第51話 如月心陽を見失うな
第五十一話 如月心陽を見失うな
将太が目を覚ました時、保健室の天井が見えた。
白い天井。
薄いカーテン。
消毒液の匂い。
遠くで聞こえるチャイム。
現実の音だった。
将太はしばらく動けなかった。
体が重い。
頭の奥が鈍く痛む。
足首には、まだ冷たい感覚が残っている。
あの影に触れられた場所。
停止世界の教室。
塾の席。
如月心陽のノート。
田中真心の名前。
そして、白い声。
『本物のオブザーバーを確認』
将太は目を閉じた。
思い出したくない。
だが、忘れてはいけない。
今までとは違う。
こちらが見ているだけではなくなった。
向こうも、こちらを見つけた。
「起きたか」
カーテンの向こうから声がした。
天堂だった。
椅子に座っていたらしい。
将太が顔を向けると、天堂はいつになく真面目な顔をしていた。
「倒れたぞ、お前」
「知ってる」
「知ってるじゃないだろ」
天堂は少し苛立ったように言った。
「階段の踊り場で、急に立ち止まって、そのまま崩れた。目は開いてたのに、こっちの声が全然聞こえてなかった」
「……悪い」
「何を見てた」
将太は答えなかった。
答えようとして、言葉が詰まった。
どこから話せばいいのか分からない。
心陽。
真心。
白い駅。
ダンニュク。
黒衣。
観測地図。
一つ説明しようとすると、全部を説明しなければならなくなる。
だが全部を説明しても、たぶん伝わらない。
天堂は将太を見ていた。
強く問い詰めるわけではない。
ただ、逃がす気もない目だった。
「綾小路」
「何」
「俺の名前、分かるか」
将太は眉を寄せた。
「天堂だろ」
「下の名前は」
「……」
将太は口を開いた。
だが、すぐに出てこなかった。
ぞっとした。
知っている。
当然知っている。
同じ学校で、何度も話している。
信長の影を背負っている。
それなのに、一瞬だけ名前が抜け落ちた。
天堂は、その反応を見逃さなかった。
「今、忘れかけたな」
「違う」
「違わない」
天堂は低く言った。
「お前、さっき俺を見た時も一瞬そんな顔をした」
将太は黙った。
保健室の時計は動いている。
秒針も進んでいる。
世界は止まっていない。
それなのに、胸の奥だけが冷えていく。
忘れる。
名前が抜ける。
輪郭がぼやける。
真心だけの話ではない。
これは広がっている。
「天堂」
将太は、あえて名前を呼んだ。
確認するように。
繋ぎ止めるように。
「俺、たぶんまずい」
「見れば分かる」
「名前が」
「名前?」
「名前が、消えかける」
天堂の表情が変わった。
その瞬間、保健室のカーテンの影が、わずかに揺れた。
風はない。
窓も閉まっている。
だが、影だけが動いた。
天堂の背後にある影。
強い輪郭。
燃えるような黒。
信長。
その影が、将太を見ている。
将太は視線を逸らした。
見てはいけない。
今は。
見るべきなのは、影ではない。
本人だ。
「天堂」
もう一度呼ぶ。
天堂は少し眉を動かした。
「何だよ」
「お前は、天堂だ」
「当たり前だ」
「忘れないようにしてる」
天堂は何か言いかけて、やめた。
冗談にするには、将太の顔が本気すぎたのだと思う。
昼休みが終わる頃、将太は教室に戻った。
先生には貧血ということになっていた。
天堂がそう説明してくれたらしい。
教室では、陽斗がすぐに声をかけてきた。
「大丈夫かよ、将太。倒れたって聞いたぞ」
「大丈夫」
「顔色やばいけど」
志保が机から顔を上げる。
「無理してる顔」
来海も振り返った。
「保健室戻ったら?」
大地は何も言わなかったが、将太の顔を見て少しだけ眉を寄せた。
同じ学校の者たち。
現実にいる者たち。
陽斗。
志保。
来海。
大地。
天堂。
将太は一人ずつ名前を心の中で確認した。
消えていない。
まだ大丈夫だ。
だが、油断すれば輪郭が薄くなる。
名前を呼ばなければ、遠ざかる。
そんな感覚があった。
放課後。
将太は塾へ向かった。
行くべきではない。
体はそう訴えていた。
だが、行かなければならない。
心陽がどうなっているのか。
真心が何を知っているのか。
確かめないままではいられなかった。
塾のビルに入ると、いつもの空気があった。
受付。
掲示板。
冬期講習の予定表。
模試の案内。
偏差値帯ごとの志望校判定。
現実の数字が、壁に貼られている。
ここでは、すべてが点数で測られる。
順位。
偏差値。
クラス。
合格可能性。
誰が上で、誰が下か。
誰が見られる側で、誰が忘れられる側か。
将太は階段を上がった。
最上位クラスの教室に入る。
悠真はもう座っていた。
いつものように問題を解いている。
姿勢は変わらない。
だが、将太が入った瞬間、悠真は顔を上げた。
目が合う。
悠真の背後に、孔明の影が薄く見えた。
静かで、深い影。
見通すような目。
将太はその影を見ないようにして、悠真本人を見る。
「綾小路」
悠真が言った。
「今日、何かあったか」
「何で」
「顔が違う」
短い言葉だった。
だが、ごまかせない鋭さがあった。
将太は席についた。
心陽の席を見る。
空席だった。
胸が冷える。
双葉が近づいてきた。
「如月さん、やっぱり休みだって」
「体調不良?」
「うん。でも、麻里が言うには、ちょっと変だったらしい」
麻里は教室の前方で、ノートを開いていた。
いつもより落ち着かない様子だった。
将太は双葉を見る。
「何が変だった」
「朝、電話したらしいんだけど」
双葉は声を落とした。
「如月さん、自分で自分の名前を確認してたって」
「確認?」
「麻里が『大丈夫?』って聞いたら、如月さんが何回も言ったらしい」
双葉は一度言葉を切った。
「私は如月心陽。私は如月心陽。私は如月心陽って」
将太は手を握った。
やはり。
戻れていない。
第50話で影を引き戻した。
だが、完全ではない。
心陽はまだ、自分の名前を必死に掴んでいる。
「それで」
将太が聞く。
「最後に、変なこと言ったって」
「何て」
「分からない」
「分からない?」
「麻里も聞き取れなかったって。でも、たぶん外国語みたいな」
将太の心臓が嫌な音を立てた。
双葉は少し考えながら言った。
「ダン……何とか」
将太は息を止めた。
「ダンニュク?」
双葉が目を見開いた。
「そう。それ。何で分かるの?」
将太は答えなかった。
教室の音が遠くなる。
講師が入ってくる気配。
生徒たちが席に戻る音。
ページを開く音。
全部が薄くなる。
ダンニュク。
真心のノートにあった言葉。
黒衣が口にした言葉。
そして今、心陽が言ったかもしれない言葉。
繋がっている。
だが、まだ意味が分からない。
授業が始まった。
将太は黒板を見ていた。
見ているつもりだった。
だが、文字が頭に入ってこない。
数式が並んでいる。
条件整理。
場合分け。
最大値。
最小値。
いつもなら追えるはずの説明が、今日は遠い。
代わりに、心陽の空席ばかりが目に入る。
そこには誰もいない。
だが、いないはずなのに、いる。
机の上に薄く文字が見えた。
現実の教室。
動いている時間。
講師の声。
それなのに、心陽の机の表面に、白い傷のような文字が浮かび上がる。
『見られている』
将太は目をこすった。
消えない。
文字はさらに増える。
『見られている』
『見られている』
『見られている』
机いっぱいに、同じ言葉が広がっていく。
その上から、別の文字が浮かぶ。
『忘れられている』
将太は息を呑んだ。
見られている。
忘れられている。
心陽と真心。
光と空白。
二つの名前が、同じ机の上で重なっている。
その瞬間。
講師の声が止まった。
チョークの粉が空中で止まる。
時計の秒針が止まる。
生徒たちの動きが止まる。
停止世界。
いや。
違う。
完全な停止世界ではなかった。
音が少し残っている。
遠くで電車の音がする。
塾の教室の外に、駅の気配がある。
将太はゆっくり立ち上がった。
悠真も動いた。
将太は驚いて見る。
悠真が、止まった世界の中で顔を上げていた。
「綾小路」
悠真の声が聞こえた。
「これは何だ」
将太は答えられなかった。
悠真が動いている。
停止世界で。
完全にではない。
動きは重そうだった。
だが、確かに意識がある。
孔明の影が、悠真の背後で目を開けている。
三成の声がした。
『近づいてきたな』
「何が」
『お前だけの地図ではなくなっている』
将太は教室を見回した。
止まった生徒たち。
止まった講師。
止まったチョーク。
だが、悠真だけが動いている。
そしてもう一つ。
空席のはずの心陽の席。
そこに、薄い人影が座っていた。
如月心陽。
顔を伏せている。
現実には休んでいるはずなのに。
観測地図の中に、席だけが現れている。
将太は一歩近づいた。
悠真が言う。
「待て」
「待てない」
「それが如月本人とは限らない」
鋭い言葉だった。
将太は足を止めた。
悠真は、状況を理解していない。
だが、危険だけは読んでいる。
孔明の影がそうさせているのか。
それとも、悠真自身の力なのか。
将太には分からなかった。
心陽の影が動いた。
本人は顔を伏せたまま。
影だけが、机の下から伸びる。
床を這い、教室の後方へ向かう。
そこには、もう一つ席があった。
田中真心の席。
だが、そこにも本人はいない。
机の上には白いノート。
表紙には名前がない。
将太はその席を見て、胸が痛んだ。
忘れられた者の席。
名前を書かなければ、存在できない席。
心陽の影が、その席へ触れようとしていた。
『止めろ』
三成が言った。
『繋がるぞ』
将太は駆け出した。
床が伸びる。
距離がおかしい。
心陽の席は目の前にあるのに、走っても走っても近づかない。
塾の教室が広がっていく。
机の数が増える。
知らない生徒の席。
模試会場の席。
学校の席。
駅のベンチ。
東京駅のホーム。
全部が一つの空間に混ざっていく。
悠真の声が後ろから飛ぶ。
「綾小路、名前を呼べ!」
将太は振り返らなかった。
分かっている。
影を見るな。
役割で呼ぶな。
二人目と呼ぶな。
地図と呼ぶな。
本人の名前を呼べ。
将太は息を吸った。
「如月心陽!」
心陽の肩が震えた。
影の動きが止まる。
だが、まだ戻らない。
影は真心の席に指先を伸ばしたまま止まっている。
あと少し。
あと少しで触れる。
触れたら何が起きるのか、将太には分からない。
だが、分からないからこそ、止めなければならない。
「如月心陽!」
二度目。
今度は、心陽が顔を上げた。
目が合った。
その目は、将太を見ているようで、見ていなかった。
もっと奥。
もっと遠い場所。
白い駅のホームを見ている。
心陽の唇が動いた。
「私は」
声が聞こえた。
薄い声。
消えそうな声。
「私は、誰?」
将太の足が止まる。
その問いは、危うかった。
答えを間違えれば、心陽は影に持っていかれる。
お前は見られすぎた者だ。
二人目だ。
白い駅の鍵だ。
そんな答えでは駄目だ。
将太は、まっすぐ心陽を見た。
影ではなく。
席ではなく。
名前でもなく。
それでも、名前を呼ぶ。
「如月心陽」
心陽の目が、ほんの少し揺れた。
「塾の最上位クラスにいる」
将太は続けた。
「模試でいつも上にいて」
心陽の影が少し縮む。
「静かで」
さらに一歩。
「人に見られるのが得意そうに見えて」
もう一歩。
「でも、本当は見られすぎて苦しかった」
心陽の表情が変わった。
初めて。
薄い顔に、本人の感情が戻る。
「お前は影じゃない」
将太は言った。
「地図でもない」
心陽の影が床で震える。
「二人目でもない」
真心の席の白いノートが勝手に開く。
ページがめくれる。
文字が浮かぶ。
『呼ぶな』
将太は無視した。
「如月心陽」
声が教室に響いた。
その瞬間、心陽の影が本人の足元へ引き戻された。
床が揺れる。
机が一斉に軋む。
悠真が机に手をつく。
孔明の影が大きく広がる。
白いノートのページが激しくめくれる。
そして、一枚のページが破れるように浮かび上がった。
そこに文字があった。
『田中真心を忘れるな』
将太は、その文字を見た。
忘れてはいけない。
心陽を呼べば、真心が遠ざかる。
真心を追えば、心陽が影に近づく。
そういう仕組みなのか。
二つの名前が鍵。
片方だけを掴めば、もう片方が沈む。
将太は歯を食いしばった。
「田中真心」
声に出した。
白いノートの動きが止まる。
「忘れない」
その瞬間、教室の奥に白い扉が現れた。
駅の改札のような形をした扉。
まだ開いていない。
だが、隙間から白い光が漏れている。
その前に、黒衣が立っていた。
黒いコート。
フード。
境界を見る者。
黒衣は、右手を上げた。
一本目の指。
一人目。
次に、二本目の指。
二人目。
そして、ゆっくり三本目の指を立てた。
将太の背筋が凍った。
三。
三人目。
それが誰なのか。
考える前に、黒衣が口を開いた。
「ダンニュク」
今度は、はっきり聞こえた。
音ではない。
意味でもない。
名前のようで、名前ではない。
言葉の形をした鍵。
将太の頭に痛みが走る。
悠真が耳を押さえる。
孔明の影が揺れる。
三成が叫んだ。
『聞き取るな!』
だが遅かった。
将太の中で、何かが開いた。
記憶ではない。
だが、見覚えがある。
白い駅。
東京駅。
止まった雨。
黒衣。
田中真心に似た人影。
そして、その向こうにある、誰も名前を呼ばない場所。
ダンニュク。
それは、人の名ではない。
場所の名でもない。
戻れなくなった者たちが、最後に流れ着く境界。
見られすぎた者。
忘れられた者。
名前を失った者。
その全てが落ちる、白い駅の裏側。
将太はそれを理解しかけた。
だが、完全に理解する前に、世界が割れた。
塾の教室が戻る。
講師の声が戻る。
チョークが黒板に当たる音が戻る。
秒針が動く。
生徒たちが息をする。
悠真は席に座っていた。
将太も席に座っていた。
何も起きていないように。
だが、心陽の席は空いたままだった。
真心の席を見る。
田中真心は座っていた。
いつの間にか。
静かに。
いつも通りに。
問題集を開いている。
だが、将太だけは見た。
真心のノートの端に、一滴だけ水が落ちている。
止まった雨粒のような水。
真心が顔を上げた。
将太と目が合う。
その目は、いつもの静かな目ではなかった。
もっと深い場所から、こちらを見ていた。
真心は声を出さずに口を動かした。
将太には、それが読めた。
――思い出さないで。
次の瞬間、将太のスマホが震えた。
授業中だ。
通知音は鳴っていない。
だが、画面だけが勝手に点灯していた。
差出人は不明。
本文は一行。
『如月心陽を見失うな』
続けて、もう一行が表示される。
『田中真心を忘れるな』
そして最後に。
『綾小路将太は、もう見られている』




