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憑いてる。  作者: 受験孔明
観測者たち
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35/82

第35話 代償

第35話 代償


 最初に異変に気づいたのは、母だった。


「将太」


 朝食の席。


 湯気の立つ味噌汁をよそいながら、康子が不思議そうな顔をした。


「最近、ちゃんと寝てる?」


 将太は箸を止めた。


「寝てるよ」


「本当に?」


「本当に」


 康子は少し首を傾げる。


「顔色悪いよ」


 将太は返事をしなかった。


 自分でも分かっていた。


 疲れている。


 体ではない。


 頭だ。


 何日も考え続けた後みたいな重さがある。


 目を閉じると、数式や図形が浮かんでくる。


 数学の問題。


 理科の公式。


 塾の演習。


 ランキング表。


 足跡。


 黒いコート。


 最近ずっと、そんな状態だった。


「冬期講習、無理してない?」


「してない」


 即答した。


 康子は、それ以上追及しなかった。


 ただ、将太の顔を少しだけ長く見た。


 その視線が、妙に痛かった。


 心配されるのが嫌だった。


 だが、心配されるだけの変化が自分に出ていることも分かっていた。


   *


 冬期講習。


 教室に入ると、空気が少し違った。


 全国模試百九十七位。


 たった一つの数字で、周囲の視線は変わる。


 将太はそれを初めて実感していた。


 悠真は相変わらず前方の席で問題集を読んでいる。


 天堂は少し離れた席で、友人らしい生徒たちと話している。


 どちらもいつも通りだった。


 だが、周囲は違う。


 将太を見る。


 意識している。


 受験の世界では、順位がすべてだ。


 誰も口には出さない。


 だが全員が分かっている。


 数字は嘘をつかない。


 昨日まで普通だった生徒が、突然、全国二百位以内に入る。


 それだけで、席の位置が変わる。


 見られる側になる。


「綾小路、今日も上げてくるかな」


「最近、理系強くね?」


「何かやり方変えたんかな」


 小さな声。


 悪意ではない。


 だが、視線は確かに増えている。


 将太は席に座り、問題集を開いた。


 嬉しくないわけではない。


 でも、落ち着かない。


 自分が自分の実力でここに来たのか、まだ分からないからだ。


   *


 数学の授業中。


 講師が難問を黒板へ映した。


 教室が静まる。


 誰もすぐには動けない。


 条件が多い。


 図形も複雑。


 方針を間違えれば、時間だけが消える問題だった。


 だが、将太の頭の中には、解法の流れが浮かんでいた。


 補助線。


 条件整理。


 場合分け。


 捨てる情報。


 拾う情報。


 以前より早い。


 明らかに。


 講師が解説を始める頃には、答案はほとんど完成していた。


 その時、視界が揺れた。


 一瞬だけ。


 黒板の数字が歪む。


 知らない数式が重なる。


 いや。


 違う。


 見覚えがある。


 停止した世界で考えていた問題だ。


 止まった時計。


 無音の部屋。


 他人のノートのように見えた自分の字。


 その記憶が、黒板の文字と重なった。


「っ……」


 将太は目を閉じる。


 頭痛。


 軽い吐き気。


 数秒で消える。


 だが、違和感は残った。


 現実と停止した世界。


 その境界が、少しずつ曖昧になっている。


「綾小路、大丈夫か?」


 講師が声をかける。


「あ、大丈夫です」


 将太はそう答えた。


 だが、悠真が一瞬だけこちらを見た。


 その視線は鋭かった。


 気づかれた。


 そんな気がした。


   *


 昼休み。


 自販機前。


 缶コーヒーを買おうとして、将太は立ち止まった。


 心陽がいた。


 友人たちと笑っている。


 冬の日差しが窓から差し込み、廊下を柔らかく照らしていた。


 いつも通りの光景。


 だが、将太は妙な違和感を覚えた。


 心陽が笑う。


 友人たちも笑う。


 その影が床に揺れる。


 けれど、心陽の影だけが、一瞬遅れて動いた。


「……」


 将太は目を細める。


 心陽本人は普通に笑っている。


 明るくて。


 柔らかくて。


 いつもの心陽だ。


 なのに、足元の影だけが少し遅れて彼女を真似しているように見える。


「どうしたの?」


 心陽が笑う。


 将太は首を振った。


「何でもない」


「最近ずっと変な顔してるよ」


「そんなことない」


「してる」


 心陽は楽しそうに笑った。


 その瞬間。


 影だけが笑わなかった。


 将太は息を止める。


 だが次に瞬きをした時には、もう普通の影に戻っていた。


「……心陽」


「何?」


「最近、白い駅の夢、見てる?」


 心陽の笑顔が、ほんの少しだけ止まった。


 本当にわずかだった。


 周囲の友人たちは気づいていない。


 だが将太には分かった。


「見てないよ」


 心陽はそう言った。


 嘘だった。


 将太は分かってしまった。


 けれど、それ以上聞かなかった。


 聞けば、何かが剥がれる気がした。


 心陽の影は、彼女の足元で静かに揺れている。


 今度は遅れていない。


 だが、将太にはもう普通には見えなかった。


   *


 夜。


 将太は机に向かっていた。


 数学の問題集。


 シャープペンを置く。


 目を閉じる。


 集中する。


 静寂。


 深呼吸。


 世界から音が消えていく。


 時計の音。


 外の車。


 冷蔵庫の振動。


 全部が遠ざかる。


 そして、静止。


 停止した世界。


 将太はゆっくり目を開いた。


 時計を見る。


 午後十時五十七分。


 止まっている。


 成功だ。


 だが、前より重かった。


 頭の奥が熱い。


 無理をすると危険だと、本能が警告している。


『気づいたか』


 三成だった。


 将太は椅子にもたれた。


「何が」


『疲れている』


「少しな」


 三成は窓の外を見る。


『当然だ』


「現実じゃ数分だぞ」


『だからだ』


 将太は顔を上げた。


 三成は珍しく真面目な表情をしている。


『お前は勘違いしている』


「何を」


『あの世界は休憩室ではない』


 静かな声だった。


『勉強しているつもりか』


「違うのか」


『違う』


 三成は将太を見る。


『お前は観測している』


「観測……」


『だから覚える』


『だから理解する』


『だが』


 三成の声が低くなる。


『理解したものは、お前の中に残り続ける』


 将太は黙った。


 意味はよく分からない。


 だが、怖い話をされていることだけは分かった。


『知識を得ているのではない』


 三成は言った。


『見たものを、脳に刻んでいる』


「じゃあ、使いすぎたらどうなる」


 三成は答えなかった。


 その沈黙が、答えのようだった。


「三成」


『何だ』


「俺、何を失ってるんだ」


 三成はすぐには答えない。


 窓の外の、止まった夜を見ていた。


『最初は記憶だ』


「最初は?」


『次は、感情かもしれん』


 将太の背筋が冷えた。


『その次は、関係だ』


「関係?」


『人との距離だ。誰を大事に思っていたか。誰に怒っていたか。誰に救われたか。そういうものが、少しずつ薄れるかもしれん』


「脅すなよ」


『脅しならよかった』


 三成はそう言って、将太を見た。


『だから、使い方を間違えるな』


   *


 その帰りだった。


 駅前広場。


 静止した人々。


 止まった信号。


 浮いたままの落ち葉。


 冬の夜。


 世界は相変わらず静かだった。


 将太は足跡を探していた。


 黒いコート。


 ビルの屋上から見ていた人物。


 あれは誰だったのか。


 手がかりが欲しかった。


 だが駅前には何もない。


 前回の足跡も残っていない。


「……消えたか」


 将太が呟いた時だった。


 広場の向こう。


 バスロータリーの先。


 停止した人々の隙間。


 黒い影が見えた。


 黒いコート。


 フード。


 顔は見えない。


 遠い。


 だが、間違いない。


 あの人物だ。


「おい!」


 将太は叫んだ。


 黒コートは逃げなかった。


 ただ、ゆっくり振り返る。


 そして、右手を上げた。


 人差し指を立てる。


 一。


 まるで、何かを数えているように。


 将太は一歩踏み出す。


 その瞬間、景色が歪んだ。


 距離が狂う。


 近い。


 遠い。


 右かと思えば左。


 広場がねじれる。


 頭痛。


 吐き気。


 三成の声が響く。


『見るな!』


 将太は思わず目を閉じた。


 膝が崩れる。


 数秒。


 いや、もっと長かったかもしれない。


 再び目を開けた時には、黒コートはいなかった。


 残っていたのは、足跡だけだった。


 足跡は一つ。


 そこで途切れている。


 まるで、そこに立っていたことだけを証明するように。


 そして地面には、薄く線が刻まれていた。


 一本。


 黒コートが立てた指と同じように。


   *


 現実へ戻った時、時計は午後十時五十九分だった。


 現実では二分。


 だが、体感では何時間もいた気がする。


 将太はベッドに倒れ込む。


 瞼が重い。


 意識が沈んでいく。


 だが眠る直前、将太は思い出していた。


 一。


 あの指。


 何を意味していたのか。


 答えは分からない。


 ただ、黒いコートの人物は、まるで将太を待っていたように見えた。


 そして。


 将太は気づいていなかった。


 枕元に置いたノートの端に、見覚えのない薄い線が一本だけ増えていたことに。


 翌朝。


 将太は、その線に気づく。


 ノートの端。


 鉛筆で引いたような、細い一本線。


 記憶にない。


 自分で書いた覚えもない。


 触れると、線の下に文字が浮かんだ。


 ――一つ目。


 将太の手が止まる。


 続けて、もう一行。


 ――代償は、数えられている。


 将太は、しばらく息ができなかった。

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