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憑いてる。  作者: 受験孔明
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第33話 止まった時間の使い方

## 第33話 足跡


 翌朝。


 将太は、机の上に置かれた赤い葉を見つめていた。


 昨日より、黒い部分が広がっている。


 ほんのわずか。


 気のせいだと言われれば、そう思えなくもない。


 だが、将太には分かった。


 確実に増えている。


「これ、腐ってるのか」


 指で触れようとすると、窓際に三成が現れた。


『触るな』


「昨日から、そればっかだな」


『お前は昨日から、触る必要のないものに触ろうとしすぎだ』


「ただの葉っぱだろ」


『ただの葉なら、あちらから持ち帰れぬ』


 将太は手を引いた。


 乾いた葉は、動かない。


 それなのに、見られているような気がした。


「捨てた方がいい?」


『捨てて消えるものならな』


「じゃあ、どうすんだよ」


『置いておけ』


「それ、何もしないってことだろ」


『分からぬものへ余計なことをするよりはましだ』


 三成は赤い葉から目を離さなかった。


 将太は小さく息を吐き、問題集を開いた。


 昨日決めた。


 止まった世界を、勉強には使わない。


 問題は、自分の時間で解く。


 自分で迷い、自分で間違え、自分で答えへたどり着く。


 そうしないと、何を積み上げているのか分からなくなる。


 シャープペンを握る。


 問題文を読む。


 以前より、やはり道筋は見えた。


 だが将太は、すぐには解かなかった。


 なぜ、その線を引くのか。


 なぜ、その式を使うのか。


 一つずつ、ノートへ書き込んでいく。


 答えよりも、そこへ進んだ自分を残すために。


     *


 学校へ向かう途中、将太は何度も後ろを振り返った。


 誰かがいるわけではない。


 人通りも、車の流れも、いつも通りだった。


 それでも、何かが遅れている。


 信号が青へ変わる。


 一拍置いて、車が動き出す。


 横断歩道を渡る男の影が、本人より半歩遅れて地面を滑る。


 将太は足を止めた。


 見直す。


 車は普通に走っている。


 影も、持ち主の足元へ戻っていた。


「……寝不足だな」


 声に出してみる。


 だが、言葉にすると余計に気持ち悪かった。


 自分だけが、現実の継ぎ目を見ている。


 そんな感覚が消えない。


     *


 教室へ入ると、天堂が窓際の席で問題集を開いていた。


「おはよ」


「遅い」


「まだ始業前だろ」


「始業前に来るのは普通だ」


「お前の普通を押しつけんな」


 天堂は問題集から目を離さないまま言った。


「この前の模試、七位だったらしいな」


「広まるの早すぎだろ」


「塾の順位なんて一日で回る」


 将太は鞄を机へ置いた。


「たまたまだよ」


「たまたまで七位は取れない」


 天堂の言い方は淡々としていた。


 からかっている様子はない。


 将太は少しだけ返事に困った。


「追いついて来いよ」


 天堂はそれだけ言い、ページをめくった。


「言われなくても」


 自然に言葉が返った。


 将太は、少し笑いそうになる。


 天堂は勝ちたがる。


 誰よりも上に立ちたがる。


 それなのに、周りが強くなること自体は嫌がらない。


 自分より弱い相手に勝つより、本気の相手を倒したい。


 そういうところだけは、嫌いではなかった。


     *


 放課後。


 塾へ向かう電車の中で、悠真からメッセージが届いた。


『今日、数学演習』


『知ってる』


『先生、後半切ると思う』


『何で』


『時間』


 それだけだった。


 実際、演習の途中で講師は時計を見た。


「後半二問は次回に回す」


 教室に小さなどよめきが起きる。


 悠真だけは、何もなかったように答案へ目を落としていた。


 将太は、その横顔を見る。


 悠真の速さは、止まった世界のものとは違う。


 現実の時間の中で、無駄な動きを一つずつ削っている。


 迷う場所を減らす。


 問題の優先順位を決める。


 捨てるべきものを見極める。


 毎日少しずつ、答えまでの距離を縮めている。


 だから強い。


 怖いほどに。


 けれど、目を逸らしたくはなかった。


 演習が終わると、悠真が将太の答案を覗き込んだ。


「ここ、前より速くなったな」


「そう?」


「途中で止まらなくなってる」


 将太は一瞬、言葉に詰まった。


 止まった世界のことは言えない。


「考え方を変えただけ」


「へえ」


 悠真はそれ以上聞かなかった。


 ただ、自分の答案を閉じる前に言った。


「急にやり方を変えると、崩れることあるから」


「お前に言われたくない」


「俺は急に変えてない」


 その通りだった。


 将太は何も返せなかった。


     *


 その夜。


 将太は机の前に座り、赤い葉を見つめていた。


 黒くなった部分は、朝よりわずかに広がっている。


「どこから来たんだろうな」


『東京駅前だろう』


「そういう意味じゃない」


 将太は葉を指先で持ち上げた。


 三成が眉をひそめる。


『触るなと言ったはずだ』


「確かめるだけ」


『何を』


「向こうで、これと同じものがあるか」


 三成の表情が険しくなった。


『戻るつもりか』


「勉強はしない」


『そういう問題ではない』


「東京の影が俺を見た。葉っぱまでついてきた。放っておけないだろ」


『放っておくべきものもある』


「お前がそれ言う?」


 三成は黙った。


 将太は赤い葉を制服のポケットへ入れた。


 目を閉じる。


 耳を澄ます。


 時計の音。


 冷蔵庫の低い唸り。


 外を通る車。


 すべてが、一つずつ遠ざかっていく。


 そして。


 音が消えた。


     *


 目を開ける。


 世界は止まっていた。


 時計の針。


 車。


 窓の外を舞っていた小さなごみ。


 すべてが途中で固まっている。


 将太は玄関を出た。


 駅前へ向かう。


 止まった人々の間を抜けるたび、あの東京の影を思い出した。


 見れば、見返される。


 もう一度見たいわけではない。


 ただ、何に見つかったのかを知りたかった。


 駅前へ近づくにつれ、ポケットの中の葉が温かくなっていった。


 将太は足を止める。


「昨日まで、冷たかったよな」


『出せ』


 葉を取り出す。


 黒い部分が、脈打つように一度だけ揺れた。


「動いた」


『戻ろうとしているのかもしれん』


「どこに」


『持ち主のところへ』


 将太は葉を落としそうになった。


「葉っぱに持ち主なんているのか」


『葉の話をしているとは限らん』


 三成の声が低くなる。


 将太は赤い葉を握らないよう、掌へ乗せた。


 駅前へ向かう角を曲がる。


 そこで、足が止まった。


 歩道に、薄く雪が積もっている。


 現実では雪など降っていない。


 空にも雲はない。


 それなのに、駅前へ続く歩道だけが白く染まっていた。


「……何だよ、これ」


 三成は答えなかった。


 雪の上に、足跡がある。


 一つ。


 その少し先に、もう一つ。


 将太のものではない。


 大人の靴跡より小さい。


 子どものものにも見える。


 だが、形が妙だった。


 右足だけ。


 左足の跡がない。


 右足。


 右足。


 右足。


 片方だけの足跡が、駅前へ向かって続いている。


「誰か歩いたのか」


『この世界でか』


「俺たち以外にも動けるやつがいる」


『可能性はある』


「昨日の人影?」


『分からん』


 三成が「分からない」と答える声は、昨日よりも低かった。


 将太は足跡へ近づいた。


 目を凝らす。


 すると、足跡が消えた。


「え?」


 顔を上げる。


 雪はある。


 だが、跡だけがない。


 一歩横へずれる。


 視界の端に、再び足跡が浮かんだ。


 直接見れば消える。


 見ないようにすると現れる。


 将太は顔をわずかに逸らしたまま、視線の端で足跡を追った。


「意味分かんね」


『見るという行為を、見られている』


「何だよ、それ」


『私にも分からん』


 将太は慎重に進んだ。


 右足だけの跡は、広場の奥へ続いている。


 足跡の脇。


 雪の上に、何かが書かれていた。


 靴先でなぞったような、歪んだ文字。


 将太は正面から見ないように目を細めた。


 ――見つけた。


 喉が鳴る。


「誰が」


『触るな』


 三成の声が、すぐ後ろで響いた。


「俺に向けて書いたのか」


『分からん』


「二人目か?」


 三成は答えなかった。


 足跡は途中で途切れている。


 だが、視線を外すと、その先にも続いている気がした。


 見ようとすると消える。


 見ないでいると、そこにある。


 将太は一歩進もうとした。


『追うな』


「でも、向こうは俺を見つけた」


『だからだ』


 三成が将太の前へ出る。


『お前が見つけたのではない』


 将太は足を止めた。


『まだ、お前は追う側ではない』


 その言葉と同時に。


 遠くで、発車ベルが鳴った。


 止まった世界の中で。


 聞き覚えのない音。


 それなのに、将太は知っていた。


 白い駅のベルだ。


 駅前の景色が、ほんの一瞬だけ白く滲む。


 足跡の先。


 広場の奥。


 誰かが立っているように見えた。


 黒い輪郭。


 だが、目を向けた瞬間に消える。


「今、誰か――」


『見るな』


 三成の声が飛ぶ。


 将太は反射的に目を伏せた。


 ベルが止まる。


 白い光も消える。


 残ったのは、薄い雪と、片方だけの足跡。


 そして。


 将太の掌に乗せていた赤い葉。


 葉の黒い部分が、もう半分近くまで広がっていた。


 将太は息を呑んだ。


 雪の上の文字は、いつの間にか消えている。


 だが、その一言だけは頭から離れなかった。


 見つけた。


 誰が。


 何を。


 将太にはまだ、分からなかった。


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