第39話 増えていない
## 第39話 空席ではない
その夜。
将太は机の前に座り、ノートを見つめていた。
白いページには、一本の線が残っている。
その下に浮かんでいた「一つ目」という文字は、もう消えていた。
けれど、線だけは消えない。
消しゴムをかけても。
ページを閉じても。
光に透かして見ても。
紙の表面へ書かれたものではなく、内側へ染み込んでいるようだった。
「天堂も見えた」
将太が言う。
窓際に立つ三成は、外を向いたまま答えた。
『ああ』
「止まった世界も。黒いコートも。お前のことも、少し見えてた」
『私が見えたわけではない』
「でも、人がいるって分かってた」
『境界へ引き込まれたことで、輪郭を感じ取っただけだ』
「それでも、前は見えてなかっただろ」
『急にとは限らん』
将太は眉をひそめた。
「前から見えてたってこと?」
『見えていても、それを異常だと認識しなければ、人は見なかったことにする』
三成は窓ガラスに映る将太を見た。
『お前もそうだった』
「俺が?」
『最初から、すべてが見えていたわけではない』
将太は言い返しかけて、やめた。
白い駅。
止まった人々。
人の後ろに立つ分霊。
見えていなかったのか。
それとも、見えていても気づかなかったのか。
今となっては、自分でも分からない。
「天堂は、俺の影が動いたのを見た」
『そうだな』
「心陽の影も変だって言ってた」
三成は答えない。
「悠真も、そのうち見るのか」
『可能性はある』
「俺が巻き込んだ?」
『答えを急ぐな』
「そればっかだな」
『急いで間違えるよりはよい』
将太はノートへ目を戻した。
一本の線。
黒いコートが立てた一本の指。
自分の影が真似した指。
何かが数えられている。
だが、何が一つなのかは分からない。
「なあ、三成」
『何だ』
「最初に俺へ話しかけた時、何を見てた?」
三成の視線が止まった。
「俺じゃないだろ」
将太は続ける。
「俺の後ろを見てた」
しばらく返事はなかった。
『覚えていたか』
「忘れるわけない」
将太は椅子を回し、三成と向き合った。
「普段、天堂の後ろには信長がいる」
『ああ』
「悠真の後ろには孔明」
『そうだ』
「心陽の後ろにも、何かいる」
三成の目がわずかに細くなる。
「なのに、俺には何もいなかった」
『そう見えた』
「だから、空席なんだろ」
三成は答えなかった。
「違うのか」
『違う』
即答だった。
将太は息を止めた。
「今まで、空席って言ってたじゃん」
『お前がそう呼んだ』
「否定しなかっただろ」
『否定できなかった』
三成は窓際を離れ、机の前まで来た。
『空席なら、空いていると分かる』
「どういう意味だよ」
『椅子があり、そこに座るはずのものがいない』
三成はノートの白い余白へ目を落とした。
『欠けているからこそ、空いていると見える』
将太は黙った。
『だが、お前の後ろには席そのものが見えなかった』
「何もなかったってこと?」
『何もないのとは違う』
「同じだろ」
『違う』
三成の声が低くなる。
『何もない場所は、何もないと分かる』
「じゃあ、俺は何だったんだよ」
三成は、しばらく答えなかった。
『見えなかった』
将太は眉をひそめる。
「俺が?」
『お前の後ろがだ』
「三成にも?」
『ああ』
その答えが、思っていたより怖かった。
三成は、天堂の信長を見た。
悠真の孔明を見た。
心陽の背後にいる名のないものも見ている。
その三成が、将太の後ろだけは見えなかった。
「だから、そばにいるのか」
三成は将太を見る。
『最初は、確認するためだった』
「俺に何か憑くかどうか?」
『何かが現れるか』
三成は少し間を置いた。
『あるいは、すでにあるものが見えるようになるか』
将太の足元へ、冷たい感覚が広がった。
「今は?」
『分からぬ』
「じゃなくて。今も確認するためにいるのか」
三成は目を逸らさなかった。
『分からぬから、そばにいる』
その言葉だけは、妙にまっすぐだった。
『お前が何に見つかったのか』
三成の視線が、将太の足元へ落ちる。
『見届けるために』
「守るためじゃないんだな」
『私に何ができる』
「そこは格好つけろよ」
『できぬことを、できるとは言わん』
将太は小さく息を吐いた。
いつもの三成だった。
なのに、その言葉を聞いて少しだけ安心した。
*
机の端には、赤い葉が置かれている。
赤かった部分は、もうほとんど残っていない。
黒い葉脈が中央から枝分かれし、葉全体へ広がっていた。
「これが全部黒くなったら、どうなる」
『分からぬ』
「消える?」
『分からぬ』
「何か出てくる?」
三成は答えなかった。
将太は葉から目を離し、姿見へ視線を向けた。
鏡の中には、自分と机が映っている。
その奥。
窓際に立つ三成。
何もおかしくない。
「俺の後ろ、今も見えない?」
将太が尋ねる。
三成は鏡ではなく、直接将太の後ろを見た。
『見えぬ』
「何か隠してるんじゃなくて?」
『隠す理由がない』
「黒いコートには見えてたのか」
三成の表情がわずかに変わった。
『あれが見ていたのは、お前の後ろではない』
「影?」
『おそらく』
「じゃあ、影の中に何かいる?」
『決めつけるな』
「でも、影が勝手に動いた」
『動いたように見せられた可能性もある』
「誰に」
『それを探している』
将太は鏡の中の自分を見つめた。
濡れていない髪。
少し疲れた顔。
制服のままの身体。
普通の中学生。
少なくとも、見た目は。
その肩のすぐ後ろで。
何か黒いものが揺れた。
「……っ」
将太は反射的に振り返った。
机。
本棚。
閉じたカーテン。
誰もいない。
「今、何か見えた」
『どこに』
「鏡。俺の後ろ」
三成が姿見へ目を向ける。
鏡の中には、将太と三成しか映っていない。
「黒いやつ」
『形は』
「分からない。一瞬だった」
三成は鏡へ近づいた。
将太も、もう一度鏡を見る。
何もいない。
自分の足元には、部屋の明かりで薄い影が落ちている。
普通の影。
そう思った時。
鏡の中の自分が、ほんの一瞬だけ遅れてまばたきをした。
将太は動けなかった。
自分は、もう目を開けている。
鏡の中の自分だけが、あとからゆっくり目を開けた。
「三成」
『ああ』
「見た?」
三成は答えなかった。
鏡の中の将太は、もう現実と同じ動きをしている。
将太が右手を上げれば、同じように上げる。
首を傾ければ、同時に傾ける。
さっきの遅れだけが嘘のようだった。
*
机の上で、紙が擦れる音がした。
二人が振り返る。
閉じていたノートが開いている。
一本線の引かれたページ。
何もなかった余白へ、細い文字が浮かび始めていた。
――見えていたものは。
将太はページへ近づく。
『待て』
三成が止める。
文字はゆっくり続いていく。
――後ろではない。
将太の喉が鳴った。
「後ろじゃない?」
三成はノートを睨んでいる。
その顔から、いつもの余裕が消えていた。
「じゃあ、どこなんだよ」
返事はない。
文字も、それ以上は増えなかった。
将太はページへ手を伸ばした。
『触るな』
「でも――」
『今は読むな』
「もう読んだよ」
『先を求めるな』
三成の声は鋭かった。
将太は手を止める。
その時。
姿見の中の将太が、ゆっくり顔を上げた。
現実の将太は、ノートを見ている。
鏡の中だけが。
まっすぐ、将太を見ていた。
将太の背中が凍る。
顔を上げる。
鏡の中の自分は、もう同じ姿勢へ戻っている。
「……見たよな」
三成は答えない。
将太は足元へ目を落とした。
影は動いていない。
だが、黒い部分が以前より濃くなっているように見えた。
まるで。
そこに何かが重なろうとしているように。
*
ノートの文字が、ゆっくり薄れていく。
――見えていたものは、後ろではない。
最後まで残ったのは、一本の線だった。
将太は、その線を見つめた。
自分の後ろに何もいないのではない。
空席ですらない。
なら。
黒いコートは何を見つけた。
自分の影は、何を真似している。
鏡の中で遅れて動いたものは、誰なのか。
将太は答えを求めるように、もう一度鏡を見た。
そこには、自分しか映っていなかった。
そのことが。
今は何よりも不気味だった。




