第45話 分類
第45話 分類
停止した駅前は静かだった。
信号は赤のまま止まり、車は道路の途中で凍り付き、人々は歩きかけた姿勢のまま時間に閉じ込められている。
いつも通りの停止世界。
だが、将太の頭の中だけは騒がしかった。
観測される側だ。
リンの言葉。
あれから何日も経っていない。
それなのに、頭から離れなかった。
観測者ではない。
観測される側。
黒コート。
一人目。
巨大な影。
薄くなる影。
そして、将太自身。
全部が繋がりそうで、まだ何も繋がっていなかった。
*
冬期講習帰り。
将太は再び停止世界へ入っていた。
以前より短時間。
三成に何度も止められているからだ。
頭痛が増えた。
疲労も残る。
記憶も曖昧になることがある。
それでも来てしまう。
知りたいからだ。
駅前広場。
ベンチ。
リンは既にそこにいた。
まるで最初から待っていたかのように。
止まった自動販売機の横。
缶コーヒーを持ったまま座っている。
「来たな」
「待ってたのか」
「少し」
リンは答えた。
相変わらず感情の起伏が少ない。
だが、初めて会った時よりは人間らしく見えた。
将太は真正面に立つ。
「聞きたいことがある」
「だろうな」
「観測される側って何だ」
リンはすぐには答えなかった。
しばらく空を見上げる。
止まった雲。
止まった雪。
止まった夜。
そして、小さく息を吐いた。
「その前に」
リンは将太を見る。
「お前、自分を何だと思ってる」
「何だって」
「観測者だろ?」
将太は頷いた。
それ以外の答えがない。
だが、リンは首を振った。
「違う」
将太は眉をひそめる。
「何が」
「お前は、まだ観測者じゃない」
三成の目が細くなる。
『説明しろ』
リンは少し笑った。
「中国では呼び方が違う」
「呼び方?」
「見るだけの奴がいる」
リンは指を一本立てた。
「ウォッチャー」
続けて、二本目。
「記録する奴がいる」
「ウィットネス」
そして三本目。
「世界へ影響する奴がいる」
「オブザーバー」
将太の心臓が跳ねた。
オブザーバー。
その単語だけが妙に重かった。
「違いは」
リンは即答した。
「ウォッチャーは見る。ただ見る」
「ウィットネスは記録する。歴史を知る。事実を覚える」
「オブザーバーは違う」
リンは将太を見た。
「世界の方が見る」
将太は眉をひそめる。
「意味分からん」
「そのままだ」
リンは静かに言った。
「オブザーバーが生まれると、人だけじゃない。場所も、影も、観測世界そのものも、そいつを認識し始める」
駅前の空気が少しだけ冷えた気がした。
将太は何も言えない。
黒コート。
巨大な影。
東京駅。
白い駅。
全部が頭をよぎる。
三成が初めて口を開いた。
『なら私は』
「ウィットネスだ」
リンが即答した。
三成は黙る。
否定しない。
将太は驚いていた。
リンの言葉にではない。
三成自身が反論しなかったことに。
『……なるほどな』
三成は小さく呟いた。
何か納得したようだった。
「じゃあ俺は」
リンは少しだけ迷う。
そして、言った。
「まだ分からない」
「は?」
「オブザーバー候補」
「候補?」
リンは頷く。
「本物なら、いずれ世界が反応する」
将太の背筋に寒気が走った。
「世界が反応するって何だよ」
リンは答えない。
代わりに、駅前の大型ビジョンを見上げた。
「そのうち分かる」
将太はため息を吐く。
三成と同じだ。
肝心なことを言わない。
*
「一人目は?」
将太が聞いた。
リンの表情がわずかに変わる。
「一人目は、その分類に入らない」
「ウォッチャーでも、ウィットネスでも、オブザーバーでもないってことか」
「そう」
「じゃあ何だ」
リンは少しだけ沈黙した。
「観測される側」
また、その言葉だった。
「見られすぎた人間」
「人に」
「怪物に」
「世界に」
リンはゆっくり言った。
「見られることで、地図になった人間」
将太は黙った。
地図になった。
まだ、その意味を完全には理解できない。
だが、怖い。
人間が地図になる。
見られることで、世界への道になる。
そんなものが本当にあるなら。
「二人目は?」
将太は聞いた。
「二人目も、観測される側なのか」
リンは答えなかった。
代わりに、将太の足元を見た。
影。
将太の影。
冬の月明かりに伸びた、普通の黒い形。
だが、その沈黙だけで嫌な予感がした。
「おい」
将太の声が低くなる。
「何で俺の影を見る」
「まだ分からない」
「そればっかだな」
「分からないものは、分からない」
リンは言った。
「でも、影は危ない」
「心陽の影もずれてる」
将太が言うと、リンは顔を上げた。
「その子のことは、前にも言ってたな」
「ああ」
「本人は気づいてる?」
「たぶん、少しだけ。でも認めてない」
「なら急いだ方がいい」
「何を」
「本人が自分の影を自分のものだと思っているうちに」
三成と同じことを言った。
将太は息を呑む。
「それを過ぎたら?」
リンは答えなかった。
その代わり、止まった駅前の影を見た。
人々の足元。
車の下。
信号機の根元。
ビルの陰。
すべての影が、静かに沈んでいる。
「影が人間を持つ」
リンは小さく言った。
*
その時だった。
景色が揺れる。
停止世界の終わり。
将太は顔をしかめる。
頭痛が始まっていた。
「帰る」
リンは頷く。
「またな」
「お前、いつもここにいるのか」
リンは少し考えた。
そして、不思議そうな顔で言った。
「近いから」
「上海だろ」
「ここでは近い」
「意味分からん」
「そのうち分かる」
将太は苦笑した。
本当に、どいつもこいつも同じことを言う。
世界が揺れる。
駅前の景色が薄くなる。
リンの姿も遠ざかる。
最後に、リンは言った。
「将太」
「何だ」
「オブザーバー候補は、観測するだけじゃない」
「じゃあ何をするんだ」
リンの声が、白いノイズの向こうから届く。
「観測されたものを、変えてしまう」
次の瞬間、世界が戻った。
*
翌日。
正月特訓。
昼休み。
天神の塾ビルは、いつも通り騒がしかった。
廊下では生徒たちが参考書を開き、教室では上位者たちが次のテストの話をしている。
学校ではない。
塾だ。
だから、ここに悠真がいる。
天堂がいる。
心陽がいる。
それぞれ違う学校の生徒が、順位という一つの基準で同じ教室へ集められている。
将太は無意識に教室の奥を見た。
悠真は問題集を読んでいる。
天堂は後方で誰かと話している。
心陽は女子グループの中心で笑っていた。
何も変わらない。
そのはずだった。
将太はふと床を見た。
冬の日差し。
窓から差し込む光。
心陽の影。
細い影が床へ伸びている。
そして、一瞬だけ。
その影が動いた。
本人とは違う方向へ。
将太の方へ。
ゆっくり。
首を回すように。
顔を向けるように。
そして、笑った。
将太の呼吸が止まる。
目もない。
口もない。
輪郭すら曖昧だ。
なのに、確かに笑った。
冷たいものが背中を流れる。
次の瞬間、影は普通に戻った。
誰も気づいていない。
天堂も。
悠真も。
心陽自身も。
だが、将太だけは見てしまった。
あれは影ではない。
少なくとも、普通の影ではない。
「綾小路」
声。
悠真だった。
「大丈夫か」
「……ああ」
「顔色悪いぞ」
「最近、そればっか言われる」
悠真は少しだけ心陽の方を見る。
それから、将太を見る。
「如月がどうかしたのか」
将太の心臓が跳ねた。
「何で」
「お前、最近よく見てる」
「天堂にも言われた」
「だろうな」
悠真は静かに言った。
「何かあるのか」
将太は答えられない。
心陽の影が笑った。
そんなことを言えるはずがない。
悠真はしばらく黙っていた。
そして、低く言った。
「綾小路」
「何だ」
「お前が見ているものって、こっち側にも影響してるのか」
将太は固まった。
「どういう意味だよ」
「最近、変なんだよ」
悠真は問題集を閉じる。
「順位表を見てる時だけじゃない。普通に歩いてても、距離が変に見えることがある」
「距離?」
「近いはずの人が遠い。遠いはずの人が近い」
将太は言葉を失った。
観測地図。
現実側に滲み始めている。
「いつから」
将太が聞く。
悠真は少し考えた。
「お前が全国二百位以内に入ったあたりから」
将太の背筋が冷える。
自分が伸びた。
観測した。
現実の順位が変わった。
そして、その影響が悠真にも出ている。
リンの言葉が蘇る。
オブザーバー候補は、観測されたものを変えてしまう。
*
その日の帰り道。
夕暮れ。
長く伸びた影。
商店街。
人混み。
冬の風。
将太は何も気づかなかった。
自分の足元。
アスファルトへ伸びる影が、一瞬だけ心陽の影と同じ方向を向いていたことに。
まるで、誰かがそこから将太を見上げていたように。
そして、そのさらに後ろ。
夕暮れのビルの反射の中で。
大型ビジョンに映った東京駅の映像が、一瞬だけ白く滲んだことにも。
*
夜。
将太はノートを開いた。
ウォッチャー。
ウィットネス。
オブザーバー。
観測される側。
一人目。
二人目。
影が人間を持つ。
観測されたものを変えてしまう。
書けば書くほど、分かった気になっていく。
だが、本当は逆だった。
言葉が増えるほど、分からないことも増えていく。
将太はペンを置く。
その時、ノートの端に文字が浮かんだ。
――分類は終わった。
将太の手が止まる。
続けて、もう一行。
――次は選別。
背筋に冷たいものが走った。
選別。
誰が。
何を。
どうやって。
将太は窓を見る。
ガラスに映る自分。
足元に伸びる影。
その影が、ほんの一瞬だけ、将太より先にこちらを見た。




