第56話 影が笑う
56話 影が笑う
その夜。
将太は眠れなかった。
机の上には、自分のノートが開かれている。
そこには、前の夜から消えない文字が残っていた。
『一人目は待っている』
『二人目は近づいている』
『三人目は見つけてしまった』
『四人目は、まだ夢を見ている』
将太は何度もその文字を見た。
読めば読むほど、胸の奥が冷えていく。
一人目。
二人目。
三人目。
四人目。
数字だけが増えていく。
だが、その意味は完全には分からない。
一人目は、観測者ではない。
見られすぎて、地図になった存在。
二人目は、心陽。
そう考えるのが自然だった。
見られすぎた者。
影が本人から離れかけている者。
では、三人目は誰だ。
悠真か。
停止世界を見つけてしまった者。
白い駅に名前を刻まれかけた者。
そして四人目。
まだ夢を見ている者。
天堂。
その名前が、どうしても頭から離れなかった。
将太はノートを閉じようとした。
だが、閉じる直前、紙の端に薄い文字が浮かんだ。
『あと十二日』
将太は息を止めた。
昨日は十三日だった。
つまり、カウントは進んでいる。
観測開始まで。
残り十二日。
『焦るな』
三成の声がした。
窓際に立っている。
いつものように腕を組んでいるが、顔は硬い。
「焦るなって言われてもな」
将太はノートを見た。
「減ってる」
『だから焦るなと言っている』
「無理だろ」
『焦れば、見なくていいものを見る』
将太は苦笑した。
「最近そればっかりだな」
『それだけ、お前が危うい』
三成は淡々と言った。
『今のお前は、見えるものを全部追おうとしている』
「追わないと分からない」
『追えば、向こうにも見つかる』
「もう見つかってるだろ」
将太がそう言うと、三成は黙った。
その沈黙が、何より嫌だった。
翌日。
塾の冬期講習前。
最上位クラスの教室は、いつもより早く人が集まっていた。
全国模試が近い。
誰もが少しずつ焦っている。
問題集を開く者。
過去問を解く者。
講師に質問する者。
成績表を見返す者。
静かな教室なのに、空気だけが張り詰めている。
将太は自分の席から窓際を見ていた。
心陽がいる。
いつも通りだった。
麻里と話している。
双葉もそばにいる。
心陽は自然に笑っていた。
楽しそうに。
普通に。
何も変わらないように。
そのはずだった。
ふと、心陽がこちらを見た。
「おはよう」
自然な笑顔だった。
「お、おう」
将太も返す。
それだけ。
本当にそれだけだった。
だが、次の瞬間、将太は息を止めた。
心陽の足元。
影。
黒い輪郭が、一瞬だけ将太へ向かって手を振った。
本人は動いていない。
心陽も気付いていない。
影だけが動いた。
「……っ」
将太は目を擦った。
見間違いか。
そう思いたかった。
だが、もう一度見ると、影は元に戻っていた。
普通の影。
何もない。
しかし、確かに見た。
影が笑っていた。
手を振るように。
こちらを知っているように。
講習が始まった。
講師の声。
チョークの音。
ページをめくる音。
最上位クラスの空気。
将太は問題を解こうとした。
だが、集中できない。
心陽の影が頭から離れなかった。
影が動くことは、前にもあった。
だが、今日の動きは違う。
怖がっているのでもない。
逃げようとしているのでもない。
呼んでいる。
こちらに気付いてほしいように。
いや。
気付いたことを喜んでいるように。
休憩時間。
将太は一人で非常階段へ向かった。
整理したかった。
最近、おかしいことが多すぎる。
天堂。
悠真。
心陽。
真心。
黒衣。
ダンニュク。
観測開始。
残り十二日。
頭が追いつかない。
『焦るな』
三成が言う。
『こういう時ほど足元を見る』
「足元見たら余計怖いんだよ」
将太は苦笑した。
その時だった。
扉が開く。
振り返る。
「やっぱりここにいた」
心陽だった。
「一人になりたいタイプだよね」
そう言って笑う。
普通だ。
本当に普通。
だが、将太は警戒を解けない。
「何か用か」
「別に?」
心陽は首を傾げる。
「ただ、気になっただけ」
非常階段には冷たい空気が流れていた。
建物の外側から、冬の風が入り込んでくる。
心陽の髪がわずかに揺れる。
「最近、変じゃない?」
突然だった。
将太は目を細める。
「何が」
「みんな」
心陽は手すりの向こうを見る。
ビルの隙間。
曇った空。
遠くの道路。
「天堂くんも」
「悠真くんも」
「真心も」
そして。
「綾小路くんも」
将太は黙る。
「なんかさ」
心陽は続けた。
「みんな同じ方向を見てる気がする」
将太の心臓が跳ねた。
「同じ方向?」
「うん」
心陽は少し考えるように言った。
「見えない何かを探してるみたい」
沈黙。
本人は気付いていない。
だが、その言葉は核心に近かった。
「変なこと言ったね」
心陽は笑う。
「忘れて」
その言葉に、将太は反応した。
忘れて。
真心の言葉と同じだった。
忘れたくなる。
忘れてほしい。
忘れられた者。
将太は思わず言った。
「如月心陽」
心陽が足を止める。
「何?」
「お前は、忘れろって簡単に言うな」
心陽は不思議そうに将太を見た。
「どういう意味?」
「忘れたら、戻れなくなる」
言ってから、将太は自分でも驚いた。
そんなことを言うつもりはなかった。
だが、口から出てしまった。
心陽はしばらく黙っていた。
そして、少しだけ表情を変えた。
「それ」
「何」
「夢で聞いた気がする」
将太の背筋が冷える。
「どんな夢」
「白い場所」
心陽はゆっくり言った。
「駅みたいなところ」
将太は息を止めた。
まただ。
天堂も見ている。
悠真も見ている。
心陽も見ている。
そして真心は、もっと前から見ている。
「そこに、誰かいたか」
将太は聞いた。
心陽は少し目を伏せる。
「いた」
「誰」
「分からない」
そこで一度、言葉を切った。
「でも、私に似てた」
将太の胸が重くなる。
「影か」
「分からない」
心陽は自分の手を見る。
「でも、私より私みたいだった」
その言葉は、異様に重かった。
本人よりも本人らしい影。
見られ続けた結果、他人の中に作られた如月心陽。
それが形を持ち始めている。
将太は心陽本人を見た。
影ではなく。
役割でもなく。
順位でもなく。
「如月心陽」
もう一度呼ぶ。
心陽は少し笑った。
「今日、名前呼ぶね」
「忘れないためだ」
「誰を?」
「お前を」
心陽の笑顔が、少しだけ消えた。
その瞬間。
非常階段の照明が白く瞬いた。
将太は反射的に足元を見た。
心陽の影が、動いていた。
本人はまっすぐ将太を見ている。
だが、影だけが背後を向いている。
非常階段の扉の方へ。
教室の方へ。
いや。
もっと遠く。
白い駅の方へ。
『見るな』
三成の声。
だが、もう遅い。
心陽の影が、ゆっくり振り返った。
本人ではない。
影だけが。
そして、口を開く。
『あと十二日』
将太の全身が凍りついた。
心陽本人は何も気付いていない。
ただ、不思議そうに将太を見ている。
「どうしたの?」
将太は答えられなかった。
ノートには十二日。
影も十二日。
同じ数字。
だが、恐ろしいのはそこではなかった。
影は、将太のノートの内容を知っていた。
誰にも見せていないはずなのに。
そして、影は笑っていた。
カウントダウンを知っていることが、嬉しいかのように。
将太は心陽の足元を見ないようにして言った。
「今日、もう帰った方がいい」
「え?」
「体調、良くないだろ」
心陽は驚いた顔をした。
「何で分かるの」
「分かる」
心陽は少し困ったように笑った。
「最近、みんなにそう言われる」
「みんな?」
「麻里も、双葉も」
少し間を置いて、心陽は言った。
「真心も」
真心。
その名前が出た瞬間、非常階段の空気が冷えた。
将太はすぐに気付いた。
心陽の影が止まった。
笑うのをやめた。
まるで、その名前だけを嫌がるように。
「真心と話したのか」
将太が聞く。
「少しだけ」
「何を」
「覚えてない」
将太の胸が締め付けられる。
「覚えてない?」
「話したのは覚えてる」
心陽は眉を寄せる。
「でも、何を話したか思い出せない」
忘れられた者。
田中真心。
心陽が真心に近づくほど、記憶が欠ける。
逆に、真心の名前を呼ぶと、心陽の影が反応する。
二つの名前は繋がっている。
だが、繋ぎ方を間違えれば、どちらかが沈む。
将太は慎重に言った。
「田中真心を忘れるな」
心陽が目を瞬いた。
「田中……真心」
その名前を心陽が口にした瞬間、非常階段の空気が歪んだ。
手すりが遠ざかる。
扉が白く霞む。
床に落ちた二人の影が伸びる。
心陽の影。
将太の影。
そして、どこにもいないはずの三つ目の影。
薄く、輪郭のない影。
田中真心の影。
心陽が息を呑む。
「今、誰かいた?」
将太は答えない。
答えるより早く、三成が低く言った。
『戻れ』
将太は心陽の手首を掴んだ。
心陽が驚く。
「綾小路くん?」
「戻るぞ」
「どこに」
「教室」
将太は扉へ向かった。
だが、扉の前に黒衣が立っていた。
黒いコート。
フード。
境界を見る者。
心陽は黒衣を見て、体を強張らせた。
「誰……?」
見えている。
心陽にも黒衣が見えている。
将太は心陽を背に庇う。
「どけ」
黒衣は答えない。
代わりに、右手を上げた。
一本目の指。
一人目。
二本目の指。
二人目。
そして、ゆっくりと心陽の影を指さした。
心陽の影が、本人の足元から半歩だけ離れる。
心陽が小さく悲鳴を漏らした。
「やだ」
将太は心陽の手首を強く握った。
「如月心陽」
名前を呼ぶ。
影の動きが止まる。
「お前はここにいる」
影が床で震える。
「田中真心を忘れるな」
その言葉を重ねた瞬間、黒衣が初めて笑った気がした。
フードの奥。
顔は見えない。
だが、確かに笑った。
そして黒衣は、短く言った。
「片方では、開かない」
将太は息を止めた。
黒衣が喋った。
はっきりと。
今までのような意味だけの声ではない。
音として。
言葉として。
黒衣は続けた。
「光だけでは、駅は開かない」
心陽の影が揺れる。
「空白だけでも、戻れない」
将太の胸が冷える。
光。
心陽。
空白。
真心。
黒衣は一歩引いた。
扉が現実の扉に戻っていく。
非常階段の空気が戻る。
照明の色が普通に戻る。
心陽の影も足元に戻った。
黒衣は消える直前、将太を見た。
「二つの名前を揃えろ」
そして、もう一言。
「ただし、順番を間違えるな」
黒衣は消えた。
非常階段には、冬の冷たい空気だけが残る。
心陽は震えていた。
将太も息が乱れていた。
「今の」
心陽が小さく言う。
「夢じゃないよね」
「違う」
「あれは何?」
「分からない」
将太は正直に答えた。
「でも、たぶん敵じゃない」
「味方?」
「それも違う」
黒衣は境界を見る存在。
敵でも味方でもない。
ただ、境目に立っている。
こちらが間違えれば落とす。
正しく呼べば通す。
そんな存在だ。
心陽は自分の影を見る。
もう普通の影に戻っている。
だが、さっきまでそれが笑っていたことを、将太は忘れられない。
教室に戻ると、真心がこちらを見ていた。
窓際の席。
静かな顔。
何も知らないような表情。
だが、その目だけが違った。
真心は声を出さずに、口を動かした。
将太には読めた。
――順番を間違えないで。
将太は立ち止まった。
心陽が隣で不安そうに真心を見る。
その瞬間。
心陽の影と真心の影が、ほんの一瞬だけ同じ方向を向いた。
白い駅の方へ。
将太は理解した。
黒衣の言った意味。
二つの名前を揃えろ。
ただし、順番を間違えるな。
これは、鍵の話だ。
白い駅を開く鍵。
如月心陽。
田中真心。
光と空白。
見られすぎた者と、忘れられた者。
どちらか一方だけでは開かない。
だが、開き方を間違えれば。
きっと、誰かが戻れなくなる。




