第32話 伸びる理由
## 第三十二話 記憶の手触り
翌日。
塾の教室は、いつもと変わらなかった。
授業前のざわめき。
問題集をめくる音。
ホワイトボードを準備する講師。
何一つ変わっていない。
変わったのは、将太だけだった。
*
「今日は図形だ。」
講師が問題を映し出す。
「答えを出すより先に、何を使うかを決めろ。それだけで時間は大きく変わる。」
将太は問題を見る。
図形。
条件。
数字。
その瞬間だった。
一本の補助線が、頭の中へ自然に浮かんだ。
そこだ。
そう引けば解ける。
迷いはなかった。
将太はシャープペンを走らせる。
途中式。
相似。
比。
最後の式まで、一気に書き切った。
手が止まらない。
自分でも驚くほど速かった。
「……終わった。」
小さく呟く。
見直しても間違いは見つからない。
やがて講師が解説を始めた。
「まず補助線を――」
将太が引いた場所と、まったく同じだった。
正解。
嬉しい。
そのはずだった。
だが胸の奥には、小さな違和感だけが残る。
どうして、その線を引こうと思ったのか。
そこだけが思い出せない。
*
「綾小路。」
隣から悠真が声をかけた。
「もう終わった?」
「うん。」
悠真は将太の答案を見る。
「前より迷ってない。」
「そう?」
「答えまで近くなってる。」
その言葉に、将太の手が止まる。
近い。
昨日、三成が言った言葉。
――近い場所ほど遠く。
――遠い場所ほど近い。
偶然だ。
そう思いたかった。
「どうした?」
「いや。」
将太は答案を閉じた。
「何でもない。」
悠真は深くは聞かなかった。
だが、その視線だけは以前より鋭くなっている気がした。
*
授業後。
小テストの順位が教室前のモニターへ表示された。
一位 森岡悠真
二位 天堂蓮
三位――
将太は自分の名前を探す。
七位。
綾小路将太。
「また上がった。」
「最近すごいな。」
周囲から声が聞こえる。
将太は画面を見つめたまま動けなかった。
七位。
以前なら飛び上がるほど嬉しかったはずだ。
なのに。
数字だけが、自分から少し離れた場所にあるように感じた。
*
「伸びてるな。」
天堂が隣へ来た。
「勉強してるから。」
「それだけか?」
将太は天堂を見る。
天堂は笑っていた。
「何だよ。」
「いや。」
天堂は順位表から目を離さない。
「追いついて来い。」
「言われなくても。」
「そのくらいじゃないと面白くない。」
将太は苦笑した。
天堂らしい。
勝つことしか考えていない。
だからこそ、強い相手を歓迎する。
その姿勢だけは嫌いになれなかった。
*
家へ帰る。
将太は机へ向かった。
今日解いた図形問題を開く。
答えは覚えている。
途中式も説明できる。
もう一度解いても、おそらく同じ答えへたどり着くだろう。
それなのに。
「……どこで思いついた?」
そこだけが思い出せない。
答えへ至る瞬間。
その感覚だけが、きれいに抜け落ちている。
昨日の問題も同じだった。
解き方は分かる。
だが。
迷った時間。
考えた時間。
閃いた瞬間。
そこだけが、霧の向こうにある。
「三成。」
窓際へ石田三成が現れる。
『何だ。』
「これ、おかしくないか。」
三成は問題集を見る。
「解き方は覚えてる。」
「でも、考えてた時のことだけ思い出せない。」
三成は少し考えた。
『出来事ではない。』
「え?」
『記憶の手触りだ。』
将太は首をかしげる。
『人は結果だけを覚えているのではない。』
『迷い。』
『焦り。』
『嬉しさ。』
『悔しさ。』
『それらが重なって、記憶になる。』
三成は静かに続けた。
『お前は、その一部を失い始めているのかもしれん。』
将太は言葉を失う。
「止まった世界のせいか。」
『分からぬ。』
「またそれか。」
『知らぬことを知っているとは言えん。』
三成は淡々としていた。
だからこそ、将太は少し安心した。
三成でも分からない。
それほど未知のことなのだ。
*
将太は問題集を閉じた。
「決めた。」
『何をだ。』
「もう止まった世界を勉強には使わない。」
三成は小さく頷く。
『賢明だ。』
「受験は、自分で受ける。」
「自分で考えて。」
「自分で間違えて。」
「自分で覚える。」
「そうじゃないと意味がない。」
三成は珍しく何も言い返さなかった。
ただ、小さく笑う。
『その答えに辿り着けたなら、まだ失ってはいないようだな。』
将太も少しだけ笑った。
*
机の上には、東京駅から持ち帰った赤い葉が置かれている。
何気なく目を向けた、その時だった。
葉の縁が、わずかに黒く染まっていることに気づく。
「……昨日、こんなのあったか?」
三成の表情が変わる。
『いや。』
二人は赤い葉を見つめた。
黒い部分は、本当にわずかだった。
見落としても不思議ではないほど小さい。
だが。
一度気づくと、そこから目を離せなかった。
静かな部屋。
時計だけが時を刻む。
将太は、なぜか胸騒ぎを覚えた。
それが、翌日「足跡」と出会う前触れだとは、この時はまだ知らなかった。




