第46話 影の向こう
第46話 影の向こう
将太は、その日の午後の授業をほとんど覚えていなかった。
ノートは取った。
問題も解いた。
講師の質問にも答えた。
だが、頭の中には別の光景しか残っていない。
心陽の影。
笑った。
本人ではなく。
影が。
あれは見間違いではない。
断言できる。
停止世界で何度も見てきた違和感。
影のずれ。
影の遅れ。
そして今回。
初めて明確な意思を持って動いた。
将太はシャープペンを握る。
だが、手に力が入らない。
「綾小路」
突然名前を呼ばれる。
顔を上げる。
講師だった。
「聞いてたか?」
教室が少し笑う。
「すみません」
将太は立ち上がる。
黒板の問題を見る。
一瞬だけ、数字が歪んだ。
だが、解法は見える。
条件整理。
式変形。
捨てるべき情報。
拾うべき情報。
将太は答えた。
正解だった。
講師が頷く。
周囲もすぐに興味を失う。
だが、将太は別の視線を感じていた。
天堂だった。
教室の後ろ。
頬杖をつきながら、じっとこちらを見ている。
信長もいた。
いつものように。
静かに。
何も言わず。
だが、なぜか将太は思った。
信長ではない。
天堂自身が何かを感じている。
あいつは見えていない。
見えていないはずだ。
それでも、場の変化には敏感すぎる。
心陽の影。
将太の変化。
教室の違和感。
それらを、理屈ではなく肌で感じている。
そんな気がした。
*
講習が終わる頃には、外はもう暗くなりかけていた。
正月特訓の一日は長い。
朝から夜まで、数字と順位と解答に追われ続ける。
それでも、塾の生徒たちは帰り際まで問題の話をしている。
どこで落とした。
あの大問は捨てるべきだった。
次は何位を狙う。
そういう会話が当たり前のように飛び交う。
将太は一人で帰ろうとしていた。
ビルを出る。
冬の空。
冷たい風。
薄い雲。
「おい」
後ろから声。
天堂だった。
「何だ」
「最近変だぞ」
将太は苦笑する。
「みんな言うな」
「みんな思ってるからだろ」
天堂は自然に隣を歩き始める。
「何かあったか」
「別に」
「嘘だな」
即答だった。
将太は黙る。
すると天堂も黙った。
数秒。
沈黙。
そして、珍しく真面目な声で言った。
「無理するなよ」
将太は少し驚く。
「何だ急に」
「最近、寝てない顔してる」
返事に困った。
確かに寝ていない。
停止世界。
勉強。
頭痛。
黒コート。
リン。
影。
誰にも言えない。
「大丈夫だ」
「そうか」
天堂はそれ以上聞かなかった。
その代わり、信号待ちのところでふと立ち止まる。
「如月に気を付けろ」
将太は足を止めた。
「……何で」
天堂は少し考える。
そして、首を傾げた。
「分からん」
「は?」
「ただ」
天堂は塾ビルの方を見る。
「最近変なんだよ」
「何が」
「空気」
短い言葉だった。
「如月だけじゃない」
「教室全部」
「何か変だ」
将太は黙る。
天堂自身は見えていない。
それでも、何かを感じ取っている。
その事実が少しだけ怖かった。
「お前には、何が変に見えるんだ」
将太が聞いた。
天堂は答えない。
珍しく、言葉を探しているようだった。
「人が軽い」
「軽い?」
「何つーか」
天堂は眉をひそめる。
「前より、薄い」
将太の背筋に冷たいものが走った。
薄い。
リンも言っていた。
影が減っている。
人が薄くなっている。
天堂は見えていない。
なのに、感じている。
「天堂」
「何」
「その話、誰かにしたか」
「するわけねぇだろ」
「何で」
「俺が変な奴だと思われる」
将太は少しだけ笑いそうになった。
天堂がそれを言うのか。
だが笑えなかった。
天堂は、遠くの信号を見ながら低く言った。
「でも、お前には言っといた方がいい気がした」
その言葉が、妙に重かった。
*
夜。
停止世界。
将太は学校へ向かった。
確かめたいことがある。
心陽の席。
影。
違和感。
現実では心陽はこの学校の生徒ではない。
だが、観測地図の中では違う。
将太が強く意識した人物。
将太の世界に入り込んできた人物。
関係の濃い人物。
そういうものは、距離や場所を無視して現れる。
だから、この学校には心陽の席がある。
現実の席ではない。
観測地図上の席。
心陽が、将太の世界の中で占め始めた場所。
校門。
廊下。
教室。
全てが静止している。
誰もいない。
音もない。
月明かりだけが床を照らしていた。
将太は教室へ入る。
そして、足を止めた。
心陽の席。
その机の上に、ノートが置いてある。
昼間にはなかった。
いや、現実には存在しないはずの席だ。
だから、そのノートも現実には存在しない。
停止世界にだけある。
観測地図の中にだけ置かれている。
前の紙と同じだ。
誰かが置いた。
誰かが見ている。
将太はゆっくり近づく。
表紙を開く。
一ページ目。
白紙。
二ページ目。
白紙。
三ページ目。
白紙。
最後のページ。
そこだけ、文字があった。
見つけた。
将太の呼吸が止まる。
たった四文字。
なのに、嫌な汗が背中を流れる。
その瞬間だった。
教室の窓ガラス。
月明かりに照らされた反射。
そこに、誰かが映っていた。
将太の後ろ。
すぐ後ろ。
手を伸ばせば届く距離。
長い髪。
細い影。
女子生徒のように見える。
将太は反射的に振り返った。
誰もいない。
静かな教室。
机。
椅子。
黒板。
月明かり。
それだけだった。
心臓が嫌な音を立てる。
ゆっくり、もう一度、窓を見る。
映っている。
今度ははっきり。
自分。
そして、自分の後ろに立つ誰か。
顔だけが見えない。
輪郭がぼやけている。
まるで、そこだけ認識できない。
黒コートの空白とは違う。
完全にないのではない。
あるのに、焦点が合わない。
見ようとすると、ずれる。
思い出そうとすると、消える。
そんな顔だった。
「……誰だ」
返事はない。
三成も黙っていた。
それが余計に怖かった。
その時。
窓の中の影が、ゆっくり首を傾げた。
将太と同じではない。
完全に別の動きだった。
次の瞬間、激しい頭痛が走る。
「っ……!」
視界が揺れる。
教室が歪む。
机が遠ざかる。
黒板が伸びる。
三成の声が聞こえた。
『見るな!』
将太は思わず目を閉じる。
数秒。
いや、もっと長かったかもしれない。
再び目を開く。
窓を見る。
そこには、自分しか映っていなかった。
静寂。
月明かり。
誰もいない教室。
だが、最後のページの文字だけは残っている。
見つけた。
将太はゆっくりノートを閉じた。
その時、初めて思った。
自分が探していたんじゃない。
違う。
向こうが先に、自分を見つけたのだ。
*
「三成」
将太は声を絞り出す。
『何だ』
「今の、心陽か」
三成はすぐには答えなかった。
その沈黙が怖かった。
『違う』
「じゃあ、心陽の影か」
『それも違う』
「じゃあ何だよ」
三成は窓ガラスを見つめたまま、低く言った。
『心陽が忘れたものかもしれん』
将太は動けなくなる。
本人が忘れた影。
影が人間を持つことがある。
二人目は、影を通る。
通れる影を探している。
今までの言葉が、一気につながる。
「心陽が忘れたものが、心陽の形をして戻ってきてるってことか」
『断定はできん』
「でも、近いんだろ」
三成は否定しなかった。
将太はノートを見る。
見つけた。
その文字が、少しずつ薄れていく。
そして、代わりに新しい文字が浮かんだ。
見つけたのは、こちらだ。
将太の喉が鳴る。
さらに、もう一行。
次は、名前を呼ぶ。
「名前……?」
将太は声を漏らす。
誰の名前。
心陽か。
将太か。
それとも、二人目の名前か。
その時。
教室の後ろの席で、椅子がわずかに動いた。
ギィ、と。
将太は振り返る。
誰もいない。
ただ、月明かりの中で、心陽の席から伸びる影だけが、教室の後ろへ長く続いていた。
まるで、誰かがその影の上を歩いた後のように。
*
現実に戻った後も、将太はしばらく動けなかった。
自分の部屋。
机。
窓。
時計。
すべて普通だった。
だが、手元には一枚の紙があった。
停止世界のノートから破れたような紙。
そこには、同じ文字が書かれている。
見つけたのは、こちらだ。
次は、名前を呼ぶ。
将太は紙を握りしめる。
「ふざけんな……」
声が震えた。
怖い。
だが、それ以上に腹が立った。
自分の中の何かを見られること。
心陽の影を勝手に使われること。
そして、何も知らないまま誰かが近づいてくること。
全部が、腹立たしかった。
将太はノートを開く。
新しいページに書く。
心陽の影が笑った。
停止世界の学校に、心陽の席がある。
ノートに「見つけた」。
窓に女子生徒のような影。
顔は見えない。
心陽ではない。
心陽の影でもない。
心陽が忘れたもの?
次は名前を呼ぶ。
そこまで書いて、ペンが止まる。
名前。
もし、名前を呼ばれたら。
何が起きるのか。
将太は窓を見る。
ガラスに映る自分の顔。
その後ろには誰もいない。
だが、足元の影だけが、ほんの少し遅れて動いた。
将太は目を閉じる。
もう分かっていた。
影の向こうには、何かがいる。
それは心陽の中にあるものかもしれない。
将太の中にあるものかもしれない。
あるいは、誰かが忘れたまま置き去りにした何かかもしれない。
そして、それはもう。
こちらを見つけている。




