↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
憑いてる。  作者: 受験孔明
目覚め
PR
3/82

第3話 弱兵

# 第三話 弱兵


 翌週。


 将太は、いつも通り学校へ向かっていた。


 朝の空気は冷たくなっていた。


 吐く息が少し白い。


 十一月も終わりに近づき、冬の気配が少しずつ濃くなっている。


 通学路には、マフラーを巻いた生徒が増えていた。


「眠い……」


 隣を歩く来海が、大きなあくびをした。


「昨日何時まで起きとったん?」


「十二時」


「普通やん」


「普通じゃない。受験生としては終わっとる」


「お前、毎日そんなこと言ってるやん」


「毎日反省してる」


「改善は?」


「してない」


 将太は笑った。


 いつもの会話。


 いつもの朝。


 あれから数日。


 最初ほどの混乱はなくなっていた。


 背後にいる存在。


 誰かに憑いているように見えるもの。


 そして。


 自分には何もいないこと。


 それにも少しずつ慣れてきた。


 ただ。


 完全に慣れたわけではない。


 街を歩けば見える。


 学校へ来れば見える。


 以前なら気にも留めなかったものが、今は嫌でも目に入る。


 誰かを見守る影。


 誰かに寄り添う存在。


 誰かを導くように立つ者。


 それぞれ違う。


 でも。


 共通していることが一つあった。


 誰かには、何かがいる。


 そして。


 自分には、何もいない。


「将太?」


 来海の声で我に返る。


「何ぼーっとしてるん?」


「いや」


 将太は前を見る。


「何でもない」


 まだ話せない。


 こんなことを言っても、信じてもらえるわけがない。


 幽霊が見える。


 人の後ろに誰かがいる。


 そんな話をすれば、心配されるか、笑われる。


 自分でも、逆の立場ならそうする。


「今日、数学あるやん」


 来海が言った。


「あるね」


「また当てられるんじゃない?」


「何で?」


「先生、将太好きやん」


「迷惑」


「できる奴は大変やな」


「できるっていうか、数学だけ」


 将太はそう答えた。


 本当にそう思っていた。


 数学だけ。


 それ以外は普通。


 特別な人間ではない。


 だからこそ。


 余計に分からなかった。


 なぜ自分なのか。


 なぜ。


 何も持たない自分が、彼らを見る側なのか。


     ◇


 五時間目。


 数学の授業。


 黒板には二次関数の問題が書かれていた。


「この問題、誰か解けるか」


 教師が教室を見渡す。


 何人かが目を逸らす。


 少し難しい問題だった。


「綾小路」


「やっぱり俺ですか」


 教室に笑いが起こる。


 将太は立ち上がった。


 黒板の前へ行く。


 問題を見る。


 条件を整理する。


 すぐに道筋が見えた。


 式を書く。


 グラフを書く。


 答えを出す。


「はい」


 教師が頷いた。


「正解」


 将太はチョークを置いた。


 席へ戻ろうとする。


 その時。


 教室の隅に目が止まった。


 一人の男子生徒の後ろ。


 小さな子どもの姿があった。


 ランドセルを背負っている。


 この学校の制服ではない。


 もっと幼い。


 その子どもは、男子生徒の背中をじっと見ていた。


 悲しそうな顔。


 寂しそうな顔。


 将太は足を止めた。


 今まで見えた存在とは違う。


 武将でもない。


 老人でもない。


 ただの子ども。


 男子生徒は、授業中なのに何度も小さくため息をついている。


 ノートには、途中で止まった文字が残っていた。


 教師の説明を聞いているようで、どこか上の空だった。


 子どもの影は、その背中に寄り添っている。


 まるで。


 何かを伝えようとしているように。


「綾小路」


 教師の声。


「戻れ」


「あ、はい」


 将太は慌てて席へ戻った。


 隣の来海が小声で言う。


「また見てたやろ」


「何を?」


「最近のお前、変」


 将太は苦笑した。


「そうかも」


 否定できなかった。


 自分でも分かっている。


 世界の見え方が変わってしまった。


 前なら気づかなかったこと。


 見ようともしなかったこと。


 今は見える。


 そして。


 見えてしまうからには。


 知らないふりができなくなっていた。


     ◇


 放課後。


 将太は一人で校門を出た。


 今日は塾の日ではない。


 珍しく、まっすぐ帰る予定だった。


 夕方の道路。


 車の音。


 人の話し声。


 いつもの街。


 その中で。


 また見える。


 人々の背後にいる存在。


 しかし。


 今日はいつもと違った。


 一人の女性の背後。


 薄い影が立っている。


 その影は、女性を守るように寄り添っていた。


 その隣を歩く男性の背後には、何もいない。


 さらに前を歩く老人には、白い衣の人物がいる。


 将太は歩きながら考えた。


 なぜ違う。


 何が基準なのか。


 成績?


 才能?


 努力?


 それとも。


 もっと別の何か。


 その時。


 後ろから声がした。


「やっぱり、お前は面白いな」


 将太が振り返る。


 誰もいない。


 でも。


 声は分かった。


 黒い羽織の青年。


「どこにいるんだよ」


 将太が呟く。


『どこでもない』


 頭の中へ声が響く。


『私は場所に存在しているわけではない』


「意味分からん」


『そのうち分かる』


「そればっかりやん」


 返事はない。


 将太はため息をついた。


「観測って何だよ」


 少し間があった。


 そして。


『お前が何者なのかを見ることだ』


 将太は立ち止まった。


『そして』


『なぜ、お前には誰も憑かないのかを確かめることだ』


 風が吹いた。


 街路樹の葉が揺れる。


 将太は自分の背後を見る。


 何もない。


 いつもの空白。


 だが。


 その空白が。


 今までより少しだけ怖く感じた。


 その日の夜。


 将太は机に向かっていた。


 数学の宿題。


 英語の単語帳。


 社会の暗記プリント。


 いつもなら、順番を決めて淡々と片づける。


 数学から始める。


 得意だから。


 早く終わるから。


 そのあと、苦手な教科へ移る。


 それが将太のやり方だった。


 しかし。


 今日は数学の問題集を開いたまま、手が止まっていた。


 問題は難しくない。


 解こうと思えばすぐ解ける。


 でも。


 頭の中に別のことが浮かぶ。


 弱い。


 あの青年はそう言った。


 何度も。


 自分は弱い。


 その言葉が妙に引っかかっていた。


「……何が弱いんだよ」


 小さく呟く。


 数学なら負けない。


 模試でも上位に入る。


 友達に教えることもできる。


 普通に考えれば、十分な武器だ。


 なのに。


 あの青年は否定した。


 速いだけでは足りない。


 答えを見るだけでは足りない。


 それはつまり。


 自分には足りないものがあるということだ。


「分からん」


 将太は椅子にもたれた。


 数学の問題なら。


 分からない部分を探せばいい。


 条件を整理すればいい。


 でも。


 自分自身の問題は。


 どこが分からないのかすら分からない。


 その時。


 部屋の空気が少し変わった。


 窓は閉まっている。


 風もない。


 それなのに。


 カーテンがわずかに揺れる。


「……また?」


 将太はゆっくり振り返った。


 誰もいない。


 机。


 本棚。


 ベッド。


 いつもの部屋。


 ただ。


 鏡だけが少し違って見えた。


 姿見。


 自分の姿が映っている。


 そして。


 その後ろ。


 何もない空間。


 将太は息を止めた。


 そこには何もいない。


 いつも通り。


 でも。


 今までとは違った。


 空白が。


 ただの空白ではなく感じる。


 何かがいるのではない。


 何かがいない。


 そのこと自体が、不自然だった。


 将太は鏡から目を逸らした。


 考えても分からない。


 今は勉強するしかない。


 そう思った。


     ◇


 翌日。


 学校では、いつも通り授業が進んだ。


 だが。


 将太の見方は変わっていた。


 以前なら。


 友達を見る。


 先生を見る。


 教室を見る。


 それだけだった。


 今は。


 その後ろを見る。


 誰かがいるか。


 何をしているか。


 自然と確認してしまう。


 そして。


 気づいた。


 背後の存在には、違いがある。


 ただ憑いているだけではない。


 関係がある。


 昼休み。


 将太は窓際で弁当を食べながら、教室を眺めていた。


 前の席の男子。


 その背後には、小さな老人がいる。


 いつもその男子が失敗すると、首を横に振っている。


 まるで。


 叱っているようだった。


 別の女子。


 その背後には、若い女性の影。


 その女子が悩んでいる時だけ、近くへ寄る。


 そして。


 クラスで一番成績のいい男子。


 その背後には。


 何もいなかった。


 将太は目を細める。


「……」


 例外。


 いる。


 何かがいる人。


 何もいない人。


 違いは何だ。


 考えていると。


「将太」


 来海が声をかけてきた。


「また難しい顔してる」


「そう?」


「最近ずっと」


「考え事」


「珍しい」


「俺だって考える」


「数学以外で?」


「失礼やな」


 来海が笑う。


 将太も笑った。


 こういう時間は普通だった。


 何も変わっていない。


 変わったのは。


 自分の見ている世界だけだ。


     ◇


 放課後。


 将太は図書室へ向かった。


 調べたいことがあった。


 もちろん。


 幽霊についてではない。


 そんな本を探すつもりはない。


 ただ。


 歴史。


 昔の人物。


 古い記録。


 何となく気になった。


 なぜなら。


 見える存在たちには、共通点があった。


 服装。


 持ち物。


 雰囲気。


 現代の人間ではない。


 つまり。


 彼らは昔の人間なのではないか。


 そう考えた。


 本棚を眺める。


 日本史。


 人物伝。


 戦国時代。


 江戸時代。


 仏教。


 様々な本が並んでいる。


 手に取る。


 ページをめくる。


 だが。


 答えは見つからない。


「何探してるん?」


 突然、後ろから声がした。


 振り返る。


 悠真だった。


「びっくりした」


「こっちのセリフ」


「何で図書室?」


「将太がいる方が珍しい」


「まあ」


 将太は本を閉じた。


「ちょっと調べ物」


「何を?」


 一瞬迷う。


 でも。


 悠真なら。


 少しくらい話してもいい気がした。


「昔の人について」


「歴史?」


「そんな感じ」


 悠真は首を傾げた。


「急に?」


「何となく」


「将太が歴史に興味持つ日が来るとは」


「失礼」


 二人で笑う。


 その時。


 将太は見た。


 悠真の背後。


 白い衣の老人。


 いつものように立っている。


 しかし。


 今日は違った。


 老人は将太を見ていた。


 初めてではない。


 でも。


 今までとは明らかに違う。


 警戒している。


 そんな目だった。


 将太は息を止めた。


 老人も。


 自分を見ている。


 見えるだけではない。


 向こうも認識している。


 その瞬間。


 白い衣の老人が、ゆっくり口を開いた。


 声は聞こえない。


 でも。


 唇の動きだけで分かった。


「……観測者」


 将太の背中に寒気が走った。


 将太は動けなかった。


 悠真は何も気づいていない。


 図書室の静かな空気の中で、ページをめくる音だけが響いている。


「どうした?」


 悠真が不思議そうに聞いた。


「いや……」


 将太は視線を逸らした。


「何でもない」


 本当は聞きたかった。


 今のは何だ。


 なぜ、あの老人は自分を知っている。


 観測者。


 その言葉。


 偶然とは思えなかった。


 黒い羽織の青年も言った。


 自分を観測する。


 そして今。


 悠真の背後にいる存在まで、自分を見ている。


 一体。


 何が起きている。


「将太」


「ん?」


「最近、本当に変だぞ」


 悠真が真剣な顔で言った。


「前から変やけど」


「そこは余計」


「でも」


 悠真は少し間を置いた。


「何か考え込んでる」


 将太は黙った。


 悠真は、人を見る。


 数学の答えではなく。


 相手を見る。


 それが少し分かった気がした。


 以前なら。


 そんなことに気づかなかった。


 でも今は。


 悠真の強さが少し見える。


「……ちょっと気になることがあるだけ」


「言えること?」


「まだ無理」


 悠真は少し笑った。


「そっか」


 追及しなかった。


 その距離感が、将太にはありがたかった。


「でも」


 悠真が続ける。


「困ったら言えよ」


「何で?」


「友達だから」


 簡単な言葉だった。


 でも。


 将太には少し意外だった。


 自分は今まで。


 問題なら一人で解けると思っていた。


 分からないなら考える。


 調べる。


 答えを出す。


 それでいいと思っていた。


 でも。


 人間は問題集ではない。


 答えが書いてあるわけでもない。


 そのことを。


 少しずつ理解し始めていた。


     ◇


 その夜。


 将太は布団に入っても眠れなかった。


 頭の中に浮かぶ。


 白い衣の老人。


 黒い羽織の青年。


 天堂の背後にいた三つの存在。


 そして。


 自分の背後の空白。


 なぜ。


 なぜ自分だけ何もいない。


 それが一番気になった。


 誰かには。


 守る存在がいる。


 導く存在がいる。


 見守る存在がいる。


 なのに。


 自分には何もない。


 強い人間には。


 強い何かがつくのか。


 なら。


 自分は弱いということなのか。


 布団の中で目を閉じる。


 すると。


 頭の中へ声が響いた。


『違う』


 将太は目を開いた。


「……どこ?」


 部屋には誰もいない。


『弱いから何もないのではない』


 黒い羽織の青年。


「じゃあ何で?」


 返事はすぐにはなかった。


 しばらくして。


『まだ、お前には決まった形がないからだ』


「意味分からん」


『当然だ』


 青年の声は静かだった。


『お前は、まだ途中だからな』


 将太は天井を見る。


「途中?」


『人間は完成品ではない』


『才能だけでもない』


『努力だけでもない』


『経験によって形を変える』


 少し間。


『お前はまだ、何者になるか決まっていない』


 将太は黙った。


 不思議だった。


 普段なら。


 こんな曖昧な話は嫌いだった。


 数学のように。


 答えが欲しい。


 理由が欲しい。


 でも。


 今だけは。


 少し分かる気がした。


 自分は中学二年生だ。


 将来のことなんて、まだ全部決まっていない。


 何が得意で。


 何が苦手で。


 どんな人間になるのか。


 分からない。


 だから。


 何もいないのか。


「じゃあ」


 将太は呟く。


「天堂は?」


 青年は答えなかった。


「悠真は?」


 沈黙。


「何であいつらにはいる?」


 しばらくして。


『彼らには、すでに積み重ねたものがある』


「積み重ね?」


『経験』


『信念』


『選択』


『その者を形作るものだ』


 将太は考える。


 天堂。


 全国上位。


 完璧に見える。


 でも。


 それだけではないのかもしれない。


 悠真。


 慎重で。


 努力家で。


 人を見る。


 それも積み重ねなのだろう。


 では。


 自分は。


「俺には何もないってこと?」


 青年の返事は、すぐだった。


『違う』


『お前には』


 一拍。


『空白がある』


 将太の背筋が伸びた。


「空白?」


『そうだ』


『誰の影響も受けていない』


『誰かの形に染まっていない』


『だから観測する価値がある』


 将太は眉をひそめた。


「それ、褒めてる?」


『判断は任せる』


「便利な言葉やな」


 青年は答えなかった。


 将太は少し笑った。


 怖い。


 分からない。


 でも。


 最初ほどではない。


 この青年は。


 少なくとも。


 自分を壊そうとしているわけではない。


 そんな気がした。


 その時。


 窓の外。


 街灯の下に人影が見えた。


 将太は息を止める。


 白い服。


 長い髪。


 駅前で見た少年。


「……」


 少年がこちらを見ていた。


 距離はある。


 声も聞こえない。


 それでも。


 目が合った。


 少年の表情が変わる。


 驚き。


 そして。


 恐怖。


 少年は首を横に振った。


 来るな。


 そう言っているように見えた。


 次の瞬間。


 街灯が一瞬だけ消える。


 再び明かりが戻った時。


 少年の姿はなかった。


「……何なんだよ」


 将太は呟いた。


 黒い羽織の青年は。


 何も答えなかった。


 翌朝。


 将太はいつもより早く目を覚ました。


 理由は分からない。


 ただ。


 眠りが浅かった。


 夢を見ていた気もする。


 でも。


 内容は覚えていない。


 ベッドから起き上がり、カーテンを開ける。


 朝の街。


 いつもと変わらない景色。


 人が歩く。


 車が走る。


 鳥の声が聞こえる。


 平和な朝だった。


 しかし。


 将太には、その景色の裏側が見えてしまう。


 人の背後。


 影。


 存在。


 見えないはずのもの。


 将太は窓から目を逸らした。


「慣れるしかないか」


 そう呟く。


 最初は怖かった。


 今も怖い。


 でも。


 少しずつ分かってきた。


 彼らは。


 ただの恐ろしい存在ではない。


 少なくとも。


 全員が敵というわけではない。


 問題は。


 自分が何なのか。


 そこだけだった。


     ◇


 学校では、朝から数学の小テストがあった。


「昨日の範囲から出すぞ」


 教師が言う。


 教室から小さな声が漏れる。


「聞いてない」


「終わった」


「昨日やったやん」


 来海が小声で言った。


「将太、見せて」


「何を?」


「心の準備」


「意味分からん」


 将太は笑った。


 こういうやり取りは楽だった。


 普通。


 何も考えなくていい時間。


 テスト用紙が配られる。


 問題を見る。


 簡単だった。


 いつもなら。


 すぐに終わらせる。


 でも。


 今日は少し違った。


 一問目。


 二問目。


 三問目。


 答えを書く前に、一度考える。


 この問題は何を求めているのか。


 なぜ、この条件なのか。


 ただ解くだけではなく。


 問題そのものを見る。


 すると。


 今まで見えていなかったものが見えた。


 数学は答えだけではない。


 作った人間の意図がある。


 どこで迷わせるか。


 どこで差をつけるか。


 それも含めて問題なのだ。


「……」


 自分でも少し驚いた。


 昨日までなら。


 そんなことを考えたことはなかった。


 早く解く。


 正解する。


 それが全てだった。


 でも。


 違う。


 速さは武器。


 だけど。


 武器だけでは戦えない。


 そのことを。


 少しだけ理解した。


     ◇


 昼休み。


 将太は一人で廊下を歩いていた。


 購買へ向かう途中。


 階段の踊り場で足を止める。


 そこに。


 一人の女子生徒が座っていた。


 同じ学年。


 名前は知らない。


 俯いている。


 泣いているわけではない。


 でも。


 明らかに元気がない。


 そして。


 その背後。


 小さな影がいた。


 幼い子どもの姿。


 昨日見たものと同じような存在。


 その子どもは。


 女子生徒の肩へ手を伸ばしている。


 でも。


 届かない。


 何度も。


 何度も。


 手を伸ばしている。


 将太は立ち止まった。


「……」


 以前なら。


 通り過ぎていた。


 知らない人だから。


 関係ないから。


 でも。


 今は。


 見えてしまう。


 そして。


 気づいてしまった。


 この子どもは。


 何かを伝えようとしている。


「大丈夫?」


 将太は声をかけた。


 女子生徒が顔を上げる。


「え?」


「いや」


 一瞬迷う。


 理由は言えない。


「何か困ってるように見えたから」


 女子生徒は少し驚いた顔をした。


「……別に」


「そっか」


 それ以上は聞かなかった。


 無理に踏み込むことでもない。


 でも。


 女子生徒は少しだけ笑った。


「ありがとう」


 その瞬間。


 背後の子どもの姿が薄くなった。


 消える直前。


 将太を見た。


 そして。


 小さく頭を下げた。


 将太は息を呑む。


 彼らは。


 何かを求めている。


 ただ憑いているだけではない。


 誰かを見守る理由がある。


     ◇


 放課後。


 将太は校門を出た。


 その時。


 黒い羽織の青年の声がした。


『今の行動』


 将太は歩みを止めた。


「何」


『以前のお前なら、通り過ぎていた』


 将太は黙る。


『変化している』


「別に」


『認めないのか』


「普通のことしただけ」


『そういうところだ』


 青年が言う。


『お前は自分がしたことの価値を理解していない』


 将太は少し考えた。


「価値?」


『そうだ』


『力とは』


『見えることではない』


『できることでもない』


『どう使うかだ』


 将太は空を見る。


 夕焼け。


 赤い空。


 長い影。


『お前は』


 青年の声が続く。


『少しずつ、人を見るようになっている』


 その言葉に。


 将太は少しだけ驚いた。


 人を見る。


 以前なら。


 意味が分からなかった。


 でも。


 今なら少し分かる。


 問題を見る。


 答えを見る。


 それだけではない。


 その向こうを見る。


 そこに何があるのか。


 誰がいるのか。


 何を抱えているのか。


 それを見る。


 それが。


 今までの自分になかったものなのかもしれない。


 その時。


 前方の交差点。


 一人の少年が立っていた。


 白い服。


 長い髪。


 駅前で見た少年。


 まただ。


 将太の足が止まる。


 少年は将太を見る。


 今度は逃げない。


 ただ。


 悲しそうな目をしていた。


 そして。


 ゆっくり口を動かす。


 声は届かない。


 でも。


 意味だけは伝わった。


 ――近づいてはいけない。


 将太が一歩踏み出した瞬間。


 少年の背後。


 空間が歪んだ。


 黒い影。


 巨大な何か。


 輪郭すら定まらない存在が。


 少年の後ろから現れる。


 少年は振り返らない。


 ただ。


 将太へ向かって叫んでいる。


 声は聞こえない。


 でも。


 口の動きで分かった。


 逃げろ。


 将太の背後で。


 黒い羽織の青年が初めて、低い声を出した。


『……来たか』


 その声には。


 初めて。


 緊張が混じっていた。


 将太は動けなかった。


 交差点の向こう。


 白い服の少年。


 その背後に現れた黒い影。


 今まで見てきた存在とは違う。


 武将でもない。


 老人でもない。


 人の形をしたものですらない。


 ただ黒い。


 大きすぎる。


 輪郭が揺らぎ、周囲の景色まで歪ませている。


 まるで。


 そこだけ世界から切り離されているようだった。


「……何だよ、あれ」


 将太の声が震えた。


 返事はない。


 いつもならすぐに答える黒い羽織の青年も。


 今は黙っている。


 それが余計に怖かった。


 この青年は。


 何でも知っているような口調だった。


 将太が何を考えているのか。


 何が足りないのか。


 何を見るべきなのか。


 まるで最初から分かっているようだった。


 その青年が。


 今。


 警戒している。


 それだけで。


 目の前の存在が普通ではないと分かった。


『動くな』


 低い声が響く。


 将太は息を止めた。


「何で」


『近づけば、お前も認識される』


「もう見えてるだろ」


『違う』


 青年の声が鋭くなる。


『今、あれはお前を見ていない』


 将太は目を細めた。


 確かに。


 黒い影の視線は、こちらではない。


 白い少年だけを向いている。


 少年は動かない。


 逃げない。


 ただ。


 将太へ向かって何かを伝えようとしている。


『あの少年は』


 青年が言った。


『お前を守ろうとしている』


「……俺を?」


『そうだ』


 意味が分からない。


 なぜ。


 初めて会った少年が。


 自分を守る。


「何で」


 青年は答えなかった。


 その代わり。


『お前には、まだ知らないことが多すぎる』


 そう言った。


 将太は歯を食いしばる。


 いつもそうだ。


 分からない。


 知らない。


 まだ早い。


 そんな言葉ばかり。


「じゃあ、いつ教えるんだよ」


 初めて。


 少し強い声が出た。


「俺だけ何も知らない」


「周りには何かいる」


「天堂にも」


「悠真にも」


「知らない誰かにも」


「なのに俺には何もない」


 拳を握る。


「それなのに、見える」


「意味分からん」


 青年は黙っていた。


 しばらくして。


『だから観測している』


 静かな声。


『答えを持っている者は、すでに形がある』


『だが』


 一拍。


『空白を持つ者は、何にでもなれる』


 将太は眉をひそめる。


「またそれか」


『嫌いか』


「分からん言葉ばっかりだから」


 青年は少しだけ笑った。


『そうだろうな』


『お前は今まで、答えがある世界で生きてきた』


 将太は反論できなかった。


『だが』


『これから向き合うものには』


『答えなどない』


 風が吹いた。


 交差点の信号が変わる。


 車が動き出す。


 人々が歩き始める。


 普通の日常。


 その向こうで。


 白い少年と黒い影だけが、まだ静止しているように見えた。


 次の瞬間。


 黒い影が揺れた。


 空間が歪む。


 少年の姿が一瞬薄くなる。


「!」


 将太は反射的に一歩踏み出した。


『待て!』


 青年の声。


 でも。


 将太の身体は止まらなかった。


 理由は分からない。


 ただ。


 あの少年が。


 助けを求めているように見えた。


 交差点へ近づく。


 車の音。


 人の声。


 すべてが遠くなる。


 黒い影が、初めて将太を見る。


 その瞬間。


 世界が揺れた。


 音が消える。


 風が止まる。


 人の動きが遅くなる。


 あの日。


 駅前で起きたものと同じ。


 世界が止まる。


 でも。


 今回は違った。


 止まった世界の中で。


 動いているものがいた。


 将太。


 白い少年。


 そして。


 黒い羽織の青年。


 青年が将太の横へ現れる。


 いつもの余裕はなかった。


「見るな」


 初めて。


 声で聞こえた。


 将太は青年を見る。


「またそれ?」


「何を見るなって」


 青年は黒い影を睨んでいた。


「お前はまだ」


「それを見る段階ではない」


 将太は息を呑む。


 青年が。


 恐れている。


 その事実が。


 一番の衝撃だった。


 黒い影が動く。


 ゆっくり。


 こちらへ向く。


 白い少年が叫ぶ。


 声は聞こえない。


 でも。


 口の形で分かった。


 ――逃げて。


 次の瞬間。


 黒い影から伸びたものが。


 将太へ向かって動いた。


 青年が前へ出る。


 将太を庇うように。


 そして。


 初めて見る表情で言った。


「まだ早い」


 その声には。


 焦りがあった。


 そして。


 悔しさがあった。


「お前はまだ」


「何者でもない」


 黒い影が迫る。


 世界がさらに暗くなる。


 その瞬間。


 将太の背後。


 本来なら何もないはずの場所で。


 何かが揺れた。


 空白だった場所に。


 一瞬だけ。


 白い亀裂が走った。


 青年が目を見開く。


「……まさか」


 将太には聞こえなかった。


 ただ。


 初めて。


 自分の背後に。


 何かが存在した。


 そんな気がした。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。