第37話 見えていたもの
## 第37話 一つ目
最初に異変へ気づいたのは、母だった。
「将太、ちゃんと寝てる?」
朝食の席で聞かれ、将太は箸を止めた。
「寝てるよ」
「本当に?」
「何で」
「最近、ずっと顔が疲れてる」
将太は味噌汁へ目を落とした。
「正月特訓がきついだけ」
「無理しないでよ」
「分かってる」
嘘ではない。
朝から夜まで続く講習で、身体は確かに疲れている。
けれど、原因はそれだけではなかった。
止まった世界。
雪の上の足跡。
黒いコート。
一本だけ立てられた指。
そして、自分より遅れて動いた影。
眠っても、頭の奥から消えない。
「今日、休んだら?」
「無理。講習あるし」
「一日くらい――」
「大丈夫だって」
少し強く言ってしまった。
母が黙る。
将太は後悔したが、すぐに謝ることができなかった。
何に苛立っているのか、自分でも分からない。
「……ごめん」
「ううん」
母はそれ以上、何も言わなかった。
将太は味噌汁を一口飲む。
いつもと同じ味のはずだった。
だが、昨日も同じものを飲んだかどうかが思い出せない。
昨日の朝。
母と何を話した。
何を食べた。
学校へ出る前、どんな気持ちだった。
出来事はぼんやり残っている。
けれど、そこにいた自分へ触れられない。
記憶の手触り。
三成の言葉が、胸の奥へ沈んだ。
*
学校へ向かう途中、将太は何度も足元を見た。
冬の低い日差し。
道路へ伸びる自分の影。
歩けば、影も動く。
止まれば、影も止まる。
当たり前だった。
それなのに、昨日からその当たり前を信用できない。
将太は急に立ち止まった。
影も止まる。
右手を上げる。
影の腕も上がる。
同時だった。
「何やってんだ、俺」
通り過ぎる自転車の男が、不審そうに将太を見る。
将太は何事もなかったふりをして歩き出した。
その背後。
道路に伸びた影の指先だけが、ほんの一瞬、地面へ残った。
*
放課後。
塾の廊下で心陽とすれ違った。
「おはよう」
「もう夕方だけど」
「細かいなあ」
心陽が笑う。
いつも通りだった。
明るい声。
少し眠そうな目。
腕に抱えた問題集。
何も変わっていない。
将太は、そう思いかけた。
心陽が一歩進む。
床の影が、遅れて動いた。
一拍。
本当にわずかな遅れだった。
心陽本人はもう次の足を出している。
なのに影は、前の姿勢を一瞬だけ残していた。
「……心陽」
「何?」
心陽が立ち止まる。
影は半拍遅れて止まった。
将太の背中に冷たいものが走る。
「最近、何か変じゃない?」
「いきなり失礼じゃない?」
「そうじゃなくて」
「じゃあ何?」
将太は心陽の足元を見た。
影は普通に伸びている。
「自分が、自分より少し遅れる感じとか」
心陽の笑顔が止まった。
ほんの一瞬。
「何それ」
「ない?」
「ないよ」
即答だった。
だが、声が少しだけ硬い。
「怖いこと言わないでよ」
「悪い」
「将太、疲れてるんじゃない?」
「多分」
「ちゃんと寝なよ」
心陽は笑顔を作り、廊下の向こうへ歩いていった。
将太は、その後ろ姿から目を離せなかった。
一歩。
影が遅れる。
二歩。
また遅れる。
まるで心陽の動きを見てから、真似しているようだった。
曲がり角で心陽の姿が消える。
その一瞬後。
影だけが床の上へ残った。
すぐに消えた。
「……見間違いじゃない」
将太は小さく呟いた。
『何がだ』
三成の声が隣から聞こえた。
「心陽の影」
三成は、心陽が消えた廊下の先を見た。
『何が見えた』
「遅れてた」
『どれほど』
「一瞬。けど、確かに」
三成は何も言わない。
「前からあったのか?」
『分からぬ』
「またそれかよ」
『見えなかったものが現れたのか、以前からあったものをお前が見るようになったのか』
三成が将太を見る。
『それすら、まだ分からぬ』
将太は廊下へ伸びる自分の影を見た。
「俺が観測地図に入ったせいか」
『可能性はある』
「心陽まで巻き込んだってこと?」
『決めつけるな』
「でも――」
『答えを急ぐ者ほど、見せられたものを信じる』
将太は口を閉じた。
黒いコート。
足跡。
見つけたという文字。
自分の影。
心陽の影。
すべてがつながっているように思える。
だが、それこそ何者かに見せられている考えなのかもしれない。
*
授業が始まっても、将太は集中できなかった。
問題文を読む。
答えまでの線が浮かぶ。
以前なら喜んでいたはずの感覚。
今は、その近さが怖い。
途中式を一つずつ書く。
どう考えた。
なぜこの公式を使った。
自分が通った道を、紙へ残す。
忘れないために。
「綾小路」
講師の声で顔を上げた。
「聞いてるか?」
「はい」
「じゃあ、この問題。次に何を使う」
将太はホワイトボードを見る。
答えは分かる。
だが、声が出なかった。
自分が今、何を聞かれたのか。
ほんの一瞬だけ分からなくなった。
「綾小路?」
「……相似です」
「そう。ぼんやりするなよ」
教室に小さな笑いが起きる。
将太は席へ座った。
隣の悠真が、こちらを見ている。
「大丈夫?」
「大丈夫」
「今、何か忘れてた?」
将太の胸が跳ねた。
「聞いてなかっただけ」
「そう」
悠真は前へ向き直った。
それ以上は聞かなかった。
だが、将太には分かった。
悠真は納得していない。
*
夜。
将太は机の前に座っていた。
目の前には赤い葉。
黒い部分は、さらに広がっている。
もう半分以上が、光を吸い込むような色へ変わっていた。
「また入る」
将太が言うと、三成がすぐに答えた。
『やめておけ』
「心陽の影を確かめたい」
『現実で見たのだろう』
「止まった世界なら、もっと分かるかもしれない」
『その考え方が危うい』
「何で」
『あの世界へ行けば、答えがあると思い始めている』
「違うのかよ」
『あるのは、見せられたものだけだ』
三成は机の上の葉を見た。
『真実とは限らん』
将太は拳を握った。
「じゃあ、何もしないで待てって?」
『休めと言っている』
「石田三成に体調の心配されるとは思わなかった」
『冗談ではない』
三成の声は低かった。
『あの世界は、お前に時間を与える場所ではない』
「じゃあ何なんだ」
三成は、すぐには答えなかった。
『お前が見るための場所だ』
「それは知ってる」
『違う』
三成の視線が将太へ向く。
『お前だけが見る場所ではない』
将太は黙った。
見れば、見返される。
東京で理解したはずのことだった。
だが、自分が何度も観測地図へ入り、何かを探すたび。
向こう側もまた、将太を見ている。
「見るたび、何かを失うのか」
『分からぬ』
「記憶だけ?」
『分からぬ』
「心陽の影と関係ある?」
『分からぬ』
将太は苛立って机を叩きそうになった。
だが、三成の表情を見て手を止めた。
本当に分からない。
ごまかしているのではない。
三成もまた、将太と同じものを見て、答えを探している。
「……今日は入らない」
三成がわずかに目を細めた。
『賢明だ』
「二回目」
『何がだ』
「お前に賢明って言われたの」
『次があるとは思うな』
「むかつく」
将太は椅子にもたれた。
少しだけ、肩の力が抜ける。
*
その時。
机の上で、赤い葉が動いた。
かさり。
風はない。
窓も閉まっている。
将太と三成が同時に葉を見る。
黒い部分が、葉脈に沿ってゆっくり伸びていく。
将太は息を呑んだ。
「今、増えたよな」
『ああ』
黒い線は、葉の中央をまっすぐ進んだ。
一本。
まるで、何かを数える印のように。
そして止まった。
同時に。
閉じていたノートが、ひとりでに開いた。
白紙のページ。
鉛筆で薄くなぞったような線が、ゆっくり浮かび上がる。
赤い葉に走ったものと同じ。
一本の線。
「何だよ、これ」
三成は答えない。
将太がページへ手を伸ばす。
『待て』
指先が止まる。
線の下に、細い文字が現れた。
――一つ目。
将太の呼吸が止まった。
「何が、一つ目なんだ」
返事はない。
文字は徐々に薄くなり、紙の中へ沈んでいく。
最後まで残ったのは、一本の線だけだった。
将太は、黒いコートが立てていた指を思い出した。
一。
あれは、警告だったのか。
何かの順番なのか。
それとも。
すでに失ったものを数えていたのか。
「三成」
『何だ』
「俺、何かなくしてる?」
三成はすぐには答えなかった。
その沈黙が、何より怖かった。
将太はノートへ目を戻す。
一本の線。
見つめていると、視界の端で何かが動いた。
姿見の中。
将太の足元へ伸びる影。
将太は動いていない。
それなのに影だけが、ほんの少し首を傾けたように歪んだ。
将太が鏡を見る。
影は元へ戻っていた。
「……今」
『どうした』
「いや」
将太は首を振った。
疲れている。
そう思いたかった。
だが。
机の上のノートには、消えなかった一本の線が残っている。
そして赤い葉の黒い部分も、同じ形をしていた。
一つ目。
何かはもう、数え始めている。




