第47話 影の名前
第47話 影の名前
将太は、しばらく動けなかった。
窓ガラス。
そこに映る教室。
自分。
机。
そして、心陽。
振り返る。
誰もいない。
もう一度、窓を見る。
映っている。
笑っている。
だが、それは心陽ではなかった。
影だった。
将太の喉が鳴る。
次の瞬間、窓の中の心陽が口を開いた。
『やっと見つけた』
声は聞こえない。
だが、確かにそう言った。
将太は反射的に後退する。
心臓が暴れていた。
そして、瞬きをした瞬間。
消えた。
教室は元通りだった。
静寂。
月明かり。
誰もいない。
机の上には、ノートだけが残っている。
「……何なんだよ」
三成は珍しく答えなかった。
その顔は険しい。
将太は気づく。
三成も知らない。
今見たものを。
*
翌日。
正月特訓。
冬休み明けまであと少し。
天神の塾ビルには、いつもの最上位クラスのメンバーが集まっていた。
悠真。
天堂。
心陽。
それぞれ学校は違う。
だが、この場所では同じ教室にいる。
順位。
偏差値。
志望校。
その三つが、生徒たちを同じ空間へ集めている。
何も変わらない。
そう見える。
だが、将太には無理だった。
どうしても心陽を見てしまう。
本人は友達と話している。
笑っている。
普通だ。
普通過ぎる。
「綾小路」
突然、名前を呼ばれる。
心陽だった。
「何?」
将太は固まる。
「最近、私の顔に何か付いてる?」
「え?」
「ずっと見てる」
周囲が笑う。
将太は慌てて首を振った。
「違う」
「何が?」
「いや……」
説明できるわけがない。
影が笑った。
なんて。
「変な人」
心陽は笑った。
その瞬間、将太は見てしまう。
床に落ちる影。
ほんの一瞬だけ。
心陽の影が、将太を見ていた。
本人は前を向いているのに。
瞬きをした時には戻っている。
誰も気づかない。
将太だけが息を止めていた。
「綾小路?」
心陽が首を傾げる。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫」
「嘘っぽい」
「よく言われる」
心陽は少しだけ笑った。
けれど、その笑顔の奥に疲れがあった。
将太には分かってしまう。
最近の心陽は、少しずつ薄くなっている。
明るさはある。
人気もある。
周囲の視線も集めている。
でも、本人の奥にある重さが少しずつ抜けている。
笑っているのに、笑い切れていない。
そこにいるのに、少し遠い。
そして、その分だけ、影が濃くなっている。
*
放課後。
塾の廊下。
全国模試まであと一週間。
最上位クラスの空気も少しずつ変わっていた。
まだ中学二年生。
受験生ではない。
だが、ここにいる連中は既に受験生だった。
順位。
偏差値。
志望校。
数字が全てを決める世界。
教室前の順位表。
将太は立ち止まる。
森岡悠真。
相変わらず上にいる。
天堂蓮。
そのすぐ下にいる。
将太も少しずつ近づいている。
だが、まだ遠い。
「見てるな」
声。
振り返る。
悠真だった。
「追いつきたいからな」
将太は答える。
悠真は少し笑った。
「ならいい」
短い言葉だった。
だが、妙に嬉しかった。
「お前は?」
将太が聞く。
「何が」
「追いつきたい奴、いるのか」
悠真は少し考えた。
そして、順位表のさらに上。
全国ランキングの掲示へ目を向ける。
「いる」
即答だった。
「見たこともない奴らだけどな」
将太は黙る。
全国二十八位。
その悠真ですら、まだ上を見ている。
不思議だった。
だから強いのかもしれない。
「綾小路」
「何だ」
「最近、如月を見てるだろ」
将太の手が止まる。
「天堂にも言われた」
「だろうな」
「そんなに見てるか」
「見てる」
悠真は即答した。
「でも、見方が変だ」
「見方?」
「人を見る目じゃない」
将太は何も言えなかった。
悠真は静かに続ける。
「問題を見てるみたいな顔をしてる」
その言葉が、胸に刺さった。
影を見るな。
本人を忘れるな。
リンの声が頭の中で響く。
将太は小さく息を吐いた。
「……気をつける」
悠真は何か言いたそうにした。
だが、それ以上は聞かなかった。
*
その夜。
停止した世界。
将太は再び学校へ向かっていた。
確かめたいことがある。
心陽の影。
あれは何なのか。
誰が自分へメモを残しているのか。
そして。
二人目が近い。
あの言葉の意味。
校舎。
誰もいない廊下。
月明かり。
止まった時計。
静かな教室。
現実では、心陽はこの学校の生徒ではない。
だが、観測地図では違う。
心陽が将太の世界へ入り込んできたから。
将太が心陽を見続けてしまったから。
だから、この学校には心陽の席がある。
現実の座席ではない。
将太の観測の中に作られた席。
将太はゆっくり扉を開けた。
誰もいない。
机。
椅子。
黒板。
全てが静止している。
そして、心陽の席。
将太は近づく。
何もない。
そう思った。
その瞬間だった。
机の表面に、誰かが指でなぞったような白い線が浮かび上がる。
一文字。
また一文字。
ゆっくり。
何かが書かれていく。
将太は息を呑んだ。
如月心陽
はっきり読めた。
だが、それで終わらない。
さらに下。
もう一つ。
何かが浮かび上がる。
将太は目を凝らした。
人名のようだった。
だが、読めない。
いや。
認識できない。
見た瞬間、形が変わる。
漢字に見える。
記号に見える。
影に見える。
別の文字になる。
理解しようとすると崩れる。
将太の頭が痛み始めた。
「っ……!」
こめかみを押さえる。
激しい頭痛。
視界が歪む。
「三成!」
振り返る。
三成も見ていた。
そして、初めて見るほど険しい顔をしていた。
『名前が二つある』
低い声だった。
将太の背筋が冷える。
「どういう意味だ」
三成は答えない。
いや、答えられないようだった。
その時、教室の窓が音もなく震えた。
カタカタではない。
まるで、何かが外側から触れたように。
将太は反射的に窓を見る。
月明かり。
校庭。
静止した世界。
誰もいない。
そのはずだった。
窓ガラスに映る教室。
その中で、心陽の席の影だけがゆっくり伸びた。
床を這うように。
将太の足元へ近づく。
『下がれ!』
三成が前へ出る。
その声と同時に、影は止まった。
静寂。
呼吸だけが聞こえる。
将太は動けない。
机の上の文字を見る。
如月心陽
そして、認識できないもう一つの名前。
それはまだ存在していた。
だが、見ているだけで頭痛が強くなる。
理解してはいけないものを見るように、脳が拒絶していた。
「これが、影の名前か」
将太が呟いた。
三成は低く言った。
『おそらくな』
「人間の名前じゃないのか」
『分からん』
「でも名前なんだろ」
三成はしばらく黙った。
そして、珍しく慎重に言った。
『名前は、形を与える』
「形?」
『名前を呼べば、存在は固定される』
将太の喉が鳴る。
『だから、むやみに読むな』
「読めないんだよ」
『読めない方がいい』
三成は机を見つめたまま言った。
『もし読めたら、向こうもこちらへ来る』
その瞬間。
認識できない名前が、一瞬だけはっきりしかけた。
将太の頭に、音にならない音が流れ込む。
声ではない。
文字でもない。
だが、それは確かに名前だった。
「っ……!」
将太は目を逸らした。
机の文字が震える。
影がまた一歩、将太の足元へ近づく。
『見るな!』
三成の声。
将太は歯を食いしばり、視線を床へ落とした。
影は止まる。
そして、ゆっくり戻っていく。
心陽の席へ。
何事もなかったように。
*
次の瞬間、文字は消えた。
最初から何もなかったかのように。
机は元通りだった。
影も戻っている。
静かな教室。
月明かり。
誰もいない世界。
だが、将太には分かっていた。
今、自分は何かの名前を見た。
そして、向こうもまた、自分の存在に気づいている。
教室の奥。
心陽の席だけが、妙に暗く見えた。
「三成」
『何だ』
「心陽は、自分の影の名前を知ってるのか」
三成は少しだけ目を細めた。
『知っているはずがない』
「じゃあ、どうして名前がある」
『本人が忘れたからだ』
将太は動けなくなった。
『忘れた願い』
『見ないようにした感情』
『捨てた自分』
『そういうものは、消えずに影へ沈む』
三成の声は静かだった。
『そして、長く沈んだものは、名前を持つことがある』
将太は心陽の席を見る。
人気者。
光側。
明るく笑う少女。
みんなが見ている心陽。
だが、その影の中に、心陽自身が忘れた何かがある。
それが名前を持ち始めている。
「それが二人目なのか」
『まだ分からん』
三成は言った。
『だが、かなり近い』
その時、黒板に白い文字が浮かび上がった。
名前を呼ぶな。
将太は息を呑む。
続けて、もう一行。
本人の名を呼べ。
矛盾しているようで、違う。
影の名前を呼ぶな。
本人の名前を呼べ。
将太は、ようやく少しだけ分かった気がした。
影を見るな。
本人を忘れるな。
リンが言っていたこと。
その意味。
心陽を救うには、影を読み解くことではない。
影の名前を暴くことでもない。
如月心陽本人を見ること。
本人の名前を呼ぶこと。
それが、たぶん鍵になる。
*
現実に戻った時、将太は机の前に座っていた。
時計は動いている。
窓の外は普通の夜。
だが、手元のノートが開いていた。
そこには、将太の字ではない文字が浮かんでいる。
影の名前は、呼ぶな。
本人の名前を、忘れるな。
将太はしばらくその文字を見つめた。
如月心陽。
その名前を、ゆっくり心の中で繰り返す。
影ではない。
人気者でもない。
光側でもない。
二人目でもない。
如月心陽。
本人の名前。
その時、窓ガラスに映る将太の影が、ほんの一瞬だけ遅れて動いた。
そして、まるで誰かが囁くように、ノートの端に細い文字が浮かんだ。
――では、お前の名前は。
将太の手が止まる。
自分の名前。
綾小路将太。
そう思った。
だが、その瞬間。
頭の奥で、別の何かが少しだけ笑った気がした。




