第40話 二人目
第40話 二人目
将太は、その紙を三回読んだ。
二人目が近い。
たった一行。
誰が書いたのか。
何の意味なのか。
なぜ自分に渡したのか。
何一つ分からない。
だが、直感だけは告げていた。
これは偶然じゃない。
警告だ。
あるいは、予告だ。
*
翌朝。
将太は紙を鞄へ入れたまま学校へ向かった。
冬休み中。
補習期間。
校門をくぐる。
曇り空。
冷たい風。
静かなグラウンド。
いつもの学校。
なのに、何かが違う気がした。
将太は無意識に周囲を見る。
誰かいないか。
黒コートはいないか。
そんなことを考えている自分に苦笑した。
(完全に毒されてるな)
だが、心のどこかで、本当にいる気がしていた。
補習教室。
陽斗が窓際で友人と話している。
志保は配布プリントを整理している。
来海は机へ突っ伏している。
冬休み中の教室は、普段より少し人数が少ない。
それでも、空気は学校だった。
塾とは違う。
順位や偏差値だけではなく、関係で作られている場所。
誰が誰と話すか。
誰がどの席に座るか。
誰が笑うと、誰が反応するか。
そういう細かいものが、教室の形を作っている。
将太は席へ着いた。
「将太」
志保が声をかけてくる。
「顔色悪いよ」
「最近そればっか言われる」
「じゃあ本当に悪いんじゃない?」
「かもな」
志保は少し眉をひそめた。
だが、それ以上は聞かなかった。
その優しさが、少しだけ痛かった。
*
午前中の補習が終わり、昼休みになる。
廊下へ出た時、将太は足を止めた。
廊下の窓ガラス。
そこに、自分の姿が映っている。
黒い髪。
少し疲れた顔。
制服の肩。
その足元へ伸びる影。
影は普通だった。
少なくとも、今は。
将太は紙を思い出す。
二人目が近い。
黒コートは、将太本人ではなく影を見ていた。
なら、二人目とは何なのか。
人なのか。
影なのか。
それとも、戻ってくるものなのか。
考えても答えは出ない。
「おい、綾小路」
陽斗だった。
「飯行こうぜ」
「ああ」
将太は返事をする。
その瞬間、廊下の向こうから女子たちの笑い声が聞こえた。
振り返る。
心陽ではない。
同じ学校の女子たちだ。
当然だ。
心陽は塾の知り合いであって、この学校の生徒ではない。
それなのに、将太は一瞬、心陽の影を思い出していた。
本人より遅れる影。
笑わない影。
左右が逆になる影。
そして、自分の足元で時々ずれる影。
将太は足元を見る。
影は動かない。
普通に、廊下の光に合わせて伸びている。
だが、普通に見えることの方が怖くなっていた。
*
午後。
補習後、将太は天神の塾へ向かった。
正月特訓の空気は、学校とはまるで違う。
張り詰めている。
誰もが分かっている。
ここでは数字が席を決める。
悠真が前方の席で問題集を解いている。
相変わらずだった。
迷いがない。
問題を見る。
捨てる。
残す。
解く。
全部が速い。
将太が席へ着く。
すると、悠真が顔を上げた。
「どうした?」
「何が」
「最近ずっと考え事してる」
将太は苦笑する。
「そんな顔してるか」
「してる」
即答だった。
悠真は少し考える。
「模試?」
「違う」
「受験?」
「違う」
「恋愛か」
「違う」
二人とも少し笑う。
それ以上は聞かなかった。
悠真はそういう奴だった。
相手が話したくないことを無理に聞かない。
だから人が集まる。
だから、少しだけ孤独だ。
将太は最近、それが分かるようになっていた。
*
昼休みではなく、講習の合間の短い休憩時間。
廊下。
心陽が向こうから歩いてくる。
「おはよう」
「もう夕方だろ」
「細かい」
心陽が笑う。
その瞬間、将太は足を止めた。
影。
床へ伸びる影。
本人は歩いている。
だが、影だけが、ほんの少し遅れていた。
一歩。
遅れる。
二歩。
遅れる。
止まる。
遅れて止まる。
まるで、別の生き物みたいに。
「……」
「どうしたの?」
心陽が首を傾げる。
「いや」
「最近本当に変だよ」
笑う。
明るい。
自然だ。
なのに、影だけが違う。
将太は何も言えなかった。
「心陽」
「何?」
「最近、何か変な感じしないか」
「変な感じ?」
「自分が自分から少し遅れるみたいな」
心陽の表情が、一瞬だけ止まった。
すぐに笑顔へ戻る。
「何それ。怖いこと言わないでよ」
「ごめん」
「疲れてるんじゃない?」
「かもな」
心陽は笑って歩いていった。
その背中を見ながら、将太は確信した。
気のせいじゃない。
心陽も、何かを感じ始めている。
ただ、認めたくないだけだ。
*
夜。
停止した世界。
将太は再び学校へ向かった。
校舎。
廊下。
教室。
誰もいない。
静かな世界。
そのはずだった。
教室へ入った瞬間、将太は固まった。
「……え?」
黒板。
昨日まで何もなかった場所。
そこに、白いチョークで大きく書かれていた。
まだ見つけていない
将太の背筋が冷える。
昨日はなかった。
絶対に。
昨日はなかった。
「誰だ!」
声が響く。
返事はない。
静寂。
だが、教卓の上に紙が置かれていた。
将太は駆け寄る。
紙を開く。
そこには、たった四文字。
影を見ろ
その瞬間、ゾクリとした。
なぜなら、今まさに自分が考えていたことだったから。
将太は振り返る。
窓ガラス。
月明かり。
映る自分。
そして、足元。
影。
一瞬だけ。
影が動いた。
将太は動いていない。
なのに、影だけが、ゆっくりと顔を上げるように違う方向を向いた。
「っ――」
息が止まる。
次の瞬間には戻っている。
普通の影。
普通の自分。
だが、見間違いではなかった。
三成も見ていた。
その証拠に、石田三成が初めて何も言わなかった。
将太は知っている。
三成は分からない時ほど喋る。
なのに、今は違う。
本当に言葉を失っていた。
やがて、三成が小さく呟く。
『……そういうことか』
「何だよ」
返事はない。
「おい」
三成は窓へ映る将太の影を見続けていた。
そして、今まで聞いたことのない声で言った。
『まずいな』
「何が」
三成はゆっくり答えた。
『二人目が近いんじゃない』
将太の鼓動が跳ねる。
『もう現れている』
教室の空気が凍った。
月明かり。
静止した世界。
そして、将太の足元。
何事もなかったように伸びる影だけが、静かに揺れていた。
「二人目って……俺の影なのか」
三成は答えない。
だが、否定もしなかった。
「人じゃないって、そういう意味かよ」
『まだ分からん』
「でも、もう現れてるんだろ」
三成は窓ガラスを見つめたまま言った。
『現れているというより』
「何だよ」
『戻ってきている』
その言葉に、将太は動けなくなった。
戻ってきている。
増えるのは影ではない。
戻ってくるものだ。
ノートに浮かんだ言葉が、頭の中でつながる。
黒板の文字。
紙の言葉。
黒コートの視線。
心陽の影。
自分の影。
全部が一本の線でつながりかけている。
その時、教室の後ろから音がした。
チョークが床に落ちる音。
振り返る。
誰もいない。
だが、黒板の隅に新しい文字が増えていた。
一人目は、見つけた。
二人目は、戻っている。
将太は息を呑む。
三成の顔が険しくなる。
さらに、その下に、もう一行。
次は、重なる。
教室の窓ガラスに映る影が、一瞬だけ将太より先に笑った。
将太は、自分の口元に手を当てた。
自分は笑っていない。
なのに影だけが、笑っていた。
月明かりの中で。
静かに。
嬉しそうに。




