第2話 観測者
# 第二話 観測者
カラン――。
遠くで、電車の発車ベルが鳴った。
その音だけが、妙にはっきり残っていた。
ゆっくりと目を開ける。
白い天井。
見慣れた部屋。
机。
本棚。
壁に掛かった制服。
朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいる。
「……夢?」
綾小路将太は、ベッドの上でしばらく動かなかった。
昨日のことを思い出そうとする。
教室にいた老人。
グラウンドの甲冑姿の男。
塾で見た、悠真の背後に立つ白い老人。
そして。
空席に座っていた黒い羽織の青年。
世界が止まった。
自分だけが動いていた。
青年は言った。
――私は、お前には憑かない。
――その空白を観測する。
将太は眉を寄せる。
「……何だよ、それ」
口に出してみる。
当然、返事はない。
部屋には時計の音だけが響いていた。
夢。
そう考えるのが一番自然だった。
疲れていた。
塾もあった。
寝る前にスマホも見ていた。
脳が勝手に変な夢を作った。
そう考えれば説明はつく。
将太はベッドから降りた。
制服へ着替える。
そして。
何となく。
部屋の鏡を見た。
寝癖のついた髪。
眠そうな顔。
いつもの自分。
ゆっくり鏡の中を見る。
後ろには。
誰もいない。
机。
本棚。
ベッド。
それだけ。
「……だよな」
少し安心した。
もし鏡の中に何かいたら。
さすがに耐えられない。
「将太ー!」
階下から母の声が響いた。
「朝ご飯!」
「今行く!」
階段を下りる。
食卓には、いつもの朝食が並んでいた。
トースト。
目玉焼き。
サラダ。
テレビから天気予報の声が流れている。
「今日は晴れですね」
十一月。
朝晩は冷えるが、昼間は暖かくなるらしい。
「模試の日だっけ?」
母が聞いた。
「うん」
「忘れてない?」
「忘れてない」
「昨日、『明日休みだったらいいのに』って言ってたけど」
「……言った」
「じゃあ頑張りなさい」
「急に正論」
母が笑う。
将太も笑った。
いつもの朝。
いつもの家。
昨日だけが、そこに入り込んだ異物だった。
でも。
家を出た瞬間。
その考えは崩れた。
駅へ向かう道。
朝の冷たい空気の中を、制服姿の生徒たちが歩いている。
今日は模試の日。
いつもの登校とは少し違った。
笑い声は少ない。
歩きながら単語帳を見る者。
友達と昨日の範囲を確認する者。
緊張した顔で参考書を抱える者。
将太はイヤホンを取り出した。
いつもなら音楽を聴きながら歩く。
だが。
今日は、なぜかやめた。
周囲の音を聞いていたかった。
自分でも理由は分からない。
ただ。
昨日から。
何かを見落としているような気がしていた。
駅へ着く。
改札を抜ける。
ホームには、同じような受験生が並んでいた。
電車が入ってくる。
ドアが開く。
人の流れに押されるように、将太も乗り込む。
吊り革を持つ。
窓の外を見る。
昨日のことを考えないようにする。
考えれば考えるほど、頭がおかしくなりそうだった。
(忘れろ)
そう思った瞬間。
視界の端に。
何かが映った。
将太は反射的に顔を上げた。
目の前に立つ男子生徒。
その背後。
人影がある。
甲冑。
長い槍。
半透明の身体。
昨日、グラウンドで見たものと似ていた。
将太の喉が鳴る。
また。
いる。
男は、目の前の生徒を見守るように立っていた。
その男子生徒は、参考書を読んでいる。
必死に。
一文字も逃さないように。
周囲の人間は誰も気づかない。
会社員。
高校生。
同じ模試へ向かう中学生。
誰も見ていない。
男だけが。
そこにいる。
そして。
ゆっくり顔を動かした。
将太を見る。
目が合う。
瞬間。
電車がトンネルへ入った。
窓の外が暗くなる。
一瞬だけ。
車内が影に包まれた。
そして。
トンネルを抜けた時。
男は消えていた。
「……」
将太は黙ったまま窓を見る。
そこに映る自分。
後ろには誰もいない。
周囲には人がいる。
でも。
自分の背後だけ。
空いている。
昨日から何度確認しても。
そこだけは変わらなかった。
◇
模試会場は、大きな進学塾の校舎だった。
入口には、
「全国統一中学生模試」
という看板が出ている。
普段通っている塾生だけではない。
近隣の学校から、多くの生徒が集まっている。
知らない制服。
知らない顔。
知らない学校名。
それでも。
全員が同じ目的でここへ来ている。
自分の位置を知るため。
今の実力を測るため。
将太は受付へ向かう。
「将太!」
後ろから声がした。
振り返る。
森岡悠真だった。
「間に合った」
「走ってきた?」
「一本前の電車、逃した」
「珍しい」
「将太には言われたくない」
「俺、そんな遅刻してないやろ」
「ギリギリは遅刻と同じ」
「違う」
「違わない」
二人で笑う。
悠真といると、余計なことを考えずに済む。
昨日のことも。
一瞬だけ忘れられる。
「今回、数学どう?」
悠真が聞いた。
「普通」
「普通って言う人の普通は信用できない」
「本当に普通」
「じゃあ満点狙える?」
「取れたらいいけど」
「その言い方が嫌味なんだよ」
将太は笑った。
受付を通る。
その横。
職員の後ろに。
老人がいた。
将太の足が止まる。
白い衣。
長い髭。
手には巻物。
昨日まで見た存在とは違う。
でも。
同じ。
そこにいる。
職員のすぐ後ろ。
何かを書き込むように巻物へ目を落としている。
将太を見る。
老人と目が合う。
瞬間。
老人の手が止まった。
まるで。
初めて存在を認識したように。
将太は息を止める。
この反応。
昨日もあった。
自分が見ていることに。
相手が気づく。
「将太?」
悠真の声。
将太は我に返った。
「……行こう」
視線を逸らす。
もう一度見る。
老人はいなかった。
ただ。
さっきまで老人がいた場所だけ。
空気が少し揺れていた。
教室へ入った瞬間。
将太は足を止めた。
いる。
昨日よりも、はっきり分かる。
教室の中に。
何人も。
誰かの背後に立っている。
前の席の男子。
その背後には、古い書物を抱えた老人。
窓際の女子。
その後ろには、長い黒髪の女性。
後方の席。
そこには、刀を腰に差した男。
全員が同じではない。
姿も。
服装も。
時代も違う。
だが。
共通していることがある。
彼らは。
誰かに寄り添っている。
守るように。
見守るように。
時には。
試すように。
将太はゆっくり教室を見渡した。
昨日気づいたことを確認する。
成績が高い生徒ほど、存在が濃い。
……いや。
少し違う。
成績だけではない。
例えば。
窓際に座る女子。
模試の順位表では、上位ではない。
けれど。
彼女の背後にいる女性の姿は、はっきりしている。
理由は分からない。
でも。
単純な偏差値ではない。
何か別のものだ。
「何見てるの?」
悠真が聞く。
「いや」
将太は答えを濁した。
まだ説明できない。
自分でも理解できていない。
その時。
教室の空気が少し変わった。
扉が開く。
「すみません」
一人の男子生徒が入ってくる。
天堂蓮。
塾内では有名な存在。
大阪から転校してきた。
模試では常に上位。
授業中に騒がない。
誰かと群れることも少ない。
それでも。
名前だけは知られている。
天堂が軽く頭を下げる。
「遅れました」
「席へ行け」
講師が言う。
「はい」
天堂は歩く。
その背後。
三つ。
やはり三つ。
将太の目が止まった。
赤黒い鎧の武将。
黒い法衣の僧。
そして。
顔のない影。
他の存在とは違う。
濃さ。
圧。
近づきがたい雰囲気。
まるで三つの存在が、天堂を中心に一つの壁を作っている。
天堂は何も気づいていない。
普通に席へ座る。
その背後で。
三つの影だけが静かに立っている。
「……」
将太は見ていた。
すると。
「なあ」
天堂が突然、こちらを見た。
「え?」
「さっきから」
天堂は眉をひそめる。
「俺の後ろ、見てへん?」
心臓が跳ねた。
「……」
将太は答えられない。
天堂は自分の後ろを見る。
当然。
何も見えていない。
「何もないやん」
「いや」
「なんやねん」
天堂は少し不機嫌そうに言った。
「気味悪いな」
「ごめん」
天堂はしばらく将太を見る。
そして。
「変なやつやな」
それだけ言って席へ戻った。
将太は息を吐いた。
見えているわけではない。
でも。
何かを感じた?
それとも。
ただ勘がいいだけか。
分からない。
その時。
後ろから声がした。
「お前は、見ているな」
将太の身体が固まる。
黒い羽織。
昨日の青年だった。
誰もいないはずの最後列。
空席に座っている。
青年は将太を見ていた。
「……」
声が出ない。
青年は続ける。
「だが」
一瞬。
視線が天堂へ向く。
「まだ見えているだけだ」
将太は眉をひそめた。
「どういう意味?」
「そのままだ」
「分からん」
青年は少しだけ笑った。
「だから弱い」
腹が立った。
「何なんだよ、さっきから」
思わず心の中で返す。
すると。
青年は初めて少し驚いた顔をした。
「……」
「何?」
「今」
青年が将太を見る。
「私へ返したな」
「?」
「普通は届かない」
青年は静かに立ち上がった。
「やはり」
「お前は違う」
その言葉の意味を聞く前に。
試験開始のチャイムが鳴った。
生徒たちが一斉に問題冊子を開く。
青年の姿は消えていた。
だが。
声だけが残った。
「見るだけでは足りない」
「観測とは」
「理解することだ」
試験開始のチャイムが鳴った。
その瞬間。
教室の空気が変わる。
さっきまで小さな話し声が残っていた空間が、完全な静寂へ変わった。
問題冊子をめくる音。
鉛筆が紙を擦る音。
時計の秒針。
それだけが響いている。
将太も問題へ目を落とした。
だが。
集中できない。
理由は分かっていた。
見える。
見えてしまう。
視界の端に、彼らがいる。
受験生の背後に立つ存在たち。
誰かの背中を見守る老人。
腕を組む武将。
静かに目を閉じる僧。
その姿は、昨日よりも明確だった。
もう偶然では片づけられない。
夢でもない。
疲れているから見える幻でもない。
本当にいる。
そして。
将太だけが、それを見ている。
第一問。
計算問題。
手は自然に動いた。
数字を整理する。
式を変形する。
答えを書く。
簡単だ。
数学なら。
いつも通りだった。
問題を見れば、道筋が見える。
どこを使えばいいのか。
どこを捨てればいいのか。
頭の中で自然に整理される。
だから数学だけは好きだった。
努力ではない。
才能というほど大げさでもない。
ただ。
見える。
それだけだった。
第二問。
図形。
補助線が必要な問題。
将太は図を見た瞬間、一本の線を思いついた。
ここ。
そこへ線を引けば、すべてがつながる。
合同条件。
角度。
辺の長さ。
答えまで一直線だった。
鉛筆を動かす。
その時。
背後から声がした。
『速いな』
将太の手が止まりかける。
黒い羽織の青年。
そこにいる。
見なくても分かった。
『だが』
青年の声が続く。
『お前は、答えしか見ていない』
(……何だよ)
将太は心の中で返した。
『問題の答えを見る』
『正解への道を見る』
『それは悪いことではない』
青年は淡々と言う。
『だが、それだけでは足りない』
(数学の話?)
『違う』
一拍。
『お前自身の話だ』
将太は眉をひそめた。
(意味分からん)
『だろうな』
青年は静かに笑った。
『だから観測している』
将太は問題用紙へ視線を落とした。
意味が分からない。
観測。
何を。
なぜ自分を。
聞きたいことは山ほどある。
でも。
試験中に幽霊のような存在と会話している場合ではない。
将太は無視することにした。
第三問。
一次関数。
第四問。
確率。
手は止まらない。
数学だけなら、いつもの自分だった。
しかし。
ふと。
周囲を見る。
悠真。
黙々と問題を解いている。
何度も問題文を読み直している。
答えが出ても、すぐには次へ進まない。
確認している。
その背後。
白い衣の老人が立っていた。
穏やかな表情。
焦らせることもない。
ただ悠真を見ている。
天堂。
反対側の席。
鉛筆の速度は変わらない。
迷いがない。
その背後。
三つの存在。
武将。
僧。
顔のない影。
将太は思った。
同じではない。
背後にいる存在が違う。
そして。
本人たちも違う。
悠真は慎重。
天堂は迷わない。
自分は。
答えへ最短で向かう。
それだけ。
青年の声がした。
『分かったか』
(何が)
『違いだ』
将太は黙った。
青年は続ける。
『強さとは、一つではない』
『速さだけでもない』
『正確さだけでもない』
『耐える力』
『考える力』
『積み重ねる力』
『すべて違う』
将太は鉛筆を握ったまま、少しだけ顔を上げた。
『お前は』
青年の声が低くなる。
『自分が見えるものだけで世界を判断している』
胸に引っかかった。
反論できない。
今までそうだった。
問題を見る。
答えを探す。
解く。
それで終わり。
人がどう考えているか。
何を積み重ねているか。
そこまで考えたことはなかった。
将太はもう一度、悠真を見る。
いつも一緒にいる。
話しやすい。
でも。
悠真がどれだけ考えて問題を解いているか。
知らなかった。
天堂もそうだ。
ただ頭がいい奴。
そう思っていた。
でも。
三つの存在を背負いながら。
あいつは何も知らずに戦っている。
残り時間を見る。
あと十七分。
将太は問題へ戻った。
そして。
初めて。
答えだけではなく。
問題文を最初から読み直した。
条件。
意図。
作られた理由。
なぜ、この数字が置かれているのか。
考える。
すると。
今までとは違う道が見えた。
最短ではない。
けれど。
確実な道。
将太はゆっくり鉛筆を動かした。
背後の青年が、小さく呟く。
『……』
『少しだけ、見え始めたな』
将太は聞こえないふりをした。
でも。
その言葉が。
少しだけ気になった。
模試の時間は、思っていたより早く過ぎた。
残り五分。
試験監督が告げる。
「見直しの時間に入ってください」
教室中の空気が少し変わった。
鉛筆を置く者。
計算を確認する者。
問題文をもう一度読み返す者。
最後の数分をどう使うか。
それぞれの性格が出る。
将太は答案を見直した。
いつもなら、答えだけを見る。
数字が合っているか。
計算ミスがないか。
それだけだった。
でも。
今日は違った。
途中式を見る。
考え方を見る。
なぜ、この答えになったのかを見る。
自分が書いたものなのに。
少し不思議な感覚だった。
答えへ向かう道は一つではない。
初めて、そんなことを意識した気がする。
その時。
黒い羽織の青年が、将太の横に立っていた。
『変わったな』
(何が)
『見方だ』
将太は少し眉を動かした。
(たったそれだけ?)
『それだけではない』
青年は教室を見渡した。
『お前は今まで、世界を問題と同じように見ていた』
(どういう意味)
『答えがあるものとして見ていた』
将太は黙った。
『だから速い』
『だから迷わない』
『だが』
青年の視線が将太へ戻る。
『答えのないものには弱い』
胸に刺さった。
将太は反論しようとした。
でも。
言葉が出なかった。
昨日から起きていること。
これこそ、答えがない。
なぜ見えるのか。
なぜ自分の後ろには何もいないのか。
なぜ、この青年は自分を観測するのか。
何一つ分からない。
数学なら。
式を立てればいい。
条件を整理すればいい。
でも。
これは違う。
『だから、お前は弱い』
青年が言った。
(……うるさい)
将太は心の中で返す。
(何回言うんだよ)
『事実だからだ』
淡々とした返答だった。
腹が立つ。
でも。
不思議と嫌ではなかった。
もし本当に敵なら。
もっと怖いはずだ。
この青年から感じるものは、恐怖ではない。
試されている。
そんな感覚だった。
「そこまでです」
試験監督の声が響いた。
一斉に鉛筆が止まる。
紙を回収する音。
椅子を引く音。
緊張が一気にほどける。
「疲れたー」
「数学最後やばくなかった?」
「時間足りんかった」
教室に普段の空気が戻ってくる。
将太も息を吐いた。
終わった。
でも。
いつもの模試とは違う疲れだった。
問題を解いた疲れではない。
見えないものを見続けた疲れ。
そして。
自分自身を見られている疲れだった。
「将太」
悠真が振り向く。
「数学どうだった?」
「普通」
「普通って言う時、大体できてるやつやん」
「悠真は?」
「最後の証明、ちょっと迷った」
「珍しい」
「将太みたいにすぐ答え出ないから」
「それは違うやろ」
将太は苦笑した。
今までなら。
「俺の方が数学できる」
そう思っていたかもしれない。
でも。
今日は違った。
悠真には悠真の強さがある。
迷って。
考えて。
積み重ねる強さ。
それは、将太にはないものだった。
「天堂は?」
将太が何気なく聞く。
悠真は少し考えた。
「たぶん満点」
「やっぱり?」
「いつもそうだから」
その時。
教室の後ろから声がした。
「何や。俺の話か?」
二人が振り返る。
天堂蓮が立っていた。
「別に」
将太が答える。
「怪しいな」
天堂は笑った。
初めて見る表情だった。
模試会場で見る天堂は、いつも一人だった。
近寄りがたい。
そんな印象だった。
でも。
普通に笑う。
普通に話す。
ただの中学生だった。
「数学、簡単やったな」
天堂が言う。
「そう?」
「そうやろ」
「最後の証明、ちょっと考えたけど」
「考える?」
天堂が首を傾げた。
「普通に解けばいいだけやん」
その言葉に。
将太は少し引っかかった。
普通。
天堂にとっては。
これが普通なのだ。
将太とは違う。
同じ問題を見ても。
見えている世界が違う。
「綾小路」
「何?」
「お前」
天堂は少し目を細めた。
「さっきから変やぞ」
将太の心臓が跳ねる。
「何が?」
「俺の後ろ見てたやろ」
息が止まった。
天堂は続ける。
「何かおるんか?」
将太は答えられなかった。
見えている。
そう言えばいいのか。
言えるわけがない。
「いや」
将太は目を逸らした。
「何でもない」
「ふーん」
天堂は納得していない顔だった。
その背後。
三つの存在が立っている。
赤黒い鎧。
黒い法衣。
顔のない影。
だが。
今までと違うことに気づいた。
三人とも。
将太を見ていた。
敵意ではない。
警戒。
そんな感じだった。
まるで。
自分たちとは違う存在を見ているように。
「またな」
天堂はそう言って、教室を出ていった。
将太はその背中を見送った。
そして。
気づく。
天堂の背後にいる三つの存在。
あれほど濃かったのに。
今は少しだけ揺らいで見える。
理由は分からない。
でも。
何かが変わり始めている。
◇
模試会場を出る頃には、夕方になっていた。
空は赤く染まり、駅へ向かう道には長い影が伸びている。
将太は一人で歩いていた。
昨日までなら。
普通の帰り道だった。
でも。
今は違う。
街を見る。
人を見る。
そして。
その背後を見る。
会社員。
学生。
買い物帰りの人。
それぞれに。
小さな影がある。
誰かを見守るもの。
誰かについていくもの。
誰かを支えるもの。
将太は足を止めた。
昨日。
自分の後ろには何もなかった。
今日も。
何もない。
なぜ。
なぜ自分だけ。
その時。
背後から声がした。
『それを知るために』
黒い羽織の青年。
『私はお前を観測する』
将太は振り返った。
そこには誰もいない。
ただ。
ガラスに映った自分の姿だけ。
そして。
その後ろ。
誰もいない空白だけが映っていた。
将太は静かに拳を握った。
いつか。
必ず知る。
なぜ自分には何も憑いていないのか。
なぜ自分だけが、彼らを見ることができるのか。
そして。
あの白い少年は。
最後に何を見ていたのか。
まだ何も分からない。
でも。
一つだけ確かなことがある。
昨日までの世界は。
もう戻らない。




