第39話 増えていない
第39話 増えていない
正月特訓初日。
朝六時。
まだ空は暗かった。
駅前には、塾の生徒たちが集まっている。
眠そうな顔。
単語帳。
参考書。
缶コーヒー。
白い吐息。
中学二年生。
だが講師たちは平然と言う。
「受験生は時間を買えない」
「今日の一日で差がつくぞ」
将太は苦笑した。
もし三成が聞いたら、鼻で笑うだろう。
自分は時間を買っている。
誰よりも。
停止した世界で。
だが最近は、以前ほど使っていなかった。
頭痛が増えている。
集中力も落ちる。
そして何より、怖かった。
あの世界が。
便利だ。
間違いなく便利だ。
でも、便利なものほど、あとで何かを取り立てに来る。
将太はそれを、少しずつ分かり始めていた。
*
講習中。
数学。
難問演習。
将太は問題を解いていた。
だが、頭の片隅に残っている。
『まだ増えていない』
黒コートの言葉。
何が増えていない。
何が足りない。
何が遅い。
考えても分からない。
「綾小路」
講師の声。
将太は顔を上げた。
「途中式」
「あ」
手が止まっていた。
問題の途中で。
教室の数人が小さく笑う。
将太は慌てて続きを書いた。
だが、黒板の数字が妙に歪んで見えた。
一瞬だけ。
停止した世界で見た数式が重なった気がした。
現実の黒板。
停止世界のノート。
昨日解いた問題。
今日初めて見る問題。
それらが、頭の中で一瞬混ざる。
「……っ」
軽い頭痛。
将太はこめかみを押さえた。
使いすぎている。
分かっている。
だが、成績は伸びている。
その事実が、一番厄介だった。
*
昼休み。
心陽が近づいてきた。
「珍しいね」
「何が」
「ぼーっとしてる」
将太は苦笑する。
「ちょっとな」
「悩み事?」
「そんな感じ」
心陽は缶ココアを両手で包むように持っていた。
白い湯気が、小さく揺れる。
いつも通りだった。
明るくて。
自然で。
何も変わらない。
そのはずだった。
窓ガラス。
そこへ映る心陽。
本人は右手を上にして缶を持っている。
だが、映った影は、左手を上にして持っていた。
将太は凍りつく。
一秒。
いや、もっと短かったかもしれない。
瞬きをする。
元に戻る。
普通の影。
普通の反射。
「どうした?」
心陽が首を傾げる。
「いや……」
「最近、本当に変だよ」
心陽は笑う。
だが、将太は笑えなかった。
(まただ)
最近、増えている。
影の異常が。
遅れる。
笑わない。
左右が逆になる。
本人と影が、ほんの少しずれている。
心陽本人は気づいていない。
周囲も気づいていない。
気づいているのは、将太だけ。
いや。
もしかすると、黒コートも。
*
夜。
停止した世界。
今日は駅前へは行かなかった。
学校へ向かう。
理由はない。
ただ、何となくだった。
校門。
校舎。
体育館。
誰もいない学校。
現実では騒がしい場所が、まるで廃墟みたいに静かだった。
校庭の砂も、掲揚台のロープも、窓に貼られた掲示物も、すべて止まっている。
学校という場所は、人がいなくなると急に怖くなる。
将太はそう思った。
教室。
自分の席。
黒板。
窓。
全てが止まっている。
将太は自分の机へ座った。
不思議な感覚だった。
自分だけが動いている。
世界から切り離されたみたいに。
『おかしい』
声。
三成だった。
「何が」
三成は教室全体を見渡している。
窓際。
陽斗の席。
志保の席。
来海の席。
大地の席。
そして、将太の席。
学校の教室には、塾のような濃い怪物はいない。
信長も、孔明も、光の女もいない。
それでも、人間の影はある。
人気。
嫉妬。
劣等感。
承認欲求。
先生への顔。
友達の中での立ち位置。
そういうものが、薄く積もっている。
はずだった。
『減っている』
「だから何が」
『影だ』
将太は黙る。
『前はもっと濃かった』
「意味が分からん」
『私にも分からん』
三成は本当に困惑していた。
『普通は逆だ』
「逆?」
『年齢を重ねる。経験を積む。欲望を持つ。夢を持つ。挫折する』
三成は静かに言った。
『人間は重くなる』
「重くなる?」
『そうだ。願いも、後悔も、欲も、恐れも増える。だから影も濃くなる』
将太は教室を見渡した。
机。
椅子。
黒板。
止まった空気。
『だが最近、薄くなっている』
「誰が」
三成は静かに答えた。
『全員だ』
教室の空気が冷えた気がした。
陽斗。
志保。
来海。
大地。
そして塾で見る、天堂。
悠真。
心陽。
『増えるはずのものが増えていない』
三成は低く言う。
『だからおかしい』
将太の頭に、黒コートの声がよみがえる。
『まだ増えていない』
『おかしい』
『遅すぎる』
「じゃあ、あいつが言ってたのは……」
『影かもしれん』
三成は険しい顔で言った。
『あるいは、影の奥にある何かだ』
「何だよ、それ」
『分からん』
分からない。
そればかりだ。
だが今回は、将太にも分かった。
何かが減っている。
人間の中にあるはずの重さ。
欲望。
憧れ。
恐怖。
そういうものが、薄くなっている。
そして、その代わりに。
影だけがずれている。
*
その瞬間だった。
コツ。
コツ。
コツ。
廊下。
足音。
将太は立ち上がる。
三成も振り返る。
停止した世界。
自分以外の足音。
聞き間違いではない。
確実に近づいてくる。
そして、教室の前で止まった。
沈黙。
誰かがいる。
扉の向こうに。
「……誰だ」
返事はない。
将太は扉へ近づく。
一歩。
二歩。
三歩。
そして、勢いよく開いた。
誰もいない。
長い廊下。
月明かり。
停止した学校。
何もない。
だが、床には一枚の紙だけが落ちていた。
将太は拾い上げる。
そこには、たった一行。
二人目が近い。
その瞬間、激しい頭痛が走った。
視界が揺れる。
廊下の奥。
一瞬だけ、黒コートが立っていた。
今までで一番近い。
だが、その視線は将太ではない。
将太の足元へ向いていた。
影を見ていた。
次の瞬間、黒コートは消えた。
静寂だけが残る。
紙を握る手が震えている。
「三成」
『何だ』
「あいつ、俺じゃなくて影を見てる」
三成は答えなかった。
否定もしなかった。
「俺の影が、何か増えるはずなのか」
『分からん』
「じゃあ、二人目って何だ」
三成は廊下の奥を見たまま、低く言った。
『もしかすると』
将太は息を呑む。
『人ではないのかもしれん』
廊下の空気がさらに冷たくなった。
人ではない。
二人目。
影。
増えていない。
その言葉の意味が、少しずつ変わり始める。
*
帰宅後。
将太は紙を机へ置いた。
二人目が近い。
意味は分からない。
だが、一つだけ確かなことがあった。
これは警告だ。
そして黒コートは、将太ではなく、将太の影を待っている。
机の上のノートが、勝手に開いた。
一本線が増えていたページ。
一つ目。
代償は数えられている。
その下に、新しい文字が浮かんだ。
――増えるのは、影ではない。
将太の呼吸が止まる。
さらに、もう一行。
――戻ってくるものだ。
将太は動けなかった。
戻ってくる。
何が。
誰が。
どこから。
窓ガラスを見る。
自分の姿。
その足元に伸びる影。
一瞬だけ、影の輪郭が二重に見えた。
将太は瞬きをする。
元に戻る。
普通の影。
普通の夜。
けれど、もう分かっていた。
黒コートが待っているものは、これから生まれるものではない。
すでにどこかにあったもの。
そして今、将太の影へ戻ろうとしているものだ。




