第53話 見えてしまったもの
53話 見えてしまったもの
塾の休憩時間。
最上位クラスの教室は、異様な盛り上がりだった。
人だかりの中心。
悠真。
天堂。
そして一枚の紙。
誰かが掲げるたびに、歓声が上がる。
「見せろ見せろ!」
「マジでやばいって!」
「すげぇ……」
「全国かよ」
模試の速報順位だった。
冬休み直前に受けた大手模試。
返却されたばかりらしい。
将太も人混みの後ろから覗いた。
悠真の順位。
高い。
かなり高い。
全国一桁。
その数字だけで、教室の空気が変わっていた。
だが、周囲が騒いでいる理由はそこだけではなかった。
「天堂の方もやべぇだろ」
「前回から何百位上げてんだよ」
「意味分からん」
天堂は苦笑していた。
「たまたまだ」
「たまたまでこんな上がらねぇよ」
教室は笑いに包まれる。
普通の光景。
模試の結果に一喜一憂する、いつもの塾の休憩時間。
そのはずだった。
将太は違和感を覚えた。
胸の奥に、嫌な重さがある。
理由は分からない。
だが最近、こういう感覚は外れない。
視線が自然と窓へ向く。
冬の空。
ビルの隙間。
遠くの雲。
その時だった。
世界が止まった。
音が消える。
笑い声が途切れる。
掲げられた順位表が空中で静止する。
紙の端も動かない。
チョークの粉も落ちない。
停止世界。
「またか……」
将太は小さく呟いた。
最近、頻度が増えている。
自分の意思ではない。
勝手に引き込まれる。
『良くない兆候だ』
三成の声がした。
『短時間で戻れ』
将太は頷いた。
長居するつもりはなかった。
だが、次の瞬間。
異変が起きた。
「……ん?」
声。
将太は固まる。
教室の中央。
人混みの中。
悠真が眉をひそめていた。
動いている。
いや。
完全ではない。
身体はほとんど静止したまま。
だが、目だけが動いている。
ゆっくり。
左右を見渡す。
「何だ……これ」
声が漏れた。
将太の背筋に寒気が走る。
『馬鹿な』
三成が低く呟いた。
『見えているのか』
悠真は立ち上がろうとした。
だが身体は動かない。
目だけ。
意識だけ。
停止世界に触れている。
そして、悠真の視線が真っ直ぐ将太を捉えた。
「お前……」
将太は動けなかった。
「綾小路」
悠真の顔が引きつる。
「今」
言葉が途切れる。
そして、悠真は信じられないものを見るように言った。
「動いたか?」
教室は静まり返っていた。
いや。
元から静まり返っている。
止まった世界だからだ。
将太は何も答えられない。
悠真も理解できていない。
だが確かに見てしまった。
停止した世界で。
動く将太を。
その時。
さらに異変が起きた。
教室後方。
窓際。
天堂だった。
彼は動いていない。
悠真のように喋ってもいない。
だが。
その影だけが、ゆっくりと立ち上がった。
将太は息を呑む。
影が、本体から離れている。
『おい』
三成の声が緊張する。
『見るな』
だが遅かった。
天堂の影は、こちらを向いていた。
顔はない。
目もない。
それなのに、笑っている気がした。
そして、口のあるはずの場所が動く。
『ようやく』
声が響いた。
『見つけた』
将太の全身が凍りつく。
その言葉。
真心のノート。
心陽の影。
停止世界の教室。
何度も現れた言葉。
『見つけた』
同じだった。
その瞬間、悠真の背後で孔明が静かに目を開いた。
深く、冷たい目。
何かを読み切ろうとする目。
そして天堂の背後では、信長の影が微かに笑っていた。
だが、今動いている影は信長ではなかった。
もっと別のもの。
天堂本人の奥から滲み出てきた何かだった。
信長の熱とは違う。
黒衣の冷たさとも違う。
心陽の影の薄さとも違う。
もっと古く。
もっと暗い。
名前を与えられる前の感情のようなもの。
『二人目』
影が呟いた。
将太の呼吸が止まる。
すると、教室の床に落ちていた他の影が、わずかに揺れた。
心陽の影。
真心の影。
悠真の影。
天堂の影。
そして、将太自身の影。
全部が一瞬だけ、同じ方向を向いた。
窓の外。
ビルの向こう。
もっと遠く。
白い光が見えた気がした。
駅。
白い駅。
そのホームの端に、誰かが立っている。
黒衣ではない。
真心に似た人影。
だが、真心ではない。
将太はそれを見た瞬間、頭の奥が痛んだ。
見てはいけない。
思い出してはいけない。
そんな感覚が、体の奥から湧き上がる。
『見るな!』
三成が叫んだ。
将太は反射的に目を逸らした。
だが、もう遅かった。
白い駅の人影は、こちらを見ていた。
その口元が動く。
声は聞こえない。
だが、意味だけは届いた。
――まだ、思い出していない。
将太の胸が締めつけられる。
思い出す。
何を。
真心のことか。
ダンニュクのことか。
白い駅のことか。
それとも、自分自身のことか。
考えようとした瞬間、天堂の影がもう一度笑った。
『憑いてる』
将太は目を見開いた。
その言葉は、今まで何度も聞いてきた言葉だった。
強い人間には何かが憑いている。
才能ある者には何かが憑いている。
選ばれた者には何かが憑いている。
だが、その影の声は違った。
憑いている。
背後に何かがいる、という意味ではない。
誰かが誰かに取り憑いている、という意味でもない。
もっと根本的な何か。
この世界そのものに。
人の視線に。
名前に。
記憶に。
影に。
何かが、憑いている。
将太は喉が乾くのを感じた。
その瞬間。
世界が弾けるように戻った。
歓声。
笑い声。
机を叩く音。
紙の擦れる音。
全てが一気に流れ込む。
「おい?」
悠真が将太を見ていた。
「どうした?」
普通の顔。
普通の声。
さっきの記憶がないようだった。
いや。
完全にないわけではない。
悠真の目の奥に、ほんの少しだけ違和感が残っている。
夢の内容を忘れた直後のような顔。
見たはずなのに、掴めていない顔。
「顔色悪いぞ」
天堂も振り返る。
「大丈夫か?」
その表情に異常はない。
影も普通だ。
だが、将太には分かっていた。
今のは見間違いではない。
悠真は、停止世界を見た。
まだ入口だけ。
意識だけ。
それでも見た。
そして天堂の中には、何かがいる。
信長だけではない。
黒衣とも違う。
心陽の影とも違う。
真心のノートとも違う。
もっと古く、もっと危険な何かが。
教室の窓から冬の光が差し込む。
その光の中で、将太だけが静かに確信していた。
二人目は、もうすぐ現れる。
そして、その時。
自分たちの日常は終わる。
休憩時間が終わるチャイムが鳴った。
生徒たちが席に戻る。
順位表は掲示板に貼られた。
悠真はいつものようにノートを開く。
天堂は軽く笑いながら席に戻る。
心陽は静かにペンを持つ。
真心は窓際で問題集を開く。
何も変わっていない。
だが、将太は見てしまった。
それぞれの影が、ほんの一瞬だけ白い駅の方を向いていたことを。
そして。
自分の影だけが。
遅れて、将太本人を見上げたことを。




