第2話 観測者
第二話 空席
教室の空気は異様だった。
模試開始十分前。
誰も喋らない。
鉛筆を置く音。
ページをめくる音。
消しゴムが机の上を転がる音。
それだけが、やけに大きく聞こえた。
将太は席に座りながら、ゆっくり周囲を見た。
見えてしまう。
もう、見間違いでは済まなかった。
前の席の男子の背後には、鎧武者のような影が立っている。
窓際の女子の背後には、年老いた軍師のような影がいる。
後ろの席で足を組んでいる男子の背後には、巨大な男の影が揺れている。
全員ではない。
薄い者もいる。
輪郭すら曖昧な者もいる。
何も見えない生徒もいる。
だが、強い生徒ほど濃かった。
成績。
人気。
腕力。
支配力。
人を惹きつける力。
そういうものを持つ人間の後ろには、何かがいる。
(何なんだよ、これ……)
『慣れていないな』
横から石田三成が言った。
将太は前を向いたまま、小さく返す。
「慣れるわけないだろ」
『普通は見えん』
「じゃあ、なんで俺には見える」
三成はすぐには答えなかった。
教室を見渡し、少しだけ笑う。
『空だからだ』
「は?」
『お前は空席なんだよ』
「悪口か?」
『違う』
三成の声は、いつもより静かだった。
『人間は皆、何かに染まっている。親、学校、金、人気、承認欲求、成功者への憧れ。何かになりたいという願望。何かを手に入れたいという執着』
三成は、将太の胸元を見る。
『そういうものに、向こうは寄ってくる』
「向こう?」
『人の後ろに立つものだ』
将太は思わず息を呑んだ。
見えているものが、ただの幻覚ではないと認めさせられている気がした。
『だが、お前は薄い』
「薄い?」
『欲がないわけではない。だが、色が定まっていない。誰かの型に、まだ入っていない』
「それが空席ってことか」
『そうだ』
三成は小さく頷いた。
『普通なら、もっと早く埋まる。親の期待、学校の序列、友人関係、勝ち負け、劣等感。中学生にもなれば、何かしら憑く』
「俺には、ない?」
『ない』
即答だった。
将太は黙った。
何も憑いていない。
それが良いことなのか、悪いことなのかもわからない。
その時、教室後方の空気が変わった。
人の視線が、自然にそちらへ流れる。
さっきの少年だった。
天堂蓮。
同じ学校ではない。
だが、将太はその名前を知っていた。
福岡の難関塾界隈では、悪い意味でも有名な生徒だった。
上位クラスにいる。
定期テストも模試も強い。
なのに素行が荒い。
教師にも平気で口答えする。
塾の廊下で何度か見かけたことがあるだけなのに、妙に記憶に残る少年だった。
「やべぇ……天堂だ」
後ろの席の男子が小声で言う。
「また呼び出しくらったらしいぞ」
「でも、この前の塾内模試、一桁だったんだろ」
「何であいつ勉強できんの」
天堂は周囲の声など気にせず、ゆっくり席に座った。
参考書は持っていない。
筆箱も小さい。
それなのに、余裕がある。
いや、余裕というより、最初から勝つ側に立っている人間の空気だった。
その背後に、影が重なっている。
炎のような目をした男。
冷たい法を抱えた男。
遠征する王のような輪郭。
一人ではない。
三成の顔が険しくなった。
『複数憑きか』
「複数?」
『器が強すぎるか、壊れかけているかのどちらかだ』
「……どっちなんだ」
『見ればわかる』
三成は、天堂を見たまま言った。
『あれは両方だ』
将太の背筋が冷えた。
その時、廊下が少し騒がしくなった。
「え、心陽ちゃんじゃない?」
「今日、別会場じゃなかったの?」
「本物?」
教室の前を、一人の少女が通った。
長い髪。
整った顔。
自然に人の視線を集める歩き方。
如月心陽。
芸能活動もしている、福岡の中学生の間では知られた存在だった。
将太とは同じ学校ではない。
ただ、塾の模試や公開テストで名前を見ることがあった。上位者一覧に、ときどき彼女の名前が載る。
その背後には、光を浴びるように微笑む女の影がいた。
武将でも、軍師でもない。
だが、強い。
人の視線を集める力そのものが、形になったような影だった。
『人気を集める器か』
三成が呟く。
心陽は教室の中を一瞬だけ見た。
そして、奥の席に座る悠真へ小さく会釈した。
悠真も軽く頷く。
それだけだった。
だが、教室の空気がわずかに張り詰めた。
「知り合いなのか?」
『似た格は、自然と互いを認識する』
「格って」
『成績だけの話ではない』
三成は淡々と言った。
『人気、支配、才能、恐怖、承認。現代の戦場は、教室だけではないからな』
将太は、廊下の先へ消えていく心陽の背中を見た。
受験だけじゃない。
学校。
塾。
SNS。
部活。
生徒会。
親の期待。
中学生の世界にも、確かに勝ち負けはある。
その勝ち負けの裏側に、こいつらはいる。
将太がそう思った時だった。
教室の奥で、森岡悠真がふと顔を上げた。
黒縁メガネ。
小柄な体。
感情の読めない表情。
悠真も、同じ学校ではない。
だが、将太は何度も名前を見ていた。
福岡の塾内順位。
九州地区の選抜クラス。
全国模試の上位者欄。
いつも一位というわけではない。
それでも、必ず上の方にいる。
派手ではない。
騒がない。
目立とうとしない。
なのに、講師たちは悠真の答案を特別扱いする。
その背後に、孔明がいた。
静かに羽扇を持ち、教室全体を見ている。
まるで、試験会場ではなく、戦場の地形を読んでいるようだった。
悠真が将太を見た。
ただ、それだけ。
だが、背後の孔明が静かに目を細めた。
『空いている』
低い声が、将太の耳に届いた。
呼吸が止まる。
聞こえた。
今、確かに聞こえた。
三成が小さく舌打ちした。
『気づかれたか』
「気づかれたって、何に」
『お前だ』
その瞬間、後方で天堂が笑った。
「なあ」
将太は振り返る。
天堂は椅子にもたれたまま、こちらを見ていた。
人懐っこいようで、目だけが笑っていない。
「お前さ、何か変じゃね?」
教室の数人が、ちらりと将太を見る。
将太は何も言えなかった。
天堂の背後で、炎のような影が笑う。
『空席か』
将太の耳の奥が、冷たくなった。
その言葉を聞いたのは、将太だけではなかった。
孔明も、三成も、他の影たちも。
一斉に、こちらを見た。
教室中の空気が、ほんの一瞬だけ沈んだ。
普通の生徒たちは気づかない。
だが将太にはわかった。
視線。
欲望。
値踏み。
まるで、何も置かれていない席を見つけた瞬間、全員がそこに座る権利を考え始めたような気配。
『お前、やはりただの空席ではない』
三成が低く言った。
「どういう意味だよ」
『普通の空席は、見つからない』
「……は?」
『何もないものは、誰にも見えない。だが、お前は見えている。そして、向こうからも見られている』
将太は言葉を失った。
『見るだけではない。見返されている』
その時、チャイムが鳴った。
『それでは、全国上位模試を開始します。問題用紙を表にしてください』
一斉に紙がめくられる。
白い問題用紙。
黒い印字。
並んだ設問。
受験生たちが前を向く。
教室は一瞬で、試験の空気に変わった。
将太も問題用紙を見た。
数学。
大問一。
計算。
小問集合。
いつもなら、すぐに手が動くはずだった。
だが、その瞬間。
問題文の余白に、黒い線が浮かび上がった。
印刷ではない。
鉛筆でもない。
墨のような文字。
誰かが、そこに一文だけ書き足していた。
――空席を埋めるな。
将太の手が止まった。
顔を上げる。
悠真はもう問題を解いている。
天堂も笑いながら鉛筆を回している。
三成は、将太の問題用紙を見て、初めて表情を消した。
『……誰だ』
将太の心臓が、強く鳴った。
これはただの模試じゃない。
次の時代の勝者を巡る、怪物たちの戦争。
そしてその戦場で、誰かが将太にだけ警告していた。




