表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
憑いてる。  作者: 受験孔明
目覚め
PR
3/79

第3話 弱兵

# 第三話 弱兵


 カリカリ、と鉛筆が紙を擦る。


 数学。


 制限時間は五十分。


 試験開始から、まだ五分も経っていなかった。


 教室に響くのは、問題冊子をめくる音と、鉛筆の走る音だけだった。誰かが咳払いをするだけで、何人もの肩がわずかに揺れる。


 前方の壁では、丸い時計の秒針が一定の速さで進んでいる。


 綾小路将太は、問題冊子の一ページ目へ視線を落とした。


 第一問は計算問題だった。


 括弧を外す。


 同類項をまとめる。


 分母を払う。


 難しくはない。


 鉛筆は、考えるより先に動いた。


 けれど、意識のすべてを問題へ向けることはできなかった。


 視界の端に入ってくる。


 前の席。


 右斜め前。


 窓際。


 教室の後方。


 受験生たちの背後に立つ、人ではないものたち。


 甲冑をまとった武将。


 数珠を手にした僧。


 古びた書物を抱える老人。


 長い刀を腰に差した男。


 白い衣を着た女。


 姿も、年齢も、服装も違う。


 生きていた時代さえ、同じではないのだろう。


 それでも、誰も声を発しなかった。


 自分の前に座る生徒だけを見ている。


 問題冊子を覗き込む者。


 腕を組み、見守る者。


 目を閉じたまま微動だにしない者。


 まるで試されているのが、受験生だけではないようだった。


 将太は一度、強く目を閉じた。


 一。


 二。


 三。


 目を開く。


 消えていない。


 それどころか、さっきよりも鮮明になっている。


 武将の甲冑についた傷。


 僧の法衣のほつれ。


 老人が抱える本の擦れた角。


 見たくもない細部まで、目に入ってきた。


 将太は問題冊子へ視線を戻した。


 今は模試だ。


 成績表には順位が出る。


 偏差値も出る。


 結果次第では、塾のクラスも変わる。


 母親にも何か言われるだろう。


 講師にも言われる。


 悠真に負けるかもしれない。


 少なくとも、見えるからといって、問題を解かなくていい理由にはならない。


 第二問。


 一次関数。


 グラフを読み、二つの条件から式を求める問題だった。


 傾き。


 切片。


 交点。


 問題文を最後まで読むより先に、答えまでの道筋が頭へ浮かぶ。


 数学だけは、いつもそうだった。


 複雑そうに見える問題でも、必要な数字だけが前へ出てくる。余計な条件は薄くなり、一本の道だけが残る。


 将太は、その道をなぞるように式を書いた。


 答えを出す。


 次の問題へ進む。


 その時だった。


 背後に、誰かが立っている。


 振り返らなくても分かった。


 黒い羽織の青年。


 先ほど、将太の真後ろへ立った男だ。


 冷たいわけではない。


 肩が重くなるわけでもない。


 それでも、視線だけは感じる。


 背中から、頭の中まで覗かれているような感覚だった。


 観測する。


 青年は、そう言った。


 その意味は分からない。


 ほかの存在たちは、それぞれ決まった生徒の背後にいる。


 だが、この青年だけは違う。


 将太には憑かないと言いながら、すぐ後ろから離れない。


(見るだけなら、もう少し離れろよ)


 心の中で呟いた。


 返事はない。


 青年の気配だけが残っている。


 将太は次のページを開いた。


 図形問題。


 三角形の中に、何本もの線が引かれている。条件だけを見れば複雑だが、求める角度は一つだった。


 図を見つめる。


 頭の中に、補助線が浮かぶ。


 一本加えれば、二つの三角形が重なる。


 同じ角度が現れる。


 そこから先は速かった。


 鉛筆を動かしかけた、その瞬間。


 前の席に立つ武将が、顔を上げた。


 将太の手が止まる。


 武将は、自分の前に座る生徒を見ていなかった。


 兜の奥から、将太を見ている。


 暗い目だった。


 光を映さない。


 感情も読み取れない。


 将太が見返すと、武将はゆっくりと正面へ向き直った。


 何事もなかったように。


(今、見たよな)


 気のせいではない。


 確かに目が合った。


 教室の前方にいた黒い着物の老人も。


 悠真の後ろに立っていた白衣の老人も。


 将太が見えていることに気づいた。


 そして今。


 ほかの存在たちも、少しずつこちらを意識し始めている。


 背中に汗が滲んだ。


 教室は暖かくない。


 窓際から、十一月の冷たい空気が流れ込んでいる。


 それなのに、シャツが肌へ張りつく。


 将太は机の下で左手を握った。


 見るな。


 問題だけを見ろ。


 そう思うほど、周囲の気配が大きくなる。


 右斜め前。


 数珠を持った僧が、顔だけをこちらへ向けている。


 窓際。


 長い髪の女も。


 教室の後方。


 槍を持つ男も。


 一人。


 また一人。


 音もなく。


 生徒たちの背後から、将太へ視線を向け始めていた。


 教室の音は何も変わらない。


 鉛筆は走り続けている。


 試験監督は教卓で出席票を確認している。


 受験生たちは、誰も顔を上げない。


 将太の周囲だけで、何かが静かに変わっている。


 喉が乾いた。


 机の横に置いた水筒へ手を伸ばすこともできない。


 将太は問題文へ視線を落とした。


 一度読む。


 頭に入らない。


 もう一度読む。


 文字の意味がつながらない。


 数学の問題なのに、答えへ続く道が見えなくなっていた。


 こんなことは初めてだった。


 問題が難しいわけではない。


 集中できていないだけだ。


 分かっている。


 それでも、鉛筆が動かない。


 時計の秒針が進む。


 一秒。


 また一秒。


 カチ、カチ、という音だけが、教室中へ響いているように感じられた。


 やがて。


 頭の奥へ、低い声が落ちてきた。


(遅い)


 将太の指が震えた。


 黒い羽織の青年の声だった。


 耳から聞こえたわけではない。


 言葉だけが、直接頭の中へ入り込んでくる。


(うるさい)


 将太は心の中で返した。


(集中できんのよ)


 青年は答えない。


 将太は問題冊子を睨んだ。


 もう一度、図を見る。


 補助線。


 角度。


 合同。


 見える。


 今度は見えた。


 将太は勢いよく式を書き始めた。


 角度を順番につなぐ。


 二つの三角形が合同になる。


 最後の数字を書き込む。


 正しい。


 間違いない。


 止めていた息を吐く。


 まだ解ける。


 こんなものが見えていても、数学ならできる。


 将太は次の問題へ進んだ。


 背後で、青年がわずかに笑った気がした。


(計算は速い)


 再び声が響く。


(図も見えている)


 将太は鉛筆を止めなかった。


(だったら黙っとけ)


 青年は、少し間を置いた。


 そして。


(だが、弱い)


 ぱきっ、と鉛筆の芯が折れた。


 小さな音だった。


 それでも将太には、教室中へ響いたように聞こえた。


 折れた芯が問題用紙の上を転がる。


 将太は、ゆっくりと目を上げた。


 転がった芯が、問題用紙の端で止まる。


 将太は息を整えながら、静かにシャープペンシルを持ち替えた。


 替え芯を一本出す。


 指先が少し震えている。


 落ち着け。


 ただ芯が折れただけだ。


 それだけのことだ。


 周囲では誰一人として顔を上げていない。


 試験監督も気づいていない。


 教室は相変わらず静かだった。


 将太は新しい芯を出し、もう一度問題へ向き直る。


 その時だった。


(折れる。)


 青年の声が響く。


(……は?)


(芯ではない。)


 一拍置いて、青年は続けた。


(お前だ。)


 将太は思わず奥歯を噛み締めた。


 何を言っている。


 意味が分からない。


 模試の最中だというのに、こんな話をする方がおかしい。


 将太は無視を決め込んだ。


 第三問へ進む。


 図形。


 円。


 接線。


 条件を整理する。


 問題を眺めた瞬間、一本の補助線が浮かんだ。


 そこから先は速い。


 式を書き、角度を求める。


 答えへたどり着く。


 自然と手が動いていく。


(速い。)


 また声がした。


(だが、それだけだ。)


 将太は返事をしない。


(お前は、見えているものしか見ない。)


 青年の声は穏やかだった。


 責めるでもなく、褒めるでもない。


 ただ事実を述べているように聞こえる。


(目の前の問題。)


(目の前の答え。)


(目の前の勝負。)


(それだけを追っている。)


 将太の鉛筆が止まる。


 何となく。


 その言葉だけは聞き流せなかった。


(違うのか。)


 心の中で問い返す。


 青年は少し笑った気がした。


(見てみろ。)


 将太はゆっくり顔を上げた。


 教室を見渡す。


 武将。


 僧。


 学者。


 老人。


 女。


 それぞれが受験生の背後に立っている。


 誰も動かない。


 いや。


 動いていた。


 ほんのわずかに。


 将太が問題を解くたび。


 生徒が答えを書き込むたび。


 背後の存在も、小さく頷いている。


 励ましているのか。


 導いているのか。


 それとも。


 評価しているのか。


 その違いは分からない。


 だが、一つだけはっきりしたことがある。


 ただ立っているだけではない。


 彼らも、この試験を見ている。


 将太は視線を右へ移した。


 悠真だった。


 問題冊子へ顔を近づけ、静かに鉛筆を走らせている。


 その背後には、白い衣の老人。


 羽扇を持ったまま、穏やかな表情で悠真を見守っている。


 焦る様子もない。


 急かす様子もない。


 ただ、そこに立っている。


 将太は少し安心した。


 悠真の背後にいる老人だけは、不思議と恐ろしく感じなかった。


 その視線はさらに奥へ向かう。


 天堂。


 教室の反対側で、黙々と問題を解いている。


 大阪から転校してきた少年。


 姿勢はほとんど動かない。


 鉛筆だけが一定の速さで進んでいく。


 そして、その背後。


 三人。


 やはり三人いた。


 赤黒い鎧をまとった武将。


 黒い法衣の僧。


 顔のない影。


 その三人は、ほかの存在とは違っていた。


 誰も問題を見ていない。


 三人とも。


 天堂だけを見ている。


 まるで守るように。


 あるいは、閉じ込めるように。


 将太の胸がざわついた。


(あいつだけ違う。)


 青年は何も答えない。


 ただ静かに立っている。


 将太は教室をもう一度見渡した。


 成績上位者ほど、背後の存在が濃い。


 その法則は間違っていない。


 だが。


 天堂だけは、その法則の外側にいる。


 三人。


 それも、これほど濃い存在が一人へ集まっている理由が分からない。


 青年が、小さく息をついた。


(見えるようになってきたな。)


(何が。)


(違いだ。)


 将太は眉をひそめる。


(違い?)


(まだ気づかぬか。)


 青年は、それ以上何も言わなかった。


 教室には再び静寂だけが戻る。


 将太はゆっくり問題冊子へ視線を落とした。


 残り時間は、三十分。


 数学なら負けない。


 そう思っていた。


 けれど今は。


 初めて、自分より先を見ている誰かがいる気がしてならなかった。


 残り時間、十五分。


 試験監督が静かに告げる。


 教室の空気が変わった。


 鉛筆の音が少し速くなる。


 ページをめくる音が重なる。


 誰も顔を上げない。


 最後の一問へ向かって、一秒も無駄にしないという空気だった。


 将太も深く息を吸った。


 あと一問。


 証明問題。


 苦手な形式ではない。


 むしろ得意だ。


 図を見れば、どこへ補助線を引けばいいのかは分かる。


 だからこそ、落ち着けば解ける。


 落ち着けば。


 将太は図を見つめた。


 一本の線が浮かぶ。


 さらにもう一本。


 答えまでの道筋が見え始める。


 その時だった。


(そこではない。)


 青年の声が響いた。


 将太の手が止まる。


(……何?)


(見えているのは答えだけだ。)


 将太は眉をひそめた。


 答えを見ることの、何が悪い。


 数学とは、そういう教科ではないのか。


 青年は将太の沈黙を見透かしたように、小さく笑った。


(だから、お前は弱い。)


 将太は反論しようとした。


 だが、言葉が出ない。


 悔しい。


 腹も立つ。


 それでも、どこかで否定しきれない自分がいた。


 青年は教室全体へ目を向けた。


(見ろ。)


 将太も視線を上げる。


 悠真は問題文を最後まで読み返していた。


 答えを書き終えても、すぐには次へ進まない。


 一つずつ確認している。


 天堂はまだ最後の一行を書いている。


 急ぐ様子はない。


 一定の速さで、迷いなく鉛筆を動かしていた。


 教室中の受験生が、それぞれ違う戦い方をしている。


 速さだけではない。


 慎重さ。


 粘り。


 見直し。


 将太は初めて、自分以外の受験生を見た。


 今まで見ていたのは問題だけだった。


 そして、自分だけだった。


(……。)


 青年は何も言わない。


 将太はゆっくり証明問題へ戻った。


 浮かんだ補助線を一度消す。


 もう一度、図を見る。


 急がない。


 条件を拾う。


 問題を読む。


 もう一本、別の線が見えた。


「……こっちか。」


 心の中で呟く。


 最初に見えた答えより、遠回りだった。


 けれど、こちらの方が自然だった。


 将太は丁寧に証明を書き始める。


 途中式を飛ばさない。


 一つずつ積み重ねる。


 最後の一行を書き終えた時、試験監督の声が響いた。


「そこまでです。」


 一斉に鉛筆が止まる。


 教室に、静かなため息が広がった。


 将太も手を離す。


 肩から力が抜けた。


 終わった。


 その瞬間だった。


 教室中の空気が凍りつく。


 いや。


 違った。


 凍りついたように感じたのは、将太だけだった。


 武将が顔を上げる。


 僧が目を開く。


 老人が本を閉じる。


 長い髪の女が、ゆっくりと将太を見る。


 一人。


 また一人。


 教室中の存在が、同じタイミングで将太へ顔を向けた。


 何十もの視線。


 誰も言葉を発しない。


 ただ、見ている。


 将太を。


 その奥で。


 黒い羽織の青年だけが、静かに笑っていた。


(ようやく気づいたか。)


 将太は動けない。


 青年がゆっくり歩き出す。


 受験生たちの間を抜ける。


 試験監督の横を通る。


 誰一人、その存在に気づかない。


 青年は教室の最後列まで歩くと、誰も座っていない席の前で立ち止まった。


 そこを見つめる。


 空席。


 何もないはずの場所。


 青年は目を細めた。


(……まだ、ここか。)


 その言葉の意味は分からない。


 将太が見つめる先で、青年は一度だけ空席へ手を伸ばした。


 触れる寸前で、その手を止める。


 まるで、そこに誰かが座っているかのように。


 将太の喉が鳴った。


「綾小路。」


 試験監督の声だった。


「問題冊子を前へ。」


「……あ、はい。」


 我に返り、冊子を回収列へ送る。


 もう一度、最後列を見る。


 青年はいなかった。


 空席だけが残っている。


 教室はいつもの模試会場だった。


 受験生たちが立ち上がり、友人と答え合わせを始める。


 笑う者。


 悔しそうな者。


 天井を見上げる者。


 さっきまで教室を埋め尽くしていた存在たちも、いつの間にか姿を消していた。


 将太は最後列の空席を見つめたまま動けなかった。


 青年が最後に見ていたのは、自分ではない。


 あの席だった。


 誰も座っていない。


 それなのに。


 あの席だけが、まるで誰かを待ち続けているように見えた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ