第36話 一人目
講習の帰り道、将太は何度も自分の手を見た。
昼間、止まった世界で触れかけた空気が、まだ指先に残っている気がした。
黒いコート。
深く被ったフード。
そして、一本だけ立てられた指。
一。
あれが何を数えたのかは、分からない。
けれど、無視していいものではないとだけは思った。
*
教室の空気は、いつもより少しだけ重かった。
問題集を閉じた悠真が、将太の横から覗き込む。
「さっきから全然進んでない」
「考え事」
「珍しいな。お前、手を動かしてる時は静かだろ」
言い返そうとして、将太はやめた。
説明できることではない。
悠真はそれ以上、聞かなかった。
代わりに、将太のノートに目を落とす。
「この問題、そこから入るのか」
「たぶん」
「たぶんで合ってる。前なら遠回りしてた」
将太は顔を上げた。
「分かるのか」
「見れば」
悠真は、いつもの調子で答えた。
「答えに近い線が増えた。悪いことじゃない」
悪いことじゃない。
その言葉が、なぜか引っかかった。
将太には、自分の中で何かが速くなっている感覚があった。
問題の形が、以前より早くほどける。
けれど同時に、忘れたくないものまで薄くなっている気がする。
「将太」
教室の後ろから、天堂が呼んだ。
「終わったら、少し残れ」
「何で」
「昨日の模試。お前の答案、見せてほしい」
「お前が?」
「悪いか」
将太は首を振った。
天堂は、以前よりもずっと真っ直ぐに将太を見ていた。
順位ではなく、将太の変化そのものを測ろうとしているように。
「逃げるなよ」
「逃げない」
それだけ答えて、将太は再び問題に目を落とした。
*
夜。
将太は、机の前に座ったまま目を閉じた。
白い駅の気配を思い出す。
息を止める。
次の瞬間、部屋の時計が止まった。
針は、さっきまでと同じ位置にある。
外の車の音も、エアコンの低い唸りも消えていた。
将太は立ち上がった。
今日は確かめるために来た。
駅前まで行くと、黒いコートの人物はすぐに見つかった。
横断歩道の向こう。
動かない人波の中で、そこだけが世界から浮いている。
「お前、昨日の……」
フードの奥は、やはり見えない。
「一人目って、誰のことだ」
返事はなかった。
将太が一歩進む。
空気が、わずかに軋んだ。
もう一歩。
途端に、相手までの距離が伸びた。
近づいているのに、遠ざかる。
「待て」
足を速めた瞬間、視界の端が白く滲んだ。
頭の奥を鈍い痛みが走る。
それでも将太は目を逸らさなかった。
フードの人物が、ほんの少し首を傾げる。
『まだ、知らない』
声は近くないのに、耳の内側へ直接落ちた。
「何を」
『一人目を』
「だから、誰だよ」
黒い影は答えない。
次の瞬間、距離そのものがほどけた。
将太の足元が揺らぐ。
膝をつき、顔を上げた時には、向こう側にいたはずの人物は消えていた。
『追うな』
背後から、三成の声がした。
「知ってるのか」
『知らぬ』
「嘘だ」
三成は、止まった街を見回した。
『あれは、お前を探しているわけではない』
「じゃあ何を」
『次の席を見ている』
将太は振り向いた。
「二人目?」
三成はすぐには答えなかった。
『お前は最初ではない』
その言葉だけが、静かな駅前に残った。
『そして、最後でもない』
*
現実へ戻ると、机のノートが開いていた。
昨日まで白紙だった余白に、細い文字が浮かんでいる。
二人目が近い。
将太は、しばらくページを見つめた。
黒いコート。
一人目。
次の席。
それぞれはまだ繋がらない。
けれど、誰かがすでに、将太たちのすぐそばにいる。
そう考えた瞬間、ノートの下にもう一行、文字が滲んだ。
――一人目は、もう見ている。
窓に映った自分の影が、少しだけ遅れて揺れた。




