第3話 弱兵
# 第三話 弱兵
カリカリ、と鉛筆が紙を擦る。
数学。
制限時間は五十分。
試験開始から、まだ五分も経っていなかった。
教室に響くのは、問題冊子をめくる音と、鉛筆の走る音だけだった。誰かが咳払いをするだけで、何人もの肩がわずかに揺れる。
前方の壁では、丸い時計の秒針が一定の速さで進んでいる。
綾小路将太は、問題冊子の一ページ目へ視線を落とした。
第一問は計算問題だった。
括弧を外す。
同類項をまとめる。
分母を払う。
難しくはない。
鉛筆は、考えるより先に動いた。
けれど、意識のすべてを問題へ向けることはできなかった。
視界の端に入ってくる。
前の席。
右斜め前。
窓際。
教室の後方。
受験生たちの背後に立つ、人ではないものたち。
甲冑をまとった武将。
数珠を手にした僧。
古びた書物を抱える老人。
長い刀を腰に差した男。
白い衣を着た女。
姿も、年齢も、服装も違う。
生きていた時代さえ、同じではないのだろう。
それでも、誰も声を発しなかった。
自分の前に座る生徒だけを見ている。
問題冊子を覗き込む者。
腕を組み、見守る者。
目を閉じたまま微動だにしない者。
まるで試されているのが、受験生だけではないようだった。
将太は一度、強く目を閉じた。
一。
二。
三。
目を開く。
消えていない。
それどころか、さっきよりも鮮明になっている。
武将の甲冑についた傷。
僧の法衣のほつれ。
老人が抱える本の擦れた角。
見たくもない細部まで、目に入ってきた。
将太は問題冊子へ視線を戻した。
今は模試だ。
成績表には順位が出る。
偏差値も出る。
結果次第では、塾のクラスも変わる。
母親にも何か言われるだろう。
講師にも言われる。
悠真に負けるかもしれない。
少なくとも、見えるからといって、問題を解かなくていい理由にはならない。
第二問。
一次関数。
グラフを読み、二つの条件から式を求める問題だった。
傾き。
切片。
交点。
問題文を最後まで読むより先に、答えまでの道筋が頭へ浮かぶ。
数学だけは、いつもそうだった。
複雑そうに見える問題でも、必要な数字だけが前へ出てくる。余計な条件は薄くなり、一本の道だけが残る。
将太は、その道をなぞるように式を書いた。
答えを出す。
次の問題へ進む。
その時だった。
背後に、誰かが立っている。
振り返らなくても分かった。
黒い羽織の青年。
先ほど、将太の真後ろへ立った男だ。
冷たいわけではない。
肩が重くなるわけでもない。
それでも、視線だけは感じる。
背中から、頭の中まで覗かれているような感覚だった。
観測する。
青年は、そう言った。
その意味は分からない。
ほかの存在たちは、それぞれ決まった生徒の背後にいる。
だが、この青年だけは違う。
将太には憑かないと言いながら、すぐ後ろから離れない。
(見るだけなら、もう少し離れろよ)
心の中で呟いた。
返事はない。
青年の気配だけが残っている。
将太は次のページを開いた。
図形問題。
三角形の中に、何本もの線が引かれている。条件だけを見れば複雑だが、求める角度は一つだった。
図を見つめる。
頭の中に、補助線が浮かぶ。
一本加えれば、二つの三角形が重なる。
同じ角度が現れる。
そこから先は速かった。
鉛筆を動かしかけた、その瞬間。
前の席に立つ武将が、顔を上げた。
将太の手が止まる。
武将は、自分の前に座る生徒を見ていなかった。
兜の奥から、将太を見ている。
暗い目だった。
光を映さない。
感情も読み取れない。
将太が見返すと、武将はゆっくりと正面へ向き直った。
何事もなかったように。
(今、見たよな)
気のせいではない。
確かに目が合った。
教室の前方にいた黒い着物の老人も。
悠真の後ろに立っていた白衣の老人も。
将太が見えていることに気づいた。
そして今。
ほかの存在たちも、少しずつこちらを意識し始めている。
背中に汗が滲んだ。
教室は暖かくない。
窓際から、十一月の冷たい空気が流れ込んでいる。
それなのに、シャツが肌へ張りつく。
将太は机の下で左手を握った。
見るな。
問題だけを見ろ。
そう思うほど、周囲の気配が大きくなる。
右斜め前。
数珠を持った僧が、顔だけをこちらへ向けている。
窓際。
長い髪の女も。
教室の後方。
槍を持つ男も。
一人。
また一人。
音もなく。
生徒たちの背後から、将太へ視線を向け始めていた。
教室の音は何も変わらない。
鉛筆は走り続けている。
試験監督は教卓で出席票を確認している。
受験生たちは、誰も顔を上げない。
将太の周囲だけで、何かが静かに変わっている。
喉が乾いた。
机の横に置いた水筒へ手を伸ばすこともできない。
将太は問題文へ視線を落とした。
一度読む。
頭に入らない。
もう一度読む。
文字の意味がつながらない。
数学の問題なのに、答えへ続く道が見えなくなっていた。
こんなことは初めてだった。
問題が難しいわけではない。
集中できていないだけだ。
分かっている。
それでも、鉛筆が動かない。
時計の秒針が進む。
一秒。
また一秒。
カチ、カチ、という音だけが、教室中へ響いているように感じられた。
やがて。
頭の奥へ、低い声が落ちてきた。
(遅い)
将太の指が震えた。
黒い羽織の青年の声だった。
耳から聞こえたわけではない。
言葉だけが、直接頭の中へ入り込んでくる。
(うるさい)
将太は心の中で返した。
(集中できんのよ)
青年は答えない。
将太は問題冊子を睨んだ。
もう一度、図を見る。
補助線。
角度。
合同。
見える。
今度は見えた。
将太は勢いよく式を書き始めた。
角度を順番につなぐ。
二つの三角形が合同になる。
最後の数字を書き込む。
正しい。
間違いない。
止めていた息を吐く。
まだ解ける。
こんなものが見えていても、数学ならできる。
将太は次の問題へ進んだ。
背後で、青年がわずかに笑った気がした。
(計算は速い)
再び声が響く。
(図も見えている)
将太は鉛筆を止めなかった。
(だったら黙っとけ)
青年は、少し間を置いた。
そして。
(だが、弱い)
ぱきっ、と鉛筆の芯が折れた。
小さな音だった。
それでも将太には、教室中へ響いたように聞こえた。
折れた芯が問題用紙の上を転がる。
将太は、ゆっくりと目を上げた。
転がった芯が、問題用紙の端で止まる。
将太は息を整えながら、静かにシャープペンシルを持ち替えた。
替え芯を一本出す。
指先が少し震えている。
落ち着け。
ただ芯が折れただけだ。
それだけのことだ。
周囲では誰一人として顔を上げていない。
試験監督も気づいていない。
教室は相変わらず静かだった。
将太は新しい芯を出し、もう一度問題へ向き直る。
その時だった。
(折れる。)
青年の声が響く。
(……は?)
(芯ではない。)
一拍置いて、青年は続けた。
(お前だ。)
将太は思わず奥歯を噛み締めた。
何を言っている。
意味が分からない。
模試の最中だというのに、こんな話をする方がおかしい。
将太は無視を決め込んだ。
第三問へ進む。
図形。
円。
接線。
条件を整理する。
問題を眺めた瞬間、一本の補助線が浮かんだ。
そこから先は速い。
式を書き、角度を求める。
答えへたどり着く。
自然と手が動いていく。
(速い。)
また声がした。
(だが、それだけだ。)
将太は返事をしない。
(お前は、見えているものしか見ない。)
青年の声は穏やかだった。
責めるでもなく、褒めるでもない。
ただ事実を述べているように聞こえる。
(目の前の問題。)
(目の前の答え。)
(目の前の勝負。)
(それだけを追っている。)
将太の鉛筆が止まる。
何となく。
その言葉だけは聞き流せなかった。
(違うのか。)
心の中で問い返す。
青年は少し笑った気がした。
(見てみろ。)
将太はゆっくり顔を上げた。
教室を見渡す。
武将。
僧。
学者。
老人。
女。
それぞれが受験生の背後に立っている。
誰も動かない。
いや。
動いていた。
ほんのわずかに。
将太が問題を解くたび。
生徒が答えを書き込むたび。
背後の存在も、小さく頷いている。
励ましているのか。
導いているのか。
それとも。
評価しているのか。
その違いは分からない。
だが、一つだけはっきりしたことがある。
ただ立っているだけではない。
彼らも、この試験を見ている。
将太は視線を右へ移した。
悠真だった。
問題冊子へ顔を近づけ、静かに鉛筆を走らせている。
その背後には、白い衣の老人。
羽扇を持ったまま、穏やかな表情で悠真を見守っている。
焦る様子もない。
急かす様子もない。
ただ、そこに立っている。
将太は少し安心した。
悠真の背後にいる老人だけは、不思議と恐ろしく感じなかった。
その視線はさらに奥へ向かう。
天堂。
教室の反対側で、黙々と問題を解いている。
大阪から転校してきた少年。
姿勢はほとんど動かない。
鉛筆だけが一定の速さで進んでいく。
そして、その背後。
三人。
やはり三人いた。
赤黒い鎧をまとった武将。
黒い法衣の僧。
顔のない影。
その三人は、ほかの存在とは違っていた。
誰も問題を見ていない。
三人とも。
天堂だけを見ている。
まるで守るように。
あるいは、閉じ込めるように。
将太の胸がざわついた。
(あいつだけ違う。)
青年は何も答えない。
ただ静かに立っている。
将太は教室をもう一度見渡した。
成績上位者ほど、背後の存在が濃い。
その法則は間違っていない。
だが。
天堂だけは、その法則の外側にいる。
三人。
それも、これほど濃い存在が一人へ集まっている理由が分からない。
青年が、小さく息をついた。
(見えるようになってきたな。)
(何が。)
(違いだ。)
将太は眉をひそめる。
(違い?)
(まだ気づかぬか。)
青年は、それ以上何も言わなかった。
教室には再び静寂だけが戻る。
将太はゆっくり問題冊子へ視線を落とした。
残り時間は、三十分。
数学なら負けない。
そう思っていた。
けれど今は。
初めて、自分より先を見ている誰かがいる気がしてならなかった。
残り時間、十五分。
試験監督が静かに告げる。
教室の空気が変わった。
鉛筆の音が少し速くなる。
ページをめくる音が重なる。
誰も顔を上げない。
最後の一問へ向かって、一秒も無駄にしないという空気だった。
将太も深く息を吸った。
あと一問。
証明問題。
苦手な形式ではない。
むしろ得意だ。
図を見れば、どこへ補助線を引けばいいのかは分かる。
だからこそ、落ち着けば解ける。
落ち着けば。
将太は図を見つめた。
一本の線が浮かぶ。
さらにもう一本。
答えまでの道筋が見え始める。
その時だった。
(そこではない。)
青年の声が響いた。
将太の手が止まる。
(……何?)
(見えているのは答えだけだ。)
将太は眉をひそめた。
答えを見ることの、何が悪い。
数学とは、そういう教科ではないのか。
青年は将太の沈黙を見透かしたように、小さく笑った。
(だから、お前は弱い。)
将太は反論しようとした。
だが、言葉が出ない。
悔しい。
腹も立つ。
それでも、どこかで否定しきれない自分がいた。
青年は教室全体へ目を向けた。
(見ろ。)
将太も視線を上げる。
悠真は問題文を最後まで読み返していた。
答えを書き終えても、すぐには次へ進まない。
一つずつ確認している。
天堂はまだ最後の一行を書いている。
急ぐ様子はない。
一定の速さで、迷いなく鉛筆を動かしていた。
教室中の受験生が、それぞれ違う戦い方をしている。
速さだけではない。
慎重さ。
粘り。
見直し。
将太は初めて、自分以外の受験生を見た。
今まで見ていたのは問題だけだった。
そして、自分だけだった。
(……。)
青年は何も言わない。
将太はゆっくり証明問題へ戻った。
浮かんだ補助線を一度消す。
もう一度、図を見る。
急がない。
条件を拾う。
問題を読む。
もう一本、別の線が見えた。
「……こっちか。」
心の中で呟く。
最初に見えた答えより、遠回りだった。
けれど、こちらの方が自然だった。
将太は丁寧に証明を書き始める。
途中式を飛ばさない。
一つずつ積み重ねる。
最後の一行を書き終えた時、試験監督の声が響いた。
「そこまでです。」
一斉に鉛筆が止まる。
教室に、静かなため息が広がった。
将太も手を離す。
肩から力が抜けた。
終わった。
その瞬間だった。
教室中の空気が凍りつく。
いや。
違った。
凍りついたように感じたのは、将太だけだった。
武将が顔を上げる。
僧が目を開く。
老人が本を閉じる。
長い髪の女が、ゆっくりと将太を見る。
一人。
また一人。
教室中の存在が、同じタイミングで将太へ顔を向けた。
何十もの視線。
誰も言葉を発しない。
ただ、見ている。
将太を。
その奥で。
黒い羽織の青年だけが、静かに笑っていた。
(ようやく気づいたか。)
将太は動けない。
青年がゆっくり歩き出す。
受験生たちの間を抜ける。
試験監督の横を通る。
誰一人、その存在に気づかない。
青年は教室の最後列まで歩くと、誰も座っていない席の前で立ち止まった。
そこを見つめる。
空席。
何もないはずの場所。
青年は目を細めた。
(……まだ、ここか。)
その言葉の意味は分からない。
将太が見つめる先で、青年は一度だけ空席へ手を伸ばした。
触れる寸前で、その手を止める。
まるで、そこに誰かが座っているかのように。
将太の喉が鳴った。
「綾小路。」
試験監督の声だった。
「問題冊子を前へ。」
「……あ、はい。」
我に返り、冊子を回収列へ送る。
もう一度、最後列を見る。
青年はいなかった。
空席だけが残っている。
教室はいつもの模試会場だった。
受験生たちが立ち上がり、友人と答え合わせを始める。
笑う者。
悔しそうな者。
天井を見上げる者。
さっきまで教室を埋め尽くしていた存在たちも、いつの間にか姿を消していた。
将太は最後列の空席を見つめたまま動けなかった。
青年が最後に見ていたのは、自分ではない。
あの席だった。
誰も座っていない。
それなのに。
あの席だけが、まるで誰かを待ち続けているように見えた。




