第42話 届かない背中
第42話 届かない背中
冬期講習最後の実力テストだった。
教室の空気は重い。
誰も喋らない。
問題用紙を待つ。
鉛筆を握る。
呼吸すら静かだった。
将太は前を見る。
悠真。
いつも通り。
緊張しているようには見えない。
天堂も同じだった。
全国上位。
最上位クラス。
こういう空気に慣れているのだろう。
将太だけが少し落ち着かなかった。
怖いわけではない。
むしろ、期待に近いものがある。
今の自分がどこまで届くのか。
悠真に。
天堂に。
そして、全国上位の連中に。
それを確かめたいと思っている。
その自分に、将太は少し驚いていた。
「始め」
講師の声。
一斉に問題用紙が開かれる。
数学。
難しい。
だが、以前ほどではない。
将太はペンを走らせる。
解法が見える。
補助線。
条件整理。
場合分け。
捨てる問題。
拾う問題。
以前なら止まっていた場所で、止まらない。
停止した世界。
観測。
積み重ねた時間。
それらは確かに将太を変えていた。
だが、同時に、頭の奥に薄い痛みがある。
使うな。
そう言われている気がする。
それでも、手は止まらなかった。
前を見る。
悠真。
既に次のページへ進んでいる。
迷いがない。
速い。
やはり速い。
(まだ遠い)
将太は歯を食いしばった。
届く気がする。
でも、届かない。
その距離が、一番苦しかった。
*
試験終了。
教室にため息が広がる。
講師が笑う。
「今回の数学は難しかったな」
何人かが机へ突っ伏した。
将太も疲れていた。
だが、嫌な疲れではない。
手応えがあった。
採点。
集計。
結果発表。
スクリーンへ順位が映る。
一位。
森岡悠真。
教室は静かだった。
誰も驚かない。
当然だからだ。
二位。
天堂蓮。
これも変わらない。
天堂は画面を見て、少しだけ口元を歪めた。
満足ではない。
退屈でもない。
ただ、面白がっているような顔だった。
三位。
別の生徒。
四位。
綾小路将太。
「……」
少しだけ悔しかった。
三位が見えていた。
届きそうだった。
だが届かなかった。
それでも、以前の自分なら考えられない順位だった。
周囲がざわつく。
「綾小路、また上がった」
「四位?」
「すげぇな」
将太は画面を見つめたまま、拳を軽く握った。
嬉しい。
だが、それ以上に悔しい。
四位。
十分すごい。
そう思う自分もいる。
でも、前に三人いる。
その事実の方が重かった。
*
授業後。
教室を出ようとした時。
「綾小路」
悠真だった。
「何だ」
「惜しかったな」
将太は苦笑する。
「見てたのか」
「順位くらい見る」
悠真は少し笑った。
「伸びてるな」
その一言だった。
将太は少し困る。
褒められた。
素直に。
それが妙に嬉しかった。
「まだ全然だ」
「そうか?」
「お前がいる」
悠真は少し考えた。
そして、静かに言った。
「俺もだよ」
「は?」
「上がいる」
悠真は窓の外を見る。
夕暮れ。
赤い空。
「全国一位じゃない」
それだけだった。
将太は黙る。
学校一位。
塾一位。
全国上位。
それでも、悠真はまだ上を見ている。
届かない背中だと思っていた。
だが、その背中もまた、誰かを追いかけていた。
「森岡でも、そう思うのか」
「思うよ」
悠真は当然のように言った。
「上がいるのは、分かるから」
「焦る?」
将太が聞くと、悠真は少しだけ間を置いた。
「焦るというより」
「より?」
「うるさい」
「何が」
「上の名前が」
将太の胸が少し鳴った。
「名前?」
「順位表を見ると、上にいる名前が残る」
悠真は指で机を軽く叩いた。
「問題解いてても、ふと思い出す」
「それ、距離が近いってことか」
悠真は将太を見た。
「やっぱりお前、変なこと考えてるな」
「お前が言ったんだろ」
「そうだけど」
悠真は少しだけ笑った。
だが、その背後。
孔明は笑っていなかった。
静かに、将太を見ている。
いや。
将太の奥を見ている。
そんな気がした。
*
帰り道。
将太は悠真の言葉をずっと考えていた。
上がいる。
当たり前だ。
だが、妙に頭へ残った。
届かない背中。
自分にとっての悠真。
悠真にとっての全国一位。
では、全国一位にとっての背中は何なのか。
人はずっと、誰かの背中を追い続けるのか。
それとも、追っているうちに自分が何かに追われ始めるのか。
将太は足を止めた。
駅前のビルに、大きな広告が映っている。
受験。
合格実績。
難関校突破。
数字と笑顔が並んでいる。
その裏に、薄い影が見えた気がした。
誰かが誰かを追う。
誰かが誰かに追われる。
その視線の積み重なりが、影になる。
観測地図。
その言葉が、また頭に浮かんだ。
*
夜。
停止した世界。
駅前広場。
止まった信号。
止まった車。
止まった人々。
将太は一人で立っていた。
三成は近くのベンチへ腰掛けている。
珍しく何も言わない。
静かな夜だった。
いつものように、黒コートを探すつもりはなかった。
今日はただ、確かめたかった。
自分がどこまで来ているのか。
この世界で、何が見えるようになっているのか。
駅前の大型ビジョンは止まっている。
広告もニュースも動かない。
だが、その奥にある影だけは、かすかに揺れている。
将太はそれを直視しないようにした。
見るほど遠ざかる。
見るほど歪む。
もう、それは分かっている。
その時。
カラン――
金属が転がるような音。
将太は反射的に振り返った。
音がした。
この世界で。
自分以外の音。
広場中央。
自動販売機の前。
誰かが立っていた。
黒コートではない。
見たことがない。
高校生くらい。
黒髪。
細身。
制服でも私服でもない。
不思議な服装だった。
古いようで新しい。
現代の街に立っているのに、どこか時間から外れている。
そして、その人物は将太を見ていなかった。
周囲を観察していた。
駅前。
ビル。
信号。
止まった人々。
まるで、初めて来た場所を確認するように。
将太は息を呑む。
その人物が振り返る。
目が合う。
一瞬。
相手の顔が固まった。
驚いた。
そんな表情だった。
そして、何かを呟いた。
聞き取れない。
日本語ではなかった。
韓国語でもない。
英語でもない。
もっと古い。
もっと奇妙な響き。
意味ではなく、音だけが耳に残る。
その瞬間、三成が立ち上がった。
将太は初めて見る。
石田三成が、本気で警戒する姿を。
『綾小路』
低い声。
「何だ」
『近づくな』
「知ってるのか」
『分からん』
即答だった。
だが、声が硬い。
将太は理解した。
本当に分からないのだ。
だから警戒している。
*
その人物はまだこちらを見ていた。
そして、ゆっくりと笑った。
黒コートとは違う。
観察者の笑みではない。
もっと純粋な。
何かを見つけた人間の笑み。
まるで、探し物を見つけたみたいに。
将太は一歩だけ足を動かしかけた。
『動くな』
三成の声が飛ぶ。
将太は止まる。
すると、その人物は少しだけ首を傾げた。
黒コートと似た仕草。
だが、違う。
黒コートは、将太の影を見ていた。
この人物は、将太本人を見ている。
いや。
もっと正確には。
将太と、将太の周囲を同時に見ている。
まるで、将太という点ではなく、将太を中心に広がる地図を見ているようだった。
「お前、誰だ」
将太の声が、止まった広場に響く。
人物は答えない。
代わりに、足元へ視線を落とした。
将太もつられて見る。
その人物の影。
月明かりの方向とは違う向きへ伸びている。
しかも、一つではない。
薄い影が、いくつも重なっていた。
将太の呼吸が止まる。
三成だけがそれを見ているのかと思った。
だが、違う。
将太にも見えた。
影が重なっている。
本人の足元から伸びているはずの黒い形が、何本も別方向へ伸びている。
まるで、複数の場所に同時に立っているみたいに。
「三成」
『見るな』
「でも」
『見るな』
三成の声には、強い警告があった。
その人物は、足元の影を見下ろしたまま、また何かを呟いた。
今度は少しだけ聞き取れた。
音だけ。
意味は分からない。
だが、将太の頭の奥に、直接触れるような言葉だった。
次の瞬間。
駅前広場の距離が歪んだ。
自動販売機が遠ざかる。
信号が近づく。
人々の影が伸びる。
地面が斜めに傾く。
頭痛。
吐き気。
将太は思わず膝をつく。
それでも、その人物は何もしていない。
ただ立っているだけ。
ただ、そこにいるだけで、観測地図が歪んでいる。
『綾小路、目を閉じろ』
三成が言う。
「何なんだよ、あいつ……」
『分からん』
三成は低く言った。
『だが、黒コートより厄介かもしれん』
将太は目を閉じる。
数秒。
呼吸を整える。
再び目を開けた時、その人物は少し離れた場所に立っていた。
距離は変わっていないはずなのに。
なぜか、遠くなったようにも、近くなったようにも見える。
人物は将太を見て、また笑った。
そして、今度ははっきりと口を動かした。
意味は分からない。
だが、将太の頭の中に、無理やり日本語のようなものが浮かび上がった。
――届いていない。
「……は?」
将太は顔を上げる。
人物はもう背を向けていた。
そして、停止した人々の間へ歩き出す。
追おうとした。
だが、三成が腕を掴む。
『追うな』
「でも」
『あれは追っても無駄だ』
「何で」
三成は苦い顔で言った。
『あれは、距離の上にいない』
将太は意味が分からなかった。
だが、分からないまま、足は止まった。
人物は数歩歩いたところで、ふと立ち止まる。
そして、将太の方を振り返らずに、片手を上げた。
指を二本。
二。
将太の背筋に冷たいものが走った。
一。
黒コートが立てた指。
そして今。
二。
二人目。
将太は叫ぼうとした。
だが声が出ない。
次の瞬間、その人物は消えていた。
残っていたのは、自動販売機の下に転がった百円玉だけだった。
カラン、と音を立てて転がったはずの金属。
停止した世界で、唯一動いていたもの。
将太はそれを拾おうとする。
『触るな』
三成が言った。
将太は手を止める。
百円玉の表面に、細い文字が浮かんでいた。
――まだ届いていない。
将太は動けなかった。
届かない背中。
悠真。
全国一位。
観測地図。
そして、この謎の人物。
自分は誰に届いていないのか。
何に届いていないのか。
その答えだけが、停止した世界の奥へ消えていった。
*
現実へ戻った時、将太は自分の部屋にいた。
机の上には、触っていないはずの百円玉が置かれていた。
将太はしばらくそれを見つめた。
表面の文字は消えている。
だが、冷たい。
異様に冷たい。
ノートを開く。
一本線が増えていたページ。
一つ目。
代償は数えられている。
その下。
まだ薄かった二本目の線が、今度ははっきりと浮かんでいた。
二つ目。
将太は息を呑む。
さらに、その横に文字が浮かんだ。
――二人目、接触。
続けて、もう一行。
――まだ届いていない。
将太は百円玉を見た。
あの人物が何者かは分からない。
黒コートとの関係も分からない。
敵なのか味方なのかも分からない。
ただ、一つだけ分かった。
二人目は、影から戻る何かだけではなかった。
停止した世界には、将太の知らない誰かが、もう歩き始めている。
そしてその誰かは、将太よりもずっと深い場所から、この世界を見ている。




