第3話 教室の王
第三話 教室の王
『それでは、試験を開始してください』
その瞬間、教室の空気が変わった。
一斉に鉛筆が走る。
紙をめくる音。
計算式を書く音。
小さな息遣い。
机の脚が床をこする音。
さっきまで異様にざわついていた教室が、嘘のように静まり返る。
全員が、目の前の紙に沈んでいく。
将太も問題用紙を見た。
数学。
大問一は小問集合。
計算、関数、図形、確率。
いつもなら、ここで迷うことはない。取るべき問題を取り、時間のかかる問題は後回しにする。それだけでよかった。
だが今日は違った。
問題文の余白に、まだ黒い文字が残っていた。
――空席を埋めるな。
印刷ではない。
鉛筆でもない。
墨のような文字が、そこに沈み込むように浮かんでいる。
「……何なんだよ、これ」
将太は小さく呟いた。
『俺にも見えている』
横から三成が言った。
その声に、いつもの皮肉はなかった。
「誰が書いた」
『わからん』
「三成じゃないのか」
『俺なら、もっと嫌味に書く』
こんな状況でなければ笑えたかもしれない。
だが将太の手は、すでに汗ばんでいた。
『見るな』
三成が低く言った。
「無理だろ」
『なら、読んだことにするな。意味を持たせるな』
「どういうことだよ」
『意味を持たせた瞬間、向こうと繋がる』
将太は息を止めた。
向こう。
それが誰なのか、三成は言わなかった。
試験監督が前方で時計を見ている。
教室中で鉛筆が走っている。
悠真はもう大問一を終えかけていた。
小柄な体。
無駄のない手の動き。
感情の読めない表情。
その背後で、孔明が羽扇を静かに揺らしている。
悠真は速くない。
だが、迷わない。
どの問題を取るか。
どの順番で解くか。
どこに時間を残すか。
最初から決めていたように、鉛筆が進んでいく。
『孔明は、負けない戦を好む』
三成が言った。
『取れるものを取り、危ういものに深入りしない。勝つためではなく、負けないために組む』
将太は悠真の答案を直接見たわけではない。
それでも、わかった。
悠真の周りだけ、時間の流れが整っている。
机の上に、見えない地図が広がっているようだった。
その一方で、後方からはまったく別の圧が来ていた。
天堂蓮。
彼は笑っていた。
数学の問題用紙を見ながら、面白い漫画でも読むように笑っている。
そして、いきなり後半の大問へ手をつけた。
(そこから行くのか……?)
普通なら、危険すぎる。
大問一を落とせば、点数は崩れる。後半の難問に時間を使いすぎれば、最後まで届かない。
だが天堂の鉛筆は止まらなかった。
乱暴。
強引。
速い。
その背後で、炎のような影が笑っていた。
『細かいことを考えるな』
低い声が、将太の耳に届く。
『勝てばよい』
将太の背筋が冷えた。
天堂本人は、何も言っていない。
喋ったのは、後ろの影だ。
織田信長。
いや、本当に本人なのかはわからない。だが、将太にはそうとしか思えなかった。
同じ数学。
同じ問題。
同じ制限時間。
なのに、戦い方がまるで違う。
悠真は地形を読む。
天堂は城門を焼く。
では、自分は。
将太は自分の答案用紙を見た。
まだ、名前しか書いていない。
『急げ』
三成が言う。
『見すぎるな。お前は受験生だ。観客ではない』
「わかってる」
将太は鉛筆を握り直した。
大問一。
計算問題。
手を動かす。
数字は見える。
式も立つ。
答えも出る。
だが、いつもより少し遅い。
周囲の気配が、邪魔だった。
前の席の男子の背後で、鎧武者が低く唸る。
窓際の女子の背後で、老軍師が頷く。
後方では、天堂の影が熱を持って揺れている。
そして教室の奥。
孔明が、こちらを見ていた。
将太は顔を上げていない。
それでもわかった。
見られている。
『意識するな』
三成が言った。
「無理だって」
『なら、逆に使え』
「使う?」
『見るだけなら飲まれる。見るなら、切り分けろ』
将太は眉をひそめた。
『あれは悠真の戦い方。あれは天堂の戦い方。あれは前の席の生徒の戦い方。全部を自分だと思うな』
「そんなこと、できるわけないだろ」
『できなければ、潰れる』
その瞬間、視界がぶれた。
教室が、別の場所に変わる。
机が陣地に見えた。
問題用紙が地図に見えた。
鉛筆の音が、馬の蹄に聞こえた。
消しゴムのかすが、焼けた土のように見えた。
前方に川。
右に山。
左に城壁。
奥に本陣。
そこに、何人もの怪物が立っていた。
孔明。
信長。
名も知らぬ武将。
光をまとった偶像。
冷たい目をした支配者。
彼らは、受験生の後ろにいるのではなかった。
受験生を通して、戦っていた。
「見るな!」
三成の声で、将太は現実に引き戻された。
鉛筆が机から転がり落ちる。
数人がこちらを見る。
試験監督が一瞬、将太に視線を向けた。
将太は慌てて鉛筆を拾う。
まだ、開始から五分しか経っていない。
それなのに、体はすでに疲れていた。
『飲まれかけたな』
三成が言った。
「今のは……」
『本質だ』
「本質?」
『受験は点数を競うだけのものじゃない。親の期待、塾の序列、学校の名前、将来の席。全部が乗っている。だから寄ってくる』
三成は教室を見渡した。
『ここは福岡のただの模試会場だ。だが、紙の上では全国と繋がっている。灘も、開成も、筑駒も、附設も、ラ・サールも。名前だけで子どもを動かす巨大な影がある』
将太は息を整えた。
そうだ。
ここは天神の会場だ。
古いビルの一室。
長机。
白い壁。
安い蛍光灯。
なのに、問題用紙の上だけは全国につながっている。
地方にいながら、全国の誰かと比べられる。
名前も知らない相手に負ける。
会ったこともない学校に届かないと突きつけられる。
それが、模試だった。
将太は大問一に戻った。
今度は周囲を見ない。
数字だけを見る。
条件だけを見る。
問いだけを見る。
解ける。
一問目。
二問目。
三問目。
手が動き始めた。
その時だった。
大問二の図形問題に入った瞬間、頭の奥に別の声が混ざった。
『そこではない』
将太の手が止まる。
孔明の声だった。
顔を上げそうになって、こらえる。
『補助線は、引く場所を選べ』
将太の視界に、図形の中の一点が薄く光って見えた。
そこに線を引けば、確かに解けそうだった。
いや、解ける。
将太の手が動きかける。
『使うな』
三成が鋭く言った。
「でも、これなら……」
『それはお前の解き方じゃない』
「点が取れるならいいだろ」
『一問だけならな』
三成の声が低くなる。
『だが、二問目はもっと欲しくなる。三問目では、自分の考えと他人の考えの区別がつかなくなる』
将太は鉛筆を握りしめた。
目の前の図形には、まだ薄い光が残っている。
引けば解ける。
使えば進める。
だが、それは自分の力ではない。
それでも。
将太は線を引いた。
三成が黙った。
式がつながる。
角度が出る。
長さが出る。
面積が出る。
答えが出た。
速い。
怖いくらいに速かった。
将太は思わず息を呑む。
(すげぇ……)
その瞬間、胸の奥が冷たくなった。
何かが入ってくる。
知識ではない。
記憶でもない。
考え方の癖。
問題を見た時、まず地形を見る。
勝てる場所を探す。
無駄な戦を避ける。
敵が崩れる地点を読む。
それは、将太のものではなかった。
『離せ』
三成が言った。
将太は鉛筆から手を離した。
息が荒い。
たった一問。
たった一問、借りただけ。
それなのに、頭の中に誰かの冷静さが残っている。
教室の奥で、悠真が顔を上げた。
初めて、はっきり将太を見た。
その背後で、孔明がわずかに笑った。
将太の背筋に、冷たいものが走る。
見られた。
今の一問で。
こちらが見ているだけではない。
向こうも、こちらを測っている。
後方で、天堂が小さく笑った。
「へぇ」
声は小さかった。
だが、将太には聞こえた。
天堂の背後で、炎の影が揺れる。
『空いているだけではないな』
三成が低く呟いた。
『まずい』
「何が」
『お前は、借りられる』
将太は意味がわからなかった。
『普通の人間は、憑かれたものの型でしか戦えない。だが、お前は空いている。だから、一瞬だけ他人の型を通せる』
「それって……」
『強い』
三成は即答した。
そして、続けた。
『だが、最悪だ』
将太の喉が鳴った。
試験はまだ続いている。
問題は残っている。
時間も残っている。
使えば、もっと解けるかもしれない。
孔明の読み。
信長の突破力。
誰かの直感。
誰かの支配力。
全部、借りられるかもしれない。
その誘惑が、将太の中に生まれた。
その瞬間、問題用紙の余白に、さっきの黒い文字がもう一度滲んだ。
――空席を埋めるな。
将太の手が止まる。
だが、その下に新しい文字が浮かんだ。
――借りるだけなら、構わない。
三成の表情が消えた。
『違う』
「え?」
『その文字、さっきと筆が違う』
将太の心臓が跳ねた。
教室の奥で、孔明が静かにこちらを見ている。
後方で、天堂が笑っている。
そして、どこからか。
誰のものでもない、低い声がした。
『試せ』
終了十分前のコールが鳴った。
将太は問題用紙を見下ろした。
黒い文字は、もう消えていた。
だが、誘惑だけが残っていた。
使えば、勝てる。
使えば、壊れるかもしれない。
この教室の王は、成績一位の生徒ではない。
強い憑きに選ばれた生徒でもない。
誰のものでもない空席を、誰が最初に動かすか。
その戦いが、もう始まっていた。




