第54話 違和感
54話 違和感
塾の帰り。
将太は一人で帰るつもりだった。
だが。
「綾小路」
後ろから呼び止められる。
振り返る。
天堂だった。
「少しいいか」
将太の心臓が嫌な音を立てた。
さっきのことが頭をよぎる。
停止世界。
天堂の影。
あの言葉。
『ようやく見つけた』
忘れられるはずがない。
「何だよ」
なるべく平静を装う。
天堂は少し考えるような顔をした。
「変なこと聞くけど」
「何だ」
「最近、変な夢見ないか?」
将太は固まった。
「夢?」
「ああ」
天堂は頷く。
「知らない場所なんだけど、何度も出てくる」
冬の風が吹いた。
塾のビルを出たばかりの通りには、まだ生徒が何人もいた。
自転車を押す者。
親の車を待つ者。
友達と問題の話をする者。
現実の音が、普通に流れている。
それなのに、天堂の言葉だけが妙に冷たく残った。
「どんな場所だ」
将太は慎重に聞く。
「駅だな」
天堂は少し眉をひそめた。
「東京駅みたいな場所」
将太の背筋が凍る。
真心。
心陽。
東京駅。
停止世界。
巨大な影。
白い駅。
全部が繋がっていく。
「それで?」
「誰かいるんだ」
天堂の声が低くなる。
「顔は見えない」
「でも」
将太は息を止めた。
「ずっと俺を見てる」
沈黙。
将太は返事ができなかった。
「変だよな」
天堂は苦笑する。
「勉強しすぎかもしれん」
そう言うが、その顔は本気だった。
冗談ではない。
ただの夢の話をしている顔ではなかった。
「誰にも言ってない」
「悠真にも?」
「言ってない」
天堂は空を見る。
「笑われそうだからな」
将太は何も言えなかった。
もし本当に夢なら。
笑えば終わる。
だが、将太は知っている。
これは夢ではない。
始まっている。
少しずつ。
確実に。
「天堂」
「何だ」
「その夢でさ」
将太は迷った。
聞くべきではない気がした。
だが、聞かずにはいられなかった。
「誰か、名前を言わなかったか」
天堂は歩みを止めた。
「名前?」
「ああ」
天堂は少し黙った。
街灯の下で、天堂の影が歩道に伸びている。
普通の影。
ただの影。
そのはずなのに、将太は見ないようにした。
今は影ではなく、天堂本人を見る。
「聞き取れなかった」
天堂はそう答えた。
「でも」
「でも?」
「音だけは覚えてる」
将太の喉が鳴る。
天堂はゆっくり言った。
「ダン……何とか」
世界が少し遠くなった気がした。
ダンニュク。
黒衣が言った言葉。
真心のノートに書かれていた文字。
心陽の口からも漏れたかもしれない音。
白い駅の夢に残る名前。
それを、天堂も聞いている。
「綾小路?」
天堂が怪訝そうに見る。
「顔色悪いぞ」
「……何でもない」
「本当か」
「ああ」
嘘だった。
何でもある。
だが言えない。
まだ。
何を言えばいいのか、将太自身にも分からなかった。
天堂は少しだけ目を細めた。
「お前、何か知ってるだろ」
将太は答えない。
「昼の、あれもそうだ」
「昼?」
「一瞬だけ、変な感じがした」
将太の胸が跳ねる。
「どんな」
「分からん」
天堂は自分の手を見る。
「時間が飛んだみたいな」
「……」
「順位表を見てたはずなのに、次の瞬間、お前の顔を見てた」
天堂は小さく笑った。
「夢の続きみたいだった」
将太は黙っていた。
天堂には記憶が残っていない。
だが、違和感だけが残っている。
悠真も同じかもしれない。
完全に見えたわけではない。
けれど、触れた。
停止世界の縁に。
天堂が言った。
「なあ、綾小路」
「何」
「もし俺が変なこと言い出したら、止めろよ」
「何だよ、それ」
「分からん」
天堂は前を向いた。
「でも、そう思った」
将太は返事ができなかった。
その言葉が、冗談には聞こえなかったからだ。
その夜。
将太は停止世界へ入らなかった。
三成に言われた通り、休むつもりだった。
布団に入る。
目を閉じる。
寝ようとする。
だが、眠りは浅かった。
意識が沈む直前。
将太は夢を見た。
雪。
白い駅。
人がいない。
静かなホーム。
音がない。
時間もない。
ただ、白い光だけがある。
ホームの端に、一人の少女が立っていた。
長い髪。
制服。
後ろ姿。
将太は声を出そうとする。
だが声が出ない。
少女がゆっくり振り返る。
顔は見えない。
けれど、声だけが聞こえた。
「間に合って」
その瞬間。
ホーム全体にひびが入った。
白い床。
白い柱。
白い空。
全部が音もなく割れていく。
空が砕ける。
世界が崩れる。
少女が遠ざかる。
将太は手を伸ばす。
届かない。
そして、最後に残ったのは、一つの言葉だった。
『ダンニュク』
将太は飛び起きた。
午前三時。
全身が汗で濡れている。
呼吸が荒い。
心臓が痛いほど鳴っている。
「……夢?」
違う。
分かっている。
ただの夢ではない。
将太は机を見る。
その瞬間、息を呑んだ。
机の上。
自分のノート。
閉じていたはずのそれが、勝手に開いていた。
白紙のページ。
そこに、新しい文字が浮かび上がっていく。
『観測開始まで』
『残り 十三日』
将太の鼓動が速くなる。
観測開始。
初めて見る言葉だった。
だが、本能が理解していた。
これはカウントダウンだ。
何かが始まる。
取り返しのつかない何かが。
『綾小路』
三成の声。
振り返ると、三成が窓際に立っていた。
いつものように腕を組んでいる。
だが、その顔は硬かった。
「観測開始って何だ」
三成は答えない。
「知らないのか」
『……言葉だけは聞いたことがある』
将太は息を呑んだ。
「何なんだ」
三成は窓の外を見る。
深夜の住宅街。
動いている世界。
普通の夜。
そのはずなのに、どこか遠くで何かがこちらを見ている気がした。
『観測される』
三成は低く言った。
「誰が」
三成は振り返った。
そして、静かに答えた。
『世界が』
将太はノートを見る。
『残り 十三日』
文字は消えない。
そこに残っている。
まるで、逃げられない予定のように。
「三成」
『何だ』
「俺が停止世界に入ってたんじゃないのか」
三成は何も言わない。
「俺が見てたんじゃないのか」
沈黙。
それが答えのようだった。
将太は初めて思った。
停止世界へ入っていたのは、自分の意思だった。
観察していたのも、自分のつもりだった。
だが、本当は違うのかもしれない。
自分が見ていたのではない。
ずっと。
向こうが自分を見ていた。
そして、その中心にいるのは、間違いなく自分だった。
ノートの文字が、もう一度だけ薄く光った。
『残り 十三日』
将太は、声に出して確認した。
「如月心陽を見失うな」
息を吸う。
「田中真心を忘れるな」
三成が、ほんの少しだけ目を伏せた。
その仕草を見て、将太は理解した。
この二つの名前だけは、絶対に手放してはいけない。
見られすぎた者。
忘れられた者。
二つの名前が白い駅を開く鍵であり、同時に、将太をこちら側につなぎ止める楔でもある。
窓の外。
深夜の住宅街の向こう。
一瞬だけ、白い光が見えた。
駅のホームのような光。
将太は目を逸らさなかった。
もう見つかっている。
なら、今さら目を逸らしても意味がない。
ただし、見るものを間違えてはいけない。
影ではなく、本人を。
役割ではなく、名前を。
将太はノートを閉じた。
眠ることは、もう諦めた。




