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憑いてる。  作者: 受験孔明
観測者たち
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第38話  影のずれ

第38話 影のずれ


 年末が近づいていた。


 冬期講習も終盤。


 塾では正月特訓の案内が配られ始めている。


 まだ中学二年生。


 だが講師たちは平然と言う。


「受験まで、あと一年」


 将太は苦笑した。


 一年前なら、遠い未来だった。


 今は違う。


 時間が妙に速い。


 現実も。


 停止した世界も。


 両方を生きているような感覚だった。


 昨日と今日の境目が薄い。


 朝と夜の距離が近い。


 止まった時間で過ごしたはずの数時間が、現実では数分しか進んでいない。


 それなのに、疲労だけは確かに残る。


 記憶だけが少し曖昧になる。


 得るたび、失う。


 その言葉が、最近ずっと頭の奥に残っていた。


   *


 その日の講習は英語だった。


 長文読解。


 将太は問題を解きながら、前を見る。


 悠真。


 相変わらず速い。


 天堂も速い。


 だが、以前ほど遠く感じなくなっていた。


 少しずつ。


 本当に少しずつ。


 距離が縮まっている気がする。


 もちろん、勘違いかもしれない。


 全国順位だけ見れば、まだ大きな差がある。


 森岡悠真。


 全国二十八位。


 天堂蓮。


 全国五十四位。


 綾小路将太。


 全国百九十七位。


 数字だけを見れば、まだ届かない。


 それでも、以前とは違った。


 追いかける背中が見えている。


 見えているから、怖くもあった。


 自分がどこまで近づいているのか。


 何を失いながら近づいているのか。


 それが分からない。


 その時、ふと違和感を覚えた。


 悠真の鉛筆が止まる。


 ほんの一秒。


 考える。


 再び動く。


 普通の光景。


 だが将太には分かる。


 悠真は迷っていない。


 選んでいる。


 どの問題を取るか。


 どこを捨てるか。


 どの設問に時間を使い、どこで切るか。


 孔明がそうだったように。


 戦場を見ている。


(やっぱり似てるな……)


 そんなことを思った。


 すると、悠真が少しだけ顔を上げた。


 目が合う。


 一瞬。


 ほんの一瞬だった。


 だが将太には、悠真の背後にいる孔明が、将太ではなく、将太の少し奥を見たように感じた。


 心臓が小さく鳴る。


 将太は視線を問題へ戻した。


 見られている。


 最近ずっと、その感覚が消えない。


   *


 昼休み。


 講習の合間。


 自販機前。


「綾小路」


 声。


 心陽だった。


 珍しい。


 塾で話しかけられることは少なくないが、最近の心陽は少し距離を取っているようにも見えていた。


「順位上がったんだって?」


「まあ」


「すごいじゃん」


 心陽は笑った。


 冬の日差しが窓から差し込む。


 柔らかい光。


 いつもの笑顔。


 いつもの心陽。


 だが、将太は違和感を覚えた。


 まただ。


 最近何度も感じる。


 説明できない違和感。


 窓ガラス。


 反射。


 映る心陽。


 本人は笑っている。


 だが、映った影だけが笑っていない。


 真顔だった。


 まるで、別人みたいに。


 将太は息を止めた。


 瞬きをする。


 すると影も笑っていた。


 普通だった。


「どうした?」


「いや……」


「変な顔」


 心陽は笑った。


 だが将太は何も言えなかった。


 心陽が去る瞬間、視線が足元へ落ちる。


 床に伸びた影。


 ほんの一瞬。


 本人より半拍遅れて動いた気がした。


(気のせいじゃない)


 その確信だけが残った。


 将太は自販機の前で立ち尽くす。


 心陽の背後には、あの光の女がいる。


 歓声。


 拍手。


 スポットライト。


 無数の視線。


 だが、最近はそれだけではない。


 光の女の欠け。


 白い駅へ伸びる黒い糸。


 そして、本人とずれる影。


 それは、何かが心陽から離れ始めているようにも見えた。


 いや。


 もしかすると逆かもしれない。


 何かが、心陽に遅れてついてきている。


 人間の形を真似するように。


 将太は缶コーヒーを買うのを忘れた。


   *


 夜。


 停止した世界。


 駅前広場。


 将太はベンチへ座っていた。


 最近は追わない。


 三成に何度も言われたからだ。


 無理に追うと、頭痛がひどくなる。


 距離が歪む。


 視界が壊れる。


 見るほど、遠ざかる。


 だから今日は待つ。


 来るなら向こうから来る。


 そんな気持ちだった。


『少し賢くなったな』


 三成が言う。


「うるさい」


『事実だ』


 将太はため息を吐く。


 静かな世界だった。


 止まった信号。


 止まった車。


 止まった人々。


 そして、その中を歩く自分。


 この世界にいると、時間が消える。


 自分だけが世界から取り残されたような気がする。


 けれど最近は、別の感覚もある。


 ここは誰もいない場所ではない。


 見えない誰かが、どこかでこちらを見ている。


 そんな感覚。


「なあ」


『何だ』


「一人目って何だと思う」


 三成は答えない。


「聞いたことあるんだろ」


『ある』


「何なんだ」


『知らん』


 将太は呆れた。


 だが、三成は本当に知らない顔だった。


 知っていることと、分かっていることは違う。


 三成はきっと、何かを聞いたことがある。


 でも、それをどう説明すればいいのか分からない。


 そんな顔だった。


   *


 その時だった。


 足音。


 コツ。


 コツ。


 コツ。


 将太は立ち上がる。


 聞こえる。


 確かに。


 停止した世界では、自分以外の音はほとんど存在しない。


 だから分かった。


 誰かが歩いている。


 広場の向こう。


 黒いコート。


 フード。


 あの人物だった。


 将太は動かない。


 相手も止まる。


 二十メートルほど離れた場所。


 向かい合う。


 沈黙。


 長い沈黙。


 やがて、黒コートが口を開いた。


『まだ増えていない』


 将太は眉をひそめる。


「何が」


 返事はない。


『おかしい』


 独り言のようだった。


『遅すぎる』


「だから何がだよ」


 黒コートは将太を見ている。


 いや。


 違う。


 将太の後ろを見ている。


 そのことに気づいた瞬間、背筋が凍った。


「お前……」


『本当に知らないのか』


 低い声。


 どこか驚いているようにも聞こえた。


「何を」


 将太が一歩踏み出した瞬間。


 頭痛。


 視界が揺れる。


 距離が歪む。


 世界が折れ曲がる。


 近い。


 遠い。


 上下が反転する。


『まだ早い』


 また同じ言葉。


「待て!」


 将太は叫ぶ。


 だが、黒コートは消えた。


 まるで最初から存在しなかったかのように。


 静寂。


 駅前には誰もいない。


 残っているのは将太だけ。


「……何なんだよ」


『分からん』


 三成だった。


 だが、その顔は少し険しかった。


「気づいたことあるだろ」


 三成は黙る。


 数秒。


 そして、小さく呟いた。


『あれはお前を探している』


 将太は顔を上げる。


『だが』


 三成の目が細くなる。


『お前自身を探している訳ではない』


 将太の後ろを見ていた。


 三成はその言葉を飲み込んだ。


「俺の中にいる何かか」


 三成は答えない。


 答えない。


 それだけで十分だった。


   *


 帰宅後。


 洗面所。


 顔を洗う。


 冷たい水。


 眠気が少し飛ぶ。


 ふと顔を上げる。


 鏡。


 自分。


 背後。


 誰もいない。


 そのはずだった。


 一瞬。


 影だけが動いた。


 将太は止まっている。


 なのに、鏡の中の影だけが、わずかに遅れて顔を上げた。


 心臓が止まりそうになる。


 次の瞬間、元に戻る。


 普通の影。


 普通の鏡。


 だが、将太は確かに見た。


 心陽と同じだった。


 本人と影が、ずれている。


 そして黒コートが見ていたものも、おそらくそれだった。


 将太は鏡を見つめたまま動けなかった。


 影が遅れているのではない。


 そう思った。


 もしかすると、逆だ。


 自分の方が、遅れている。


 中にいる何かに、体の方が追いついていない。


 そんな考えが、頭をよぎった。


 その時、鏡の曇りに文字が浮かんだ。


 誰かが指で内側からなぞったような、薄い文字。


 ――ずれは、入口。


 将太の喉が鳴る。


 続けて、もう一行。


 ――影が合えば、開く。


 将太は息を止めた。


 鏡の中の影は、もう動かない。


 ただ、将太の足元に普通に伸びている。


 だが、もう普通の影には見えなかった。


 心陽の影。


 将太の影。


 黒コートの視線。


 まだ増えていない。


 遅すぎる。


 その言葉が頭の中でつながっていく。


 何かが数えられている。


 何かが増えるはずだった。


 そして、それはまだ増えていない。


 将太は鏡に手を伸ばした。


 触れる直前。


 三成の声が背後から響いた。


『触るな』


 将太の手が止まる。


『今の鏡は、こちらのものではない』


 将太はゆっくり手を下ろした。


 鏡の文字は、もう消え始めている。


 消える直前。


 最後に一文字だけ浮かんだ。


 ――一。


 将太の背筋に冷たいものが走った。


 黒コートが立てた指。


 ノートに増えた線。


 一つ目。


 影のずれ。


 全部が、まだ一つ目なのだ。


 なら。


 二つ目は何なのか。


 将太は、その答えを知りたいと思った。


 そして同時に、知ってはいけないと思った。

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