第52話 二人目
52話 二人目
気付くと、将太は駅前の地面に膝をついていた。
荒い呼吸。
冷たい汗。
頭が割れそうに痛い。
「っ……」
視界が揺れる。
吐き気もある。
今までで一番ひどかった。
黒衣。
ダンニュク。
そして、最後に見えた人影。
真心に似ていた。
いや。
本当に真心だったのか。
将太には分からなかった。
『帰るぞ』
三成だった。
珍しく強い口調だった。
「待て」
『待たん』
「まだ――」
『限界だ』
三成の声で、将太はようやく気付いた。
右手が震えている。
足にも力が入らない。
停止世界へ入り過ぎている。
最近ずっとそうだった。
勉強。
探索。
観測。
その繰り返し。
現実の時間では数分でも、将太の体には確実に負荷が残っていた。
『死ぬぞ』
三成が静かに言った。
将太は何も返せなかった。
次の瞬間、世界が戻った。
時計が動く。
音が戻る。
現実。
将太は自室の椅子に座っていた。
時計を見る。
二分。
現実では二分しか経っていない。
だが、体感では何時間もいた気がした。
机の上には開いた問題集。
シャープペン。
消しゴム。
そして、端に置いたノート。
そこに、自分で書いた覚えのない文字があった。
『二人目』
将太は息を呑んだ。
自分の字だった。
だが、書いた記憶がない。
形は確かに将太の字なのに、筆圧だけが違っていた。
強い。
乱れている。
焦っている。
まるで誰かに急かされながら書いたような字だった。
『消せ』
三成が言った。
「何で」
『残すな』
「手がかりだろ」
『目印にもなる』
将太はノートを見下ろした。
二人目。
その三文字が、紙の上で妙に黒く沈んで見えた。
消したくない。
だが、残してはいけない気もする。
将太は消しゴムを取った。
ゆっくり文字をこする。
黒鉛が薄くなる。
だが、完全には消えなかった。
紙に跡が残る。
押し込まれたような跡。
消したはずなのに、光の角度によって読めてしまう。
二人目。
将太はノートを閉じた。
眠れる気はしなかった。
だが、体が限界だった。
ベッドに倒れ込むと、意識はすぐに沈んだ。
翌朝。
「将太」
母だった。
「本当に大丈夫?」
朝食の席。
母は心配そうな顔で将太を見ていた。
「顔色、悪いよ」
「寝不足」
「勉強し過ぎじゃない?」
将太は曖昧に笑った。
否定できなかった。
実際、勉強時間は増えている。
ただし、現実ではない場所で。
食卓の味噌汁の湯気を見ながら、将太はふと思った。
湯気が動いている。
当たり前のことなのに、それだけで少し安心する。
停止世界では、湯気すら止まる。
雨も止まる。
人も止まる。
だが、影だけは動く。
そのことを考えた瞬間、食卓の下を見そうになった。
将太はこらえた。
今、見るべきではない。
学校へ行くと、教室はいつも通りだった。
天堂が窓際で髪をいじっている。
陽斗は朝から誰かと話している。
志保は単語帳を開いている。
来海と大地は、昨日の小テストの点数について言い合っていた。
普通の教室。
普通の朝。
同じ学校の生徒たち。
将太は一人ずつ名前を確認する。
天堂。
陽斗。
志保。
来海。
大地。
消えていない。
まだ大丈夫だ。
「綾小路」
天堂が声をかけてきた。
「昨日、ちゃんと寝たか」
「寝た」
「嘘だろ」
「少しは寝た」
天堂はため息をついた。
「お前、最近おかしいぞ」
「前からだろ」
「前とは種類が違う」
将太は返事をしなかった。
天堂は机に肘をつき、将太をじっと見る。
「昨日、俺の名前を確認してただろ」
「……ああ」
「何なんだよ、それ」
将太は教室の床を見た。
天堂の影がある。
普通の影。
朝の光に伸びているだけの影。
そのはずだった。
だが、ほんの一瞬。
影の奥に、別の輪郭が見えた。
燃えるような黒。
信長の気配。
そしてそのさらに奥に、もっと細い影。
黒衣。
境界を見る者。
将太はすぐに目を逸らした。
『見るな』
三成の声がした。
将太は小さく息を吐く。
最近、その警告ばかりだ。
見るな。
追うな。
触るな。
だが見なければ分からない。
追わなければ近づけない。
触れなければ救えない。
そんなことも、もう分かっている。
午前の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
黒板の文字。
教師の声。
ノート。
教科書。
それらが何度も遠ざかった。
気を抜くと、机の端に文字が浮かびそうになる。
二人目。
ダンニュク。
見つけた。
将太は何度もシャープペンを握り直した。
現実に戻るために。
放課後。
将太は塾へ向かった。
体は重い。
頭も痛い。
だが、行かないという選択肢はなかった。
心陽の状態を確かめる必要がある。
真心が何を知っているのかも。
塾のビルに入ると、掲示板の前がざわついていた。
冬期講習の予定表ではない。
模試の速報順位。
最上位クラスの生徒たちが集まっている。
「おお」
「マジか」
「全国一桁?」
誰かの声がした。
将太は人だかりの向こうを見る。
中心にいたのは悠真だった。
悠真は騒がれているのに、いつも通り静かだった。
ただ、順位表を見ている。
全国一桁。
その数字は、紙の上で妙に現実感を持っていた。
努力。
才能。
戦略。
積み上げ。
そういうものが、一つの数字に圧縮されている。
周囲の視線が悠真に集まる。
尊敬。
嫉妬。
驚き。
畏れ。
その全部が、悠真に向けられている。
将太には見えた。
悠真の背後で、孔明の影が静かに目を開く。
まるで、何かが始まるのを待っていたように。
その少し離れた場所で、天堂が立っていた。
同じ学校から直接来たらしい。
天堂は順位表を見て笑っていた。
「やっぱ化け物だな」
軽い声だった。
だが、将太には分かった。
その奥にある熱。
悔しさ。
興奮。
競争心。
自分もそこへ行きたいという、隠しきれない衝動。
天堂の影が、わずかに揺れた。
信長の影が、その感情に火をつけるように大きくなる。
まずい。
将太は直感した。
悠真の順位は、ただの模試結果ではない。
これは、悠真と天堂を本格的に停止世界へ引き寄せるきっかけになる。
見られる者。
追う者。
追われる者。
その構図が、ここで強くなる。
「綾小路くん」
横から声がした。
真心だった。
相変わらず静かな表情。
だが、今日は少し疲れて見えた。
「大丈夫?」
「最近よく言われる」
「顔色悪い」
「それもよく言われる」
真心は少し黙った。
そして、小さく言った。
「無理しない方がいいよ」
その瞬間、将太の背筋が凍った。
聞いたことがある。
その言い方。
その口調。
停止世界で。
どこかで。
聞いた気がする。
「田中」
「何?」
「お前」
言いかけて止まる。
何を聞く。
停止世界に入れるのか。
黒衣を知っているのか。
ダンニュクとは何なのか。
二人目とは誰なのか。
どれも言えない。
真心は不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの?」
その時、教室の奥から双葉の声がした。
「如月さん、来た」
将太は振り返った。
心陽が教室に入ってきた。
ゆっくりと。
いつも通りの姿勢。
いつも通りの表情。
だが、どこか薄い。
光に透けているわけではない。
ちゃんとそこにいる。
それなのに、輪郭だけが曖昧だった。
麻里がすぐに近寄る。
「心陽、大丈夫?」
「大丈夫」
心陽は笑った。
普通の笑顔。
だが、将太は固まっていた。
見えた。
ほんの一瞬。
心陽の影。
床に伸びる黒い輪郭。
その影が、将太を見ていた。
本人ではない。
影だけが。
そして、口が動いた。
『二人目』
声は聞こえない。
だが分かった。
確かにそう言った。
将太の心臓が大きく跳ねる。
「綾小路くん?」
真心の声で我に返った。
「どうしたの?」
「いや」
「顔、真っ青」
「何でもない」
何でもなくなかった。
心陽の影。
黒衣。
自分のノート。
真心のノート。
全部が同じ言葉を使っている。
二人目。
何のことだ。
誰のことだ。
それとも、もう人間のことではないのか。
授業が始まった。
最上位クラスの教室は、模試の結果で少し浮ついていた。
だが講師が入ると、一気に静かになる。
ここにいる生徒たちは分かっている。
順位に喜べる時間は短い。
次の模試。
本番。
もっと上の誰か。
数字は常に次の数字に追われる。
将太は心陽の席を見ないようにした。
だが、意識すればするほど見てしまう。
心陽は普通に問題を解いている。
ノートも取っている。
講師の説明にも反応している。
だが、影だけが違う。
本人の動きに、わずかに遅れる。
時々、先に動く。
そして一度だけ、机の下から真心の席の方へ伸びた。
将太は息を止める。
真心は窓際の席で、静かに問題集を見ていた。
何も気付いていないように見える。
だが、その影は。
一瞬だけ。
将太の影と同じ方向を向いた。
講師のチョークが黒板を叩く。
「ここは条件整理です。見えているものに飛びつかない。まず、何が隠れているかを見る」
将太は黒板を見る。
何が隠れているか。
見えているものに飛びつかない。
まるで、今の状況そのものだった。
休憩時間。
教室のざわめきが戻る。
悠真の順位の話題はまだ続いていた。
双葉が麻里と話している。
心陽は席に座ったまま、ノートを閉じていた。
将太は迷った。
声をかけるべきか。
だが、現実の距離感では不自然だ。
心陽とは塾で同じクラスというだけで、そこまで親しいわけではない。
近づけば、周囲に見られる。
見られる。
その言葉で、将太の胸が締め付けられた。
心陽はもう十分見られている。
これ以上、将太が見ていいのか。
迷った瞬間、心陽の方から立ち上がった。
そして、将太の席まで来た。
「綾小路くん」
教室のざわめきが少しだけ小さくなった気がした。
最上位クラスで目立つ心陽が、将太に声をかけたからだ。
視線が集まる。
心陽の影が、床で小さく震えた。
「少し、いい?」
将太は立ち上がった。
廊下に出る。
塾の廊下は、授業間の生徒で少し騒がしかった。
だが、心陽は人気の少ない階段横まで歩いた。
将太も続く。
心陽はしばらく黙っていた。
そして、自分の手元を見ながら言った。
「私、最近変なの」
将太は何も言わなかった。
「自分の名前を忘れそうになる」
言葉が静かすぎて、逆に怖かった。
「如月心陽って、何回も書かないと不安になる」
「覚えてるんだろ」
「覚えてる」
心陽は頷いた。
「でも、名前だけが残って、私がいなくなる感じがする」
将太の胸が重くなる。
心陽は続けた。
「みんなが私を見る。成績も、順位も、表情も、失敗も、全部」
声は震えていない。
だが、影が震えていた。
「見られるのは慣れてると思ってた」
心陽は少し笑った。
「でも違ったみたい」
将太は、心陽本人を見た。
影ではなく。
順位でもなく。
役割でもなく。
「如月心陽」
名前を呼ぶ。
心陽が顔を上げる。
「お前は、いる」
短い言葉だった。
だが、心陽の目が少し揺れた。
その時。
廊下の奥で、空気が変わった。
音が遠ざかる。
生徒の動きが鈍くなる。
階段を上がっていた塾生の足が、途中で止まる。
停止世界。
心陽が目を見開いた。
「何……これ」
将太は息を呑んだ。
心陽が止まっていない。
意識がある。
完全ではない。
体は重そうだ。
だが、確かに見えている。
そして、廊下の先。
白い光が漏れていた。
駅の改札のような扉。
その前に、黒衣が立っている。
黒衣は右手を上げた。
一本目の指。
一人目。
二本目の指。
二人目。
そして、ゆっくりと心陽を指さした。
心陽の影が、床から浮き上がる。
本人の足元から離れようとする。
心陽が小さく息を呑む。
「やだ」
初めて、心陽の声に恐怖が混じった。
「何、これ」
将太は一歩前に出た。
だが、黒衣が口を開いた。
「二人目が近い」
その声が廊下に響いた瞬間、心陽の影が大きく広がった。
廊下の壁に、心陽の名前が浮かぶ。
如月心陽。
如月心陽。
如月心陽。
如月心陽。
何度も。
何度も。
壁一面に。
まるで、誰かが彼女を忘れないように書き続けているように。
いや、違う。
見続けている。
名前を書いているのではない。
名前を固定している。
心陽の顔が青ざめる。
「やめて」
将太は黒衣を見る。
「お前は何なんだ」
黒衣は答えない。
代わりに、白い扉の向こうから声がした。
駅のアナウンスのような白い声。
『二人目、観測準備』
心陽の影が、さらに剥がれる。
将太は心陽の手首を掴んだ。
冷たい。
異常なほど冷たい。
「如月心陽!」
将太は叫んだ。
心陽の目が将太を見る。
今度は、ちゃんと見た。
影ではなく。
白い駅でもなく。
将太を見た。
「私は」
心陽が震える声で言った。
「私は、如月心陽」
その瞬間、壁の文字が一斉に消えた。
影が床に叩きつけられるように戻る。
黒衣が少しだけ首を傾けた。
まるで、興味深いものを見るように。
そして、黒衣はもう一度口を開いた。
「ダンニュク」
将太の頭に痛みが走る。
だが、前よりは耐えられた。
意味はまだ分からない。
だが、音だけは覚えた。
忘れない。
心陽の名前も。
真心の名前も。
この言葉も。
世界が戻る。
廊下の音。
生徒の声。
階段を上がる足音。
すべてが一気に戻った。
心陽はその場に立っていた。
顔色は悪い。
だが、影は足元にある。
将太は手を離した。
「今の」
心陽が小さく言った。
「夢じゃないよね」
「違う」
「私、見えてた」
「たぶん」
心陽は自分の手を見る。
そして、小さく呟いた。
「二人目って、私のこと?」
将太は答えられなかった。
答えたくなかった。
だが、沈黙が答えになってしまう気がした。
その時、背後から声がした。
「近づいてる」
真心だった。
いつの間にか、廊下の少し離れた場所に立っていた。
将太と心陽が振り返る。
真心は、自分で言ったことに驚いたような顔をしていた。
「ごめん」
真心は小さく首を振った。
「今の、私じゃない」
「田中」
将太が呼ぶ。
真心の影が、一瞬だけ将太の影と同じ方向を向いた。
そして、真心はぽつりと言った。
「思い出しそうになると、忘れたくなるの」
心陽が真心を見る。
二人の視線が初めて正面から重なった。
見られすぎた者。
忘れられた者。
光と空白。
二つの名前。
その瞬間、廊下の照明が一度だけ白く瞬いた。
将太は見た。
心陽の影と真心の影が、ほんの一瞬だけ同じ形になったことを。




