少しだけ現実に戻った。
「普通」
「普通って、できたの? できなかったの?」
「……あとで」
康子は眉をひそめたが、それ以上は聞かなかった。
ビルの外に出る。
天神の午後は、人が多かった。
バスの音。
信号の電子音。
地下街へ降りていく人の流れ。
買い物袋を持つ親子。
制服姿の高校生。
観光客。
さっきまで怪物たちがいた会場の外には、普通の日常が広がっている。
だが将太には、もうその日常も少し違って見えていた。
人の背後に、うっすらと何かが見える。
会社員の後ろに、疲れた影。
若い男の後ろに、派手な成功者の影。
母親の後ろに、子どもを抱える大きな影。
全員が何かを背負っている。
何かになろうとしている。
何かに縛られている。
その中で、将太だけが空いている。
「なあ、三成」
『何だ』
「なんでお前、俺のそばにいるんだ」
三成はすぐには答えなかった。
ビルの壁にもたれ、行き交う人々を見ている。
信長のような覇気はない。
孔明のような完成された静けさもない。
心陽の背後にいた女のような輝きもない。
ただ、どこか孤独だった。
『最初は、同じだと思った』
「同じ?」
『俺と同じ、見る側だと』
「ウィットネスってやつか」
三成は将太を見た。
『だが、違うかもしれない』
「何が」
『俺は、戦に入れない。見ることしかできない』
三成の声は淡々としていた。
『だが、お前は違う。お前は、借りた』
将太は黙った。
あの図形問題。
孔明の声。
勝てる場所を探す感覚。
あれは確かに、自分の中に入ってきた。
『見るだけの者は、奪われない』
三成が言った。
『だが、通せる者は危ない』
「通せる?」
『空席だからだ。誰も座っていない。だから、一瞬だけ誰かを座らせることができる』
「それって、便利じゃん」
『便利なものほど、人を殺す』
三成の声が低くなった。
『一度でも強い型を借りれば、自分の弱さが耐えられなくなる。次も借りたくなる。もっと深く借りたくなる。最後には、自分がどこにいたのかわからなくなる』
将太は何も言えなかった。
天神の交差点で、信号が青に変わる。
人の波が動き出す。
康子が少し先で振り返った。
「将太、行くよ」
「うん」
将太は歩き出そうとした。
その時、三成が小さく呟いた。
『空席は、奪い合われる』
将太は足を止める。
「奪い合うって、誰が」
三成は答えなかった。
ただ、視線を人混みの向こうへ向けた。
そこに、一人の男が立っていた。
黒いコート。
この季節には少し早い、重そうな黒。
顔は見えない。
だが将太にはわかった。
その男の後ろには、何もいなかった。
何もいない。
それなのに。
その場所だけ、人の流れが避けていた。
三成の表情が変わった。
初めて見る顔だった。
恐怖に近い。
『……見るな』
「誰だよ、あれ」
『見るなと言っている』
黒いコートの男が、ゆっくり顔を上げた。
将太を見ている。
いや。
将太の中にある、空席を見ている。
次の瞬間、人混みが流れた。
バスが通り過ぎる。
男の姿は消えていた。
康子の声が聞こえる。
「将太?」
将太は動けなかった。
三成が、低く言った。
『まずいな』
「何が」
『空席を探しているのは、憑きだけではない』
天神の午後の喧騒が、遠くなる。
将太は、黒いコートの男が立っていた場所を見つめた。
そこにはもう、誰もいない。
だが、足元に小さな紙片が落ちていた。
将太は拾った。
白い紙。
そこに、黒い文字が一つだけ書かれていた。
――二人目。
意味はわからない。
けれど、三成の顔を見れば十分だった。
これは、ただの模試の続きではない。
もう、戦場は教室の外に出ていた。




