第41話 違和感
第41話 違和感
正月特訓も終盤へ入っていた。
朝から夜まで授業。
演習。
テスト。
解説。
そして、また演習。
塾の中だけ、時間の流れが違うようだった。
将太は問題を解きながら、小さく息を吐く。
疲れている。
だが、勉強ではない。
頭の中を占めているのは、別のことだった。
影を見ろ。
二人目が近い。
まだ見つけていない。
二人目は、戻っている。
黒板。
紙。
黒コート。
そして、心陽の影。
将太はシャープペンを持つ手を止めた。
最近、現実の方が不自然に見える。
止まった世界が異常なのは分かる。
だが、現実に戻っても、もう普通には見えない。
人の影。
窓の反射。
床に伸びる黒い形。
そういうものばかり、目で追ってしまう。
*
昼休み。
将太は無意識に、教室後方から心陽を見ていた。
友達と話している。
笑っている。
手を振っている。
誰が見ても普通だった。
だが、将太には見えてしまう。
影が遅れる。
一拍。
ほんの一拍だけ。
本人の動きに追いついていない。
笑う。
遅れて笑う。
立つ。
遅れて立つ。
まるで、誰かが心陽の真似をしているみたいに。
「……」
将太は目を細める。
その時だった。
「何見てんだ?」
声。
将太は飛び上がりそうになった。
振り返る。
天堂だった。
「びっくりした……」
「こっちの台詞だ」
天堂は笑う。
心陽を見る。
将太を見る。
もう一度、心陽を見る。
「最近ずっと見てるよな」
「違う」
「いや、見てる」
「違うって」
天堂は面白そうに笑う。
「如月に気があるのかと思った」
「ない」
「即答か」
将太はため息を吐いた。
だが、次の瞬間。
天堂の笑顔が消えた。
「……いや」
小さな声。
「どうした」
「何でもない」
天堂はそう答えた。
だが、将太は見逃さなかった。
天堂は一瞬だけ、心陽ではなく、心陽の足元を見ていた。
影を見ていた。
見えているわけではない。
たぶん。
でも、感じている。
そんな気がした。
「天堂」
「何」
「お前、今何か見えた?」
天堂は少しだけ眉をひそめる。
「見えたって何が」
「いや……」
「変なこと聞くな」
天堂はそう言って笑った。
だが、その笑い方は少し不自然だった。
心陽の足元へ向けた視線だけが、将太の頭から離れなかった。
*
授業再開後も、将太は集中できなかった。
問題を解く。
答えを書く。
だが、頭の中では別のことを考えている。
(見えてるのか……?)
いや。
違う。
見えてはいない。
ただ、感じている。
天堂は人の空気に敏感だ。
人が自分を怖がる瞬間。
場が自分へ傾く瞬間。
相手が先に目を逸らす瞬間。
そういうものを、理屈ではなく感覚で掴む。
だから、心陽の影のずれも、何かがおかしいと感じたのかもしれない。
将太は前方を見る。
悠真はいつも通り問題を解いている。
迷いなく。
無駄なく。
だが最近、悠真も時々、何もない場所を見る。
順位表。
窓。
黒板の端。
何かを確認するように。
将太は嫌な予感を覚えた。
自分が観測地図に触れたことで、周囲も少しずつ引き寄せられている。
天堂。
悠真。
心陽。
全員が、少しずつ。
*
夜。
停止した世界。
将太は学校へ向かった。
誰もいない校舎。
止まった時計。
月明かり。
静寂。
教室へ入る。
そして、心陽の席の前で立ち止まった。
理由は分からない。
だが、ここに来なければならない気がした。
この席は、普段は空いている。
心陽は将太の学校の生徒ではない。
それなのに、停止した世界の教室には、心陽の席がある。
以前はその違和感に気づかなかった。
いや、気づかないようにしていた。
観測地図では、場所は地理では決まらない。
見られたもの。
意識されたもの。
関係のあるもの。
それらが距離を作る。
なら、この席は。
現実の席ではない。
将太が見ている心陽の位置。
心陽が将太の世界に入り込んできた場所。
そういうものなのかもしれない。
机の上。
白い紙。
昨日まではなかった。
将太は紙を拾う。
そこには、短く書かれていた。
まだ気づいていない。
「誰だよ……」
返事はない。
だが、気配だけはある。
見られている。
そんな感覚。
その時だった。
『後ろだ』
三成が低く言う。
将太は反射的に振り返った。
誰もいない。
黒板。
窓。
机。
何もない。
だが、月明かりが作る影だけがあった。
机の影。
椅子の影。
教卓の影。
そして、心陽の席。
その影だけが、異様に長かった。
あり得ないほど。
窓からの光では説明できない。
まるで、別の方向から伸びているみたいに。
「三成」
『ああ』
「見えてるよな」
『見えている』
三成の表情は険しかった。
そして、珍しく迷うように言った。
『綾小路』
「何だ」
『私は』
三成は影を見つめたまま続ける。
『二人目は人間ではない気がしてきた』
将太の背筋が冷える。
「どういう意味だ」
『分からん』
三成はゆっくり首を振る。
『だが』
声が低くなる。
『人間が影を持つのではなく』
教室の空気が冷えた。
『影が人間を持つことはある』
将太は言葉を失った。
人間が影を持つ。
それが普通だ。
だが、もし逆なら。
影が人間を持つなら。
心陽の影は、心陽に従っているのではない。
心陽の形を使っているだけかもしれない。
将太の足元の影も。
自分に従っているのではなく。
自分の形をしているだけかもしれない。
その瞬間。
心陽の席の影が、ゆっくりと動いた。
本当にゆっくりと。
月明かりの中で、椅子の足元から伸びた影が、こちらへ顔を向けるように歪む。
将太は息を呑む。
三成ですら動けない。
影は、ほんの一瞬だけ将太を見た。
顔などない。
目などない。
それでも、見られたと分かった。
次の瞬間には元に戻っていた。
ただの影。
ただの席。
何事もなかったように。
それでも、将太は確信していた。
二人目は近いのではない。
もう、教室の中にいる。
*
机の上の紙が、かすかに震えた。
まだ気づいていない。
その文字が薄れていく。
代わりに、新しい文字が浮かぶ。
誰の影か。
将太は紙を見つめた。
「誰の影かって……心陽のだろ」
三成は答えない。
「違うのか」
『分からん』
「でも、心陽の席から伸びてる」
『ここは観測地図だ』
三成は静かに言った。
『見えている場所が、そのまま真実とは限らん』
将太は紙を見る。
誰の影か。
心陽の影に見える。
だが、心陽本人のものとは限らない。
将太の影に似ているのかもしれない。
二人目の影なのかもしれない。
あるいは。
一人目の影なのかもしれない。
「影が人間を持つって、どうなったらそうなるんだ」
三成はしばらく黙った。
そして、低く言った。
『人間の方が薄くなれば』
将太の喉が鳴る。
『影の方が濃くなる』
増えていない。
薄くなっている。
戻ってくるもの。
影から戻る。
言葉が、少しずつつながっていく。
人間が薄くなる。
影が濃くなる。
そして、影が人間を持つ。
「心陽は……」
『まだ分からん』
三成は遮るように言った。
『だが急いだ方がいい』
「何を」
『本人が自分の影を自分のものだと思っているうちに』
その言葉が、妙に怖かった。
自分の影を、自分のものだと思っているうちに。
なら、そう思えなくなった時。
影はどうなる。
人間はどうなる。
*
教室の後ろで、椅子が軋んだ。
ギィ、と。
将太は振り返る。
誰もいない。
だが、一番後ろの席が少しだけ引かれている。
そこには、心陽の席と同じように、長い影が伸びていた。
いや。
違う。
心陽の席から伸びている影と、後ろの席から伸びている影が、床の上でつながっている。
一本の黒い線のように。
将太は息を止めた。
その線は、教室の床を横切り、将太の足元へ向かっていた。
『下がれ』
三成が言った。
将太は一歩下がる。
影の線も、ぴたりと止まる。
まるで、将太の反応を見ているみたいに。
「これ……生きてるのか」
『生きているとは違う』
「じゃあ何だよ」
『見ている』
将太は黙った。
見ている。
影が。
将太を。
その時、黒板に文字が浮かんだ。
白いチョークではない。
影が文字の形に薄く伸びていく。
――二人目は、影を通る。
将太の呼吸が止まる。
さらに、もう一行。
――通れる影を探している。
「通れる影……」
三成の表情が変わった。
「三成?」
『まずい』
「何が」
『だから薄くなっているのかもしれん』
三成は教室を見渡した。
『影を通るには、人間の方が邪魔なのだ』
将太は理解したくなかった。
人間が濃ければ、影はただの影でいられる。
だが、人間が薄くなれば、影は通り道になる。
それが二人目の入口になる。
黒コートが言った。
まだ増えていない。
おかしい。
遅すぎる。
それは、通れる影がまだ完成していないという意味なのか。
将太は心陽の席を見る。
長い影。
本人より遅れる影。
笑わない影。
左右が逆になる影。
そして、今、目の前でこちらを見た影。
「まさか……心陽の影を通ろうとしてるのか」
三成は答えなかった。
だが、その沈黙は肯定に近かった。
*
現実へ戻る直前。
将太は心陽の席に置かれた紙をもう一度見た。
誰の影か。
その問いの下に、最後の一行が浮かんだ。
本人が忘れた影だ。
将太は動けなくなった。
本人が忘れた影。
心陽が忘れたもの。
将太が忘れたもの。
人間が薄くなることで、置き去りにされた何か。
それが影へ戻ってくる。
そして、影が入口になる。
世界が揺れる。
教室が遠ざかる。
月明かりが消える。
次に目を開けた時、将太は自分の部屋にいた。
時計は動いている。
窓の外には、正月前の冷たい夜が広がっている。
将太は机へ向かい、ノートを開いた。
新しいページに、震える手で書いた。
影が人間を持つことがある。
二人目は、影を通る。
通れる影を探している。
本人が忘れた影。
そこまで書いて、ペンが止まる。
窓ガラスに映る自分。
足元の影。
その影が、ほんの一瞬だけ、心陽の席の影と同じ形に見えた。
将太は目を閉じた。
もう分かっていた。
違和感は、気のせいではない。
始まっている。
心陽の影で。
そして、将太の影でも。




