第43話 境界の向こう
第43話 境界の向こう
停止した世界。
駅前広場。
止まった信号。
静止した車。
動かない人々。
誰もいないはずの街。
その中央で、将太は見知らぬ少年と向かい合っていた。
高校生くらい。
黒髪。
細身。
長身。
見たことのない顔。
だが、普通ではない。
それだけは分かった。
少年は将太を見ていた。
まるで、珍しい生き物でも見るように。
観察するように。
「誰だ」
将太が言う。
返事はない。
少年は数秒黙った後、何かを呟いた。
聞き取れない。
外国語だった。
「は?」
将太は眉をひそめる。
すると少年も、少し困ったような顔をした。
そして、ゆっくり日本語で言った。
「……日本人?」
「そうだけど」
「本当に?」
「何だそれ」
少年は少しだけ笑った。
「初めて見た」
「何を」
「日本の観測者」
将太の心臓が跳ねた。
観測者。
初めてだった。
自分以外の人間の口から、その言葉を聞いたのは。
三成が前へ出る。
『どこの人間だ』
少年は三成を見た。
驚かない。
当然のように頷いた。
「石田三成」
将太は息を呑む。
見えている。
三成が。
本当に。
見えている。
「お前……」
将太が呟く。
少年は肩をすくめた。
「見える」
当たり前のように。
「そっちもだろ」
初めてだった。
三成を認識している人間。
停止した世界を歩く人間。
将太と同じ側の存在。
「名前は?」
将太が聞く。
少年は少し考えた。
「リン」
短かった。
「中国?」
リンは頷く。
「上海」
将太は黙った。
上海。
本来なら遠い。
飛行機が必要な距離。
だが、この世界では違う。
妙に近く感じる。
「どうしてここにいる」
リンは周囲を見る。
止まった街。
巨大なビル。
静かな夜空。
そして、将太を見る。
「近いから」
「……は?」
「日本は近い」
三成は何も言わない。
否定しない。
つまり、間違っていない。
「ここは地図じゃない」
リンが言う。
「観測地図だ」
将太は黙る。
三成が言っていた。
近い場所ほど遠く。
遠い場所ほど近い。
ようやく意味が見え始める。
「世界中にいるのか」
将太が聞く。
リンは頷いた。
「いる」
「何人」
少し考える。
そして。
「知らない」
と答えた。
「会ったことあるのか」
「少しだけ」
「どれくらい」
「韓国」
「台湾」
「アメリカ」
「ロシア」
将太は言葉を失う。
本当に世界規模だった。
学校。
塾。
受験。
そんな話ではない。
リンは続ける。
「でも、減った」
空気が変わった。
「減った?」
リンの表情が、少しだけ暗くなる。
「昔よりずっと」
「何が」
リンは答えた。
「影」
将太と三成が同時に反応した。
心陽。
教室。
最近薄くなっている影。
全部が繋がる。
「お前も見たのか」
リンは頷く。
「中国も」
「韓国も」
「アメリカも」
「全部同じ」
静かな声だった。
「消えてる」
将太の背筋が冷たくなる。
「どうなるんだ」
リンは首を横へ振った。
「知らない」
「でも」
そこで言葉を切る。
「良いことじゃない」
三成の顔も険しい。
初めてだった。
三成が本気で困惑しているのを見るのは。
*
「影が消えるって、どういうことだ」
将太が聞いた。
リンは少しだけ考える。
日本語を探しているようだった。
「人が軽くなる」
「軽く?」
「違う。薄くなる」
三成の目が細くなる。
リンは続ける。
「欲しいもの。怖いもの。好きなもの。嫌いなもの。そういうものが、少しずつ見えなくなる」
「それって、悪いことなのか」
将太は思わず聞いた。
欲望。
嫉妬。
承認欲求。
劣等感。
そういうものが薄くなるなら、一見、良いことのようにも思える。
だがリンは首を横へ振った。
「欲がなくなるんじゃない」
「じゃあ何だよ」
「残らない」
将太は黙る。
「嬉しいことも、悔しいことも、怒ったことも、誰かを好きだったことも、残らない」
リンの声は静かだった。
「影は、人間が残した形だ」
三成が小さく呟いた。
『願望、執着、記憶、後悔、関係。そういうものの残り滓か』
リンは三成を見る。
「そう」
将太は足元を見る。
自分の影。
心陽の影。
ずれている影。
薄くなっている影。
そして、戻ってくるもの。
「影が消えたら、人間はどうなる」
将太が聞く。
リンは少しだけ目を伏せた。
「普通に見える」
「普通?」
「笑う。話す。食べる。勉強する。生活する」
「じゃあ――」
「でも、中がない」
将太は言葉を失った。
中がない。
その言葉だけが、やけに重かった。
「空っぽになるってことか」
「少し違う」
リンは将太を見る。
「空っぽなら、まだ入れる」
その言葉に、将太の背筋が冷たくなる。
「影が消えた人間は、空っぽじゃない」
「じゃあ何だ」
「上書きされた後」
停止した駅前広場の空気が、さらに冷たくなった。
上書き。
その言葉が、今までの全部を別の意味に変えていく。
影が薄くなる。
人間が薄くなる。
影が人間を持つ。
二人目は、影を通る。
通れる影を探している。
将太は、心陽の笑顔を思い出した。
いつも通りに笑っていた。
けれど、影だけが遅れていた。
もし、あれが上書きの途中なのだとしたら。
「心陽……」
小さく呟いた。
リンが反応する。
「誰?」
「知り合いだ。影がずれてる」
リンの表情が変わった。
「どれくらい」
「遅れる。笑わない時がある。左右が逆になることもある」
リンは黙った。
その沈黙が怖かった。
「何だよ」
「早い」
「何が」
「ずれが出たら、次は通る」
「通る?」
将太の声が低くなる。
「何が通るんだ」
リンは答えようとした。
その時だった。
*
リンの表情が変わる。
一瞬で。
鋭くなる。
「逃げろ」
「は?」
「来る」
将太は振り返る。
誰もいない。
そのはずだった。
だが、遠く。
停止した人々の群れ。
その向こう。
黒いコートが見えた。
将太の呼吸が止まる。
一人目。
黒コート。
だが、違った。
リンも固まる。
三成も言葉を失う。
黒コートは一人ではない。
二人。
三人。
四人。
いや。
もっといた。
停止した街の向こう。
ビルの屋上。
交差点。
歩道橋。
信号の上。
無数の黒コートが、同じ方向を見ていた。
将太たちではない。
そのさらに後ろ。
東京の空。
遥か彼方。
何かを待つように。
「何だよ……あれ」
将太の声が掠れた。
リンが小さく言う。
「黒衣」
「くろごろも?」
「私たちはそう呼んでる」
「人間か?」
「分からない」
三成が低く言った。
『観測者ではないな』
リンは頷く。
「たぶん、違う」
「じゃあ何なんだ」
リンは黒コートたちを見つめたまま答えた。
「境界の番人」
将太の喉が鳴る。
「番人?」
「通るものを見てる」
「何が通る」
リンは答えなかった。
答える前に、黒コートの一人がゆっくりとこちらを向いた。
距離は遠い。
なのに、目が合ったと分かった。
次の瞬間。
駅前広場が歪んだ。
停止した人々の影が、一斉に伸びる。
信号の影。
車の影。
建物の影。
人間の足元から伸びる影。
それらが全部、同じ方向へ流れ始める。
東京の空。
何かが開きかけている場所へ。
「まずい」
リンが言う。
「ここ、もう閉じる」
「閉じる?」
「いや、違う」
リンは言い直す。
「開く」
将太は意味が分からなかった。
閉じるのか。
開くのか。
だが三成の顔を見て、どちらでも危険なのだと分かった。
『綾小路、戻れ』
「でも」
『戻れ!』
三成が怒鳴る。
リンも将太を見る。
「日本の観測者」
「名前で呼べよ」
「将太」
リンは少しだけ笑った。
こんな時に。
「次、影を見すぎるな」
「またそれかよ」
「影を見るなら、本人を忘れるな」
将太は動けなくなる。
「どういう意味だ」
「影だけ見たら、影が本物になる」
その言葉が、将太の胸に刺さった。
心陽の影。
将太の影。
二人目。
戻ってくるもの。
見すぎれば歪む。
影だけを見れば、影が本物になる。
「リン!」
将太が呼ぶ。
リンは振り返らない。
黒コートたちの方を見ている。
その足元には、いくつもの影が別々の方向へ伸びていた。
複数の場所に、同時に立っているような影。
リンは最後に言った。
「白い駅で会う」
その瞬間。
世界が割れるように揺れた。
*
気づくと、将太は自分の部屋にいた。
時計は動いている。
窓の外には、正月前の夜。
何も変わらない現実。
だが、将太の手には何かが握られていた。
見覚えのない硬貨。
百円玉ではない。
日本のものでもない。
表には、見たことのない文字。
裏には、薄く刻まれた線。
二本。
将太は息を呑んだ。
リン。
上海。
世界中の観測者。
減っている影。
黒衣。
境界の番人。
白い駅で会う。
将太はノートを開く。
二本目の線が、前より濃くなっていた。
その横に、新しい文字が浮かぶ。
――境界の向こうを見た。
続けて、もう一行。
――次は、影を通る。
将太はしばらく動けなかった。
窓ガラスに映る自分の影。
その輪郭が、一瞬だけ二重になった。
そして、すぐに戻る。
普通の影。
普通の部屋。
普通の夜。
だが将太には、もう分かっていた。
世界は広がったのではない。
最初から広かった。
自分が、ようやくその端を見ただけだった。




