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憑いてる。  作者: 受験孔明
観測者たち
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第50話 忘れるな

第五十話 忘れるな


 翌日、将太は朝から妙に落ち着かなかった。


 理由は分かっている。


 田中真心。


 東京駅。


 そして、真心の影。


 本人よりも先に振り返った、あの影。


 普通なら見間違いで済ませる。


 疲れていた。


 暗かった。


 夕方だった。


 いくらでも理由はつけられる。


 だが、将太はもう知っていた。


 自分の目に映った異常は、たいてい異常のまま残る。


 消えたりしない。


 なかったことにもならない。


 むしろ、見なかったふりをした分だけ、後から大きくなる。


『気になるか』


 三成の声がした。


 将太は通学路を歩きながら、小さく息を吐いた。


「気になるに決まってるだろ」


『田中真心か』


「それもある」


『他にもあるのか』


 将太は答えなかった。


 頭に浮かんでいたのは、別の名前だった。


 如月心陽。


 真心の名前を考えるたびに、心陽の影が思い出される。


 薄くなる影。


 机に刻まれた言葉。


 停止世界の教室。


 そして。


『見つけた』


 同じ言葉。


 心陽の机にあった言葉と、真心のノートにあった言葉。


 偶然ではない。


 そう思う方が無理だった。


『二人を並べて考えるな』


 三成が言った。


「何で」


『引っ張られる』


「誰に」


『地図にだ』


 将太は足を止めた。


 朝の通学路。


 制服姿の生徒たちが横を通り過ぎていく。


 同じ学校の生徒。


 同じ方向へ進む人の流れ。


 天堂、陽斗、志保、来海、大地。


 自分の学校にいる者たち。


 その中に、心陽も真心もいない。


 現実では。


 だが停止世界の教室には、時々、現実の学校には存在しない席が現れる。


 塾で強く意識した相手。


 模試で名前を見た相手。


 あるいは、将太自身が見失ってはいけないと思った相手。


 それらの席が、学校の教室に紛れ込む。


 現実の座席表ではない。


 観測地図。


 将太の意識が作る、歪んだ地図。


「つまり」


 将太は呟いた。


「心陽と真心を同時に意識すると、地図が繋がるのか」


『分からん』


「分からんばっかりだな」


『分からぬものを、分かったふりで進む方が危うい』


 三成の声は静かだった。


『ただ、一つだけ言える』


「何」


『如月心陽を見失うな』


 将太の胸が、わずかに重くなる。


『田中真心を忘れるな』


 その言葉が続いた瞬間。


 周囲の音が、一瞬だけ遠ざかった。


 車の音。


 生徒たちの話し声。


 自転車のブレーキ。


 全部が水の中に沈んだように鈍くなる。


 将太は振り返った。


 誰もいない。


 いや。


 いる。


 通学路の向こう。


 止まっていない現実の中で。


 一人だけ、妙に輪郭の薄い生徒が立っていた。


 知らない制服。


 知らない顔。


 こちらを見ている。


 目が合った。


 その瞬間。


 生徒の口が動いた。


「忘れたら、戻れない」


 声は聞こえなかった。


 だが、そう言った気がした。


「……おい」


 将太が一歩踏み出す。


 次の瞬間、その生徒は人の流れに紛れて消えた。


 まるで最初からいなかったように。


『今のは見るな』


 三成が低く言った。


「見た後に言うなよ」


『ならば追うな』


 将太は拳を握った。


 追いたい気持ちはあった。


 だが、足は動かなかった。


 追ってはいけない。


 それだけは分かった。


 あれは、道に立っていた人間ではない。


 道そのものに残った何かだ。


 忘れられた足跡。


 見られすぎた場所の、裏側にあるもの。


 学校に着くと、教室はいつも通りだった。


 天堂が窓際の席でぼんやり外を見ている。


 陽斗は朝から周囲に話しかけている。


 志保は机に頬杖をつきながら、単語帳をめくっている。


 来海は大地と何かを言い合っている。


 普通の教室。


 普通の朝。


 普通の中学生の時間。


 だが、将太だけが、その普通から少しずれていた。


「綾小路」


 声をかけてきたのは天堂だった。


「顔色悪いぞ」


「寝不足」


「またか」


 天堂はそれ以上聞かなかった。


 その代わり、少しだけ目を細める。


「昨日、何か見たのか」


 将太は黙った。


 天堂は同じ学校にいる。


 現実でも近い。


 だからこそ、あまり巻き込みたくなかった。


 だが、天堂はもう何も知らない側にはいない。


 信長を背負っている。


 いや。


 信長に見られている。


 その違いを、将太は最近ようやく感じ始めていた。


「田中真心って知ってるか」


 将太が聞くと、天堂は眉を寄せた。


「誰だ」


「塾の最上位クラスにいる女子」


「お前の塾の?」


「そう」


「知らない」


 当然の答えだった。


 天堂は同じ学校だが、塾での関係は薄い。


 悠真や心陽や真心のことを、天堂が知っている必要はない。


 現実では。


 だが。


 天堂は少し考えてから言った。


「でも、その名前」


「何」


「聞いたことある気がする」


 将太は顔を上げた。


「どこで」


「分からん」


 天堂は自分でも不思議そうだった。


「夢かもしれない」


「東京駅か」


 その言葉を出した瞬間、天堂の顔色が変わった。


 ほんの少し。


 だが、確かに変わった。


「何で東京駅が出てくる」


 将太は答えられなかった。


 天堂の後ろ。


 窓ガラスに映った影が、ほんのわずかに揺れた。


 信長の影。


 強く、太く、燃えるような輪郭。


 だが、その奥に別の黒がある。


 黒衣。


 境界を見る者。


 将太は思わず目を逸らした。


『見るな』


 三成の声が重なる。


 また、それだ。


 見るな。


 追うな。


 触るな。


 最近、そればかりだ。


 だが、見なければ何も分からない。


 追わなければ近づけない。


 触れなければ救えない。


 そんなことも、将太はもう知っていた。


 午前の授業は、ほとんど頭に入らなかった。


 黒板。


 ノート。


 教師の声。


 いつもの教室。


 だが、ふとした瞬間に、空席が見える。


 存在しない席。


 教室の後方。


 窓際でも廊下側でもない、不自然な位置。


 現実にはない机が、一瞬だけ現れる。


 そこに置かれているもの。


 学習ノート。


 白い表紙。


 名前。


 田中真心。


 将太は目を閉じた。


 開く。


 机は消えている。


 心臓が速い。


 まずい。


 現実の学校に、塾の席が混ざり始めている。


 停止世界ではなく、現実の隙間に。


 昼休み。


 将太は一人で廊下に出た。


 人の声が多すぎる。


 笑い声。


 足音。


 椅子の音。


 誰かが走る音。


 全部がやけに近い。


 階段の踊り場まで行くと、ようやく少し静かになった。


 スマホを見る。


 塾の連絡アプリ。


 今日も冬期講習がある。


 最上位クラス。


 悠真。


 心陽。


 真心。


 麻里。


 双葉。


 現実では同じ学校ではない者たちが、夕方には同じ教室に集まる。


 将太は画面を閉じようとして、手を止めた。


 通知が一つ来ていた。


 差出人は双葉。


『今日、如月さん休むかも』


 将太の指が止まる。


 すぐに返信した。


『何で』


 少しして返ってくる。


『朝から体調悪いらしい。麻里が言ってた』


 体調不良。


 それだけなら普通だ。


 模試前。


 冬期講習。


 寝不足。


 緊張。


 いくらでも理由はある。


 だが、将太は普通だと思えなかった。


 もう一つ通知。


 双葉からだった。


『でも変なんだよね』


 将太はすぐに打つ。


『何が』


『如月さん、自分の名前を何回も書いてたらしい』


 将太の喉が詰まった。


『ノートに?』


『うん』


 次の文が表示されるまで、やけに長く感じた。


『如月心陽、如月心陽、如月心陽って』


 将太は画面を見つめたまま動けなかった。


 三成が沈黙している。


 その沈黙が、何より嫌だった。


 さらに通知。


『で、最後だけ違う名前を書いてたって』


 将太は息を止めた。


 返信する。


『何て』


 数秒。


 既読。


 入力中。


 そして、表示された。


『田中真心』


 その瞬間。


 廊下の空気が止まった。


 人の声が消える。


 窓の外の雲が動かない。


 階段を降りていた生徒の足が宙で止まる。


 将太はゆっくり顔を上げた。


 昼休みの学校。


 現実の校舎。


 そのはずだった。


 だが、世界は止まっていた。


『来たか』


 三成の声がした。


 将太は階段の手すりを握る。


「何が」


『地図だ』


 廊下の先。


 教室の扉が一つ、半分だけ開いている。


 将太のクラスではない。


 空き教室でもない。


 そこにあるはずのない扉。


 白い光が、細く漏れている。


 将太は歩き出した。


 一歩。


 また一歩。


 足音だけが響く。


 扉に近づくほど、胸の奥が痛くなる。


 鼓動とは違う。


 誰かに内側から名前を呼ばれているような痛み。


 扉の前に立つ。


 中を覗いた。


 教室だった。


 だが、将太の学校の教室ではない。


 塾の教室。


 最上位クラス。


 見覚えのある机。


 見覚えのある座席。


 ホワイトボード。


 窓のない壁。


 蛍光灯。


 そのすべてが、学校の中に入り込んでいる。


 現実ではありえない。


 だが、観測地図ではありえる。


 将太が強く意識した場所。


 将太が強く意識した人物。


 それらが学校の内部に席として現れる。


 教室の中央に、一つの席があった。


 如月心陽の席。


 机の上にはノートが開かれている。


 将太は近づいた。


 ページいっぱいに、同じ名前が書かれていた。


 如月心陽。


 如月心陽。


 如月心陽。


 如月心陽。


 如月心陽。


 筆圧はだんだん強くなっている。


 途中から文字が歪んでいる。


 最後の方は、ほとんど名前ではなく線だった。


 それでも分かる。


 自分を繋ぎ止めるために書いた名前だ。


 忘れないために。


 見失わないために。


 消えないために。


 将太はページの一番下を見る。


 そこに、一行だけ違う名前があった。


 田中真心。


 その文字だけ、異様に薄い。


 書いたというより、紙の奥から浮き上がっているようだった。


『閉じろ』


 三成が言った。


「またか」


『これは心陽のノートではない』


 将太の手が止まる。


「どういう意味だ」


『心陽が書いた部分と、そうでない部分がある』


「田中真心は」


『呼ばれた名だ』


 将太はノートを見下ろす。


 その時。


 背後で椅子が鳴った。


 ぎい、と。


 止まった世界で、音がした。


 将太はゆっくり振り返る。


 教室の後ろ。


 そこに、もう一つ席があった。


 さっきまではなかった席。


 机の上には白いノート。


 表紙には名前がない。


 だが、将太には分かった。


 田中真心の席。


 忘れられた者の席。


 椅子に誰かが座っている。


 顔は見えない。


 髪の長い女子生徒。


 俯いたまま、両手を机の上に置いている。


 心陽ではない。


 真心でもない。


 いや。


 どちらにも見える。


 将太は声を出そうとした。


 その瞬間、女子生徒の影が動いた。


 本人は動いていない。


 影だけが、床の上でゆっくり顔を上げる。


 影には目があった。


 黒い目。


 穴のような目。


 その目が将太を見る。


 口が裂けるように開いた。


「見つけた」


 将太の頭に激痛が走った。


 膝が崩れそうになる。


 視界が白く飛ぶ。


 だが、倒れなかった。


 机に手をつく。


 ノートのページが勝手にめくれる。


 如月心陽。


 田中真心。


 如月心陽。


 田中真心。


 如月心陽。


 田中真心。


 二つの名前が、交互に並ぶ。


 文字が増えていく。


 将太が見ている前で、紙の上に勝手に名前が刻まれていく。


 そして最後に、一文が浮かんだ。


『二つそろった』


 教室の奥の壁が揺れた。


 白い線が走る。


 まるで壁ではなく、駅のホームの柱のように。


 蛍光灯の光が変わる。


 白い。


 冷たい。


 どこか懐かしい光。


 将太は息を呑んだ。


 白い駅。


 まだ開いてはいない。


 だが、近づいている。


 心陽と真心。


 二つの名前が鍵になる。


 その意味が、ようやく形になり始めていた。


『退け、将太』


 三成が言った。


 いつもより声が低い。


『今はまだ入るな』


「心陽は」


『まだ戻れる』


「本当か」


『分からん』


 将太は笑いそうになった。


 この状況で、その答えか。


 だが、三成らしかった。


 嘘は言わない。


 分からないものは分からないと言う。


 だからこそ、今の言葉だけは信じられる。


 まだ戻れる。


 なら、戻す。


 将太はノートに手を伸ばした。


『触るな!』


 三成が叫ぶ。


 だが、遅かった。


 将太の指先が、ページに触れた。


 瞬間。


 教室のすべての机が音を立てて揺れた。


 がたん。


 がたん。


 がたん。


 一斉に椅子が後ろへ引かれる。


 誰もいない席。


 存在しない席。


 塾の席。


 学校の席。


 模試会場の席。


 知らない教室の席。


 それらが、次々と現れる。


 将太を囲むように。


 すべての机の上に、同じ文字があった。


『見ている』


 将太の呼吸が止まる。


 見ている。


 誰が。


 何を。


 答えは分かっていた。


 世界だ。


 この地図そのものが、将太を見始めている。


 女子生徒の影が、床の上を伸びる。


 黒い手のように。


 心陽の席へ。


 真心の席へ。


 そして、将太の足元へ。


「将太!」


 誰かの声がした。


 現実の声。


 天堂だった。


 遠い。


 どこか扉の向こうから聞こえる。


「おい、綾小路!」


 止まった世界の外側から、天堂が呼んでいる。


 将太は振り返ろうとした。


 だが、影が足首に触れた。


 冷たい。


 水のような冷たさ。


 東京駅で見た、止まった雨粒の温度。


 そして、声が聞こえた。


「名前を呼んで」


 心陽の声だった。


 将太は顔を上げる。


 教室の中央。


 如月心陽の席。


 そこに、心陽が座っていた。


 いつの間にか。


 制服ではない。


 塾で見た服でもない。


 白い駅の光を浴びたような、輪郭の薄い姿。


 顔を上げている。


 だが、目が合わない。


 心陽は将太を見ていない。


 どこか遠くを見ている。


 自分の影を見ている。


 その影が、心陽の足元から離れようとしていた。


 本人から剥がれるように。


 将太は息を吸った。


 ここで間違えたら終わる。


 影の名前ではない。


 役割の名前でもない。


 見られすぎた者。


 二人目。


 地図。


 そんな言葉で呼んではいけない。


 将太は一歩踏み出した。


 影が足首に絡む。


 痛い。


 冷たい。


 それでも踏み出す。


「如月」


 心陽の肩が、わずかに震えた。


 だが、まだ足りない。


 苗字だけでは駄目だ。


 クラス名でも、役割でも、観測対象でもない。


 本人の名前。


 将太は、はっきりと言った。


「如月心陽」


 その瞬間。


 教室の光が弾けた。


 心陽の影が、床に叩きつけられるように戻る。


 机の上の文字が消える。


 白い線が壁から引いていく。


 女子生徒の姿が揺らぐ。


 真心の席が遠ざかる。


 だが、消える直前。


 名前のないノートが開いた。


 そこに、一文だけ残る。


『田中真心を忘れるな』


 そして世界が動き出した。


 廊下の声。


 階段の足音。


 窓の外の雲。


 昼休みのざわめき。


 すべてが一気に戻ってくる。


 将太は階段の踊り場に立っていた。


 手には何も持っていない。


 扉もない。


 塾の教室もない。


 だが、足首にはまだ冷たい感覚が残っていた。


「おい!」


 天堂が駆け寄ってくる。


「今、何があった」


 将太は答えようとした。


 だが、その前に膝が崩れた。


 天堂が慌てて支える。


「綾小路!」


 将太は荒く息をした。


 視界の端が白く滲む。


 三成の声が聞こえない。


 初めてだった。


 いつもなら、皮肉でも警告でも何か言う。


 だが、今は何も聞こえない。


 代わりに。


 もっと遠くから、別の声が聞こえた。


 人の声ではない。


 場所の声。


 駅のアナウンスのような、低く、白い声。


『観測者を確認』


 将太の背筋が凍る。


『候補ではない』


 息が止まる。


『本物のオブザーバーを確認』


 その瞬間、将太は理解した。


 心陽は戻した。


 まだ完全ではない。


 だが、二人目になる寸前で引き戻した。


 その代わり。


 将太は見つかった。


 心陽を救うために名前を呼んだ。


 本人の名前を。


 その声が、白い駅まで届いた。


 届いてしまった。


 天堂が何か叫んでいる。


 だが、もう聞き取れない。


 将太の視界の奥で、白いホームが一瞬だけ開く。


 誰もいない駅。


 止まった雨。


 遠くに立つ黒衣。


 そして、ホームの柱に刻まれた二つの名前。


 如月心陽。


 田中真心。


 その下に、新しい名前が浮かび上がる。


 綾小路将太。


 将太は、かすかに笑った。


 笑うしかなかった。


 もう戻れない。


 世界が、自分を見つけた。


         

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