第48話 もう一つの名前
第48話 もう一つの名前
停止した世界。
月明かり。
静まり返った駅前。
将太は動けなかった。
ベンチ。
そこに座っていた。
女子生徒。
黒髪。
細い肩。
制服。
見覚えがある。
塾。
窓際。
いつも一人で問題を解いている女子。
田中真心。
「……は?」
将太が目を凝らした瞬間。
消えた。
まるで最初から存在しなかったように。
ベンチには誰もいない。
静寂。
将太は立ち尽くす。
『見たか』
三成だった。
「見た」
『私もだ』
将太は振り返る。
三成の顔は険しかった。
黒コートを見た時と同じ顔。
いや。
それ以上だった。
「知ってるのか」
『知らん』
即答。
だが、その直後。
三成は低く言った。
『気味が悪い』
「何が」
『あれは今、現れたのではない』
将太の背筋に寒気が走る。
『最初からいた』
「は?」
『私は見落としていた』
将太は言葉を失った。
石田三成が。
見落とす。
そんなことがあるのか。
『黒衣や影とは違う』
三成は消えたベンチを見つめたまま言った。
『あれは、見えないのではない』
「じゃあ何だよ」
『見えていたのに、意識から外されていた』
その言葉の意味を理解するまでに、少し時間がかかった。
見えないのではない。
見えている。
なのに、気づかない。
そこにいるのに、思い出せない。
将太は、昼間の塾を思い出した。
窓際。
静かに問題を解く女子。
田中真心。
確かに、いた。
前からいた。
そのはずだ。
なのに。
将太は、その存在をうまく思い出せなかった。
*
翌日。
塾。
冬期講習終盤。
教室には独特の緊張感が漂っていた。
全国模試まであと数日。
誰もが問題集を開いている。
将太も席につく。
そして、自然と窓際を見る。
田中真心。
いた。
問題を解いている。
静かだった。
誰とも話さない。
目立たない。
だが、答案だけは異様だった。
講師が問題を説明する前に、解き終わっている。
途中式も綺麗。
迷いがない。
悠真とも違う。
天堂とも違う。
将太とも違う。
何かが違う。
速さではない。
正確さでもない。
存在感のなさ。
そこにいるのに、視線が滑る。
気を抜くと、見ていたこと自体を忘れてしまう。
「どうした?」
声。
双葉だった。
同じ塾の最上位クラスにいる女子で、心陽ともよく話している。
「いや」
将太は真心を見る。
「田中って」
「うん?」
「前からいたよな」
双葉は不思議そうな顔をした。
「何それ」
「いや」
「ずっといるじゃん」
「そうだけど」
「去年から同じクラスだし」
将太は黙った。
去年。
同じ塾のクラス。
なのに、思い出せない。
顔は知っている。
名前も知っている。
だが、思い出そうとすると霧がかかる。
いつからいたのか。
どこに座っていたのか。
誰と話していたのか。
何位くらいだったのか。
何もはっきりしない。
妙だった。
「田中さんって、成績いいのか」
将太が聞く。
双葉は首を傾げた。
「いいんじゃない?」
「順位表で見たことある?」
「あるような、ないような」
「どっちだよ」
「分かんない。でも、できる子って感じはする」
その曖昧さが、余計に不気味だった。
できる。
いる。
知っている。
でも、はっきりしない。
まるで、誰かが記憶の輪郭だけを削っているみたいだった。
*
昼休み。
将太は廊下を歩いていた。
その時、前から真心が来る。
昨日と同じ。
静かな歩き方。
誰の視線も集めない。
すれ違う。
その瞬間。
真心が立ち止まった。
「綾小路くん」
将太も止まる。
「何?」
真心は少しだけ首を傾げた。
「やっぱり」
「?」
「どこかで会ったことある?」
将太の心臓が跳ねる。
昨日も聞かれた。
いや。
本当に昨日だったか。
それすら怪しい。
「ないと思う」
「そう」
真心は笑う。
だが、次の言葉で将太の呼吸が止まった。
「不思議だね」
「何が」
「初めて会った気がしない」
将太は返事ができなかった。
真心は将太を見ている。
心陽のように光を集める目ではない。
悠真のように分析する目でもない。
天堂のように空気を支配する目でもない。
もっと静かだった。
ただ、そこにあるものを確かめるような目。
「田中」
「何?」
「お前、白い駅って知ってるか」
真心の表情は変わらなかった。
だが。
ほんの一瞬。
廊下の窓ガラスに映った真心の影が、止まった気がした。
「白い駅?」
「ああ」
「知らない」
即答だった。
だが、将太には分かった。
嘘ではない。
真心本人は、知らない。
けれど。
真心の奥にある何かは、反応した。
真心は少しだけ笑う。
「でも、駅って少し怖いよね」
「何で」
「行き先が決まってるように見えるから」
そう言って、真心は歩いていった。
将太はしばらくその背中を見ていた。
その足元の影は、普通だった。
遅れてもいない。
笑ってもいない。
だが、影が薄かった。
ほとんど見えないくらいに。
*
その夜。
停止した世界。
駅前広場。
将太はベンチの前に立っていた。
昨夜、真心がいた場所。
誰もいない。
静かな世界。
止まった信号。
止まった車。
止まった人々。
そして、ベンチ。
その座面に、紙が置かれていた。
将太は拾う。
白い紙。
見覚えがある。
これまで何度も置かれていたものと同じ。
将太は開く。
そこには、たった一行。
二人目を見つけた。
将太の背筋が凍る。
二人目。
心陽なのか。
別の誰かなのか。
分からない。
だが、その瞬間。
紙の裏側に文字が浮かび上がった。
今までなかった文字。
震えるように。
ゆっくりと。
浮かび上がる。
もう一人は近くにいる。
将太は顔を上げた。
静止した駅前。
誰もいない。
そのはずだった。
だが、遠く。
駅のホーム。
月明かりの中。
一人の女子生徒が立っていた。
黒髪。
制服。
田中真心。
今度は消えなかった。
ただ、静かにこちらを見ていた。
「田中……?」
将太は一歩踏み出す。
『待て』
三成が止める。
「でも」
『見るな』
「またそれかよ」
『違う』
三成の声は低かった。
『あれは、見れば消える』
将太は動けなくなった。
見るな。
追うな。
影を見るな。
本人を見ろ。
これまで何度も言われてきた言葉が、今度は逆の意味を持ち始める。
真心は、見れば消える。
なら、どうすればいいのか。
将太は視線を少しだけ外した。
真心を直接見ない。
視界の端で捉える。
すると、ホームに立つ真心の輪郭が少しだけ濃くなった。
将太は息を呑む。
「三成」
『何だ』
「見ない方が、見える」
『そういう存在か』
三成の顔がさらに険しくなる。
『観測から逃げる者』
「観測から逃げる?」
『いや』
三成は首を振った。
『観測されないように残された者かもしれん』
将太には意味が分からなかった。
だが、不気味さだけは分かった。
真心は、心陽とは違う。
心陽は見られすぎている。
だから影が濃くなり、ずれている。
真心は逆だ。
見えているのに、記憶に残らない。
そこにいるのに、観測されない。
なら。
心陽が「見られすぎた側」なら。
真心は「見られなかった側」なのか。
*
ホームの真心が、ゆっくり口を開いた。
声は聞こえない。
だが、意味だけが届く。
『名前を、忘れないで』
将太の胸が締め付けられた。
「名前……」
心陽の影の名前。
本人の名前。
影の名前は呼ぶな。
本人の名前を忘れるな。
そして今。
真心は言った。
名前を忘れないで。
「田中真心」
将太は小さく呟いた。
その瞬間、ホームの真心の輪郭が少しだけはっきりした。
三成が息を呑む。
『名前で固定したか』
「固定?」
『忘れられる存在は、名前を呼ばれることで留まる』
将太はもう一度言った。
「田中真心」
ホームの真心は、わずかに笑った。
寂しそうに。
そして、紙の文字が変わった。
二人目を見つけた。
その下に、新しい一行。
忘れられた者は、白い駅に近い。
将太は紙を握りしめる。
白い駅。
田中真心。
観測されない者。
忘れられた名前。
もう一人は近くにいる。
全部がつながり始めていた。
真心は、二人目ではない。
だが、二人目に近い。
あるいは。
二人目へ至る道を知っている。
将太はそう感じた。
*
真心が消える直前。
将太はもう一つの言葉を聞いた。
声ではない。
だが、確かに届いた。
『心陽を見失わないで』
将太は息を止めた。
次の瞬間、ホームには誰もいなかった。
駅前広場も元通りだった。
止まった信号。
止まった車。
止まった人々。
ベンチ。
紙だけが、将太の手の中に残っている。
三成が低く言った。
『綾小路』
「何だ」
『今の女は、危険ではない』
「じゃあ何だよ」
『道標だ』
将太はホームの方を見る。
そこにはもう誰もいない。
だが、確かにいた。
田中真心。
見えているのに、忘れられる者。
観測されないように残された者。
白い駅に近い少女。
そして、心陽を見失うなと告げた少女。
*
現実に戻った時、将太は自分の机の前にいた。
ノートが開いている。
そこには、見知らぬ文字が浮かんでいた。
二人目は、見られすぎた者から生まれる。
もう一人は、忘れられた者から現れる。
将太は息を呑む。
さらに、もう一行。
光と空白がそろう時、白い駅は開く。
光。
心陽。
空白。
真心。
将太は理解し始めていた。
心陽だけではない。
真心もまた、白い駅へつながる鍵だ。
見られすぎた者。
忘れられた者。
その二つがそろう時。
白い駅は開く。
将太はペンを握り、震える字で書いた。
如月心陽を見失うな。
田中真心を忘れるな。
その二つの名前を見つめながら、将太は初めて思った。
ラストへ向けて、名前が鍵になる。
影の名前ではなく。
本人の名前が。




