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憑いてる。  作者: 受験孔明
目覚め
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第29話 止まった世界

# 第二十九話 止まった世界


 夜中だった。


 将太は、理由もなく目を覚ました。


 時計を見る。


 午前二時十三分。


 寝返りを打とうとして、ふと違和感を覚えた。


 静かすぎる。


 耳を澄ませる。


 雨音がしない。


 寝る前まで降り続いていた雨が、急に止んだのだろうか。


 そう思い、カーテンへ手を伸ばした。


 ゆっくり開く。


 その瞬間、将太は息をのんだ。


 雨が、落ちていなかった。


 無数の雨粒が、夜の空中に浮かんでいる。


 一滴も。


 一ミリも。


 動いていない。


 街灯に照らされた雨粒は、小さなガラス玉のように夜空へ散らばっていた。


「……また。」


 思わず呟く。


 停止世界。


 これまで何度も経験してきた。


 だが、今夜は違う。


 違和感の正体は、雨だけではなかった。


 時計を見る。


 秒針は十二の少し手前で止まっている。


 冷蔵庫の低い音もしない。


 エアコンの風も止まっている。


 家そのものが息を止めたようだった。


 将太は部屋を見回した。


「……おい。」


 返事はない。


「いるんだろ。」


 白い少年を呼ぶ。


 いつもなら、どこかで笑っている。


 机の横。


 窓際。


 ベッドの足元。


 気づけば立っている。


 それが当たり前になっていた。


「出てこいよ。」


 静寂だけが残る。


 将太の胸がざわつく。


 初めてだった。


 停止世界に入っても、白い少年がいない。


 机の上へ目を向ける。


 白い紙。


 そこには昨日と同じ文字が浮かんでいる。


 **『あと三日』**


 数字は変わらない。


 紙も動かない。


 将太は紙を手に取った。


「これ、お前が置いたんじゃないのか。」


 答える者はいない。


 部屋の空気は冷たく、どこか張り詰めていた。


 その時だった。


 カツン。


 小さな音が聞こえた。


 将太は顔を上げる。


 音は窓の外からだった。


 カツン。


 カツン。


 規則正しい靴音。


 静まり返った世界では、その音だけが異様にはっきり響いていた。


 将太は窓へ近づく。


 住宅街の道路。


 止まった雨。


 動かない街路樹。


 その中を、一人だけ歩いている者がいた。


 長いコートをまとった人影。


 男なのか。


 女なのか。


 それすら分からない。


 街灯の光を背に受け、ゆっくりと駅の方角へ歩いていく。


「……誰だ。」


 人影は振り返らない。


 迷いもない。


 まるで、この世界を知っている者の歩き方だった。


 将太は息を止める。


 頭の奥で、小さな警鐘が鳴った。


 追うな。


 そんな気がした。


 だが。


 胸の奥では、別の声が囁いている。


 行かなければ。


 あれを見失ったら、もう二度と会えない。


 将太は机の横へ置いてあったパーカーをつかむ。


 急いで羽織る。


 部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。


 玄関のドアノブへ手を掛ける。


 一瞬だけ迷う。


 この扉を開けば、もう元には戻れない。


 そんな予感がした。


 それでも。


 将太は静かにドアを開いた。


 冷たい空気が頬を撫でる。


 風は吹いていない。


 それなのに、寒さだけが肌へまとわりつく。


 軒先から落ちかけた雨粒。


 道路に広がる水たまり。


 隣家の植え込みに止まった枯れ葉。


 世界中のすべてが、一瞬の途中で止まっていた。


 将太はゆっくり一歩を踏み出す。


 自分の靴音だけが、静まり返った夜へ響いた。


 そして、遠くでは。


 あの人影の足音だけが、変わらない速さで駅へ向かって続いていた。


 将太は足音を頼りに走り始めた。


 住宅街を抜ける。


 信号は赤のまま止まっている。


 交差点の中央には、一台のワゴン車が静止していた。


 運転席では男性がハンドルを握ったまま前を見つめている。


 ワイパーはガラスの途中で止まり、ヘッドライトに照らされた雨粒だけが宙に浮いていた。


 まるで街全体が、一枚の写真になったようだった。


 それでも。


 カツン。


 カツン。


 足音だけは止まらない。


 一定の速さで、駅の方角へ続いている。


「待て!」


 将太は思わず声を上げた。


 返事はない。


 人影は振り返ることもなく、静かな歩幅を崩さない。


 将太はさらに速度を上げた。


 駅前へ続く大通りへ出る。


 普段なら車と人で賑わう場所も、今は完全に止まっていた。


 会社員がスマートフォンを見つめたまま立ち止まり、高校生たちは笑い合った姿勢のまま固まっている。


 母親に手を引かれた小さな子どもも、空へ伸ばしかけた手をそのまま止めていた。


 静寂。


 世界から音だけでなく、時間そのものが消えている。


 その光景に圧倒されながら歩いていると、不意に将太の足が止まった。


「……。」


 動いている。


 人ではない。


 人々の背後に立つ"存在"だけが、ゆっくりとこちらへ顔を向けていた。


 鎧をまとった武将。


 法衣姿の老人。


 黒い着物を着た女。


 西洋の甲冑を身につけた騎士。


 見たこともない異国の装束をまとった男。


 学校や塾で見てきた"憑いている者たち"だった。


 だが、これまでとは決定的に違う。


 彼らは動いている。


 ゆっくりと視線を動かし、将太を見ている。


 一人ではない。


 全員が。


 将太を。


 いや――。


 将太の背後を見つめていた。


 ぞくり、と背筋が震える。


 将太は反射的に振り返った。


 誰もいない。


 止まった雨。


 静かな街路樹。


 白く曇る息。


 それだけだった。


 もう一度前を見る。


 無数の存在たちは、まだ同じ場所を見つめている。


「何を見てるんだよ……。」


 答える者はいない。


 その時。


 カツン。


 あの足音が、再び聞こえた。


 将太は我に返る。


 人影は駅前ロータリーの向こうに立っていた。


 さっきより近い。


 いや。


 距離は変わっていない。


 そう思った瞬間、人影がゆっくりこちらへ顔を向けた。


 顔は見えない。


 輪郭だけが夜の中に浮かんでいる。


「待て!」


 将太は全力で駆け出した。


 駅まで五十メートルほど。


 追いつける距離だ。


 走る。


 走る。


 だが――


「……え?」


 距離が縮まらない。


 駅は目の前にある。


 人影も目の前にいる。


 それなのに、何度走っても五十メートル先のままだった。


 息が上がる。


 足は確かに動いている。


 景色も流れている。


 なのに、人影との間だけが引き伸ばされたように遠い。


 将太は立ち止まった。


 荒い呼吸だけが耳に響く。


 その時、不意に悠真の言葉が頭をよぎった。


 ――見るな。


 あの低い声。


 初めて聞いた、命令のような口調。


 将太はゆっくり目を閉じた。


 もう人影を見ない。


 視線を足元へ落とす。


 濡れたタイル。


 自分の靴。


 一歩。


 また一歩。


 ゆっくり歩く。


 十歩ほど進んだ、その時だった。


「……!」


 衣擦れの音がした。


 将太は顔を上げる。


 人影が立っていた。


 手を伸ばせば届くほど近くに。


 霧のような輪郭。


 顔だけが見えない。


 その存在は静かに右手を持ち上げ、将太へ向かって伸ばしてきた。


 将太は息をのんだ。


 人影の指先が、ゆっくりと自分の額へ近づいてくる。


 逃げなければ。


 そう思うのに、身体が動かない。


 足が地面へ縫い付けられたようだった。


 あと数センチ。


 その瞬間だった。


 ――ピン。


 乾いた電子音が、静まり返った駅前へ響いた。


 将太の視線が自然と動く。


 駅の改札口の上。


 普段は発車時刻を表示している電光掲示板だけが、淡く光っていた。


 止まった世界の中で。


 そこだけが動いている。


 黒い画面。


 白い文字が、一文字ずつ浮かび上がる。


 **『接近者 識別中』**


 将太は息を止めた。


 識別中。


 誰が。


 何を。


 そう考えた次の瞬間、表示がゆっくり書き換わる。


 **『接近者 識別不能』**


「……識別、できない?」


 その言葉が口から漏れた。


 白い駅でもない。


 白い少年でもない。


 この世界そのものが、その存在を識別できない。


 そんな意味に思えた。


 将太は勢いよく目の前を見る。


 人影はいなかった。


 ほんの一瞬前まで、自分の目の前に立っていたはずなのに。


 まるで最初から存在しなかったように消えている。


 静寂だけが残った。


 将太は周囲を見回す。


 止まった人々。


 動く分霊。


 浮かんだままの雨粒。


 景色は何も変わらない。


 だが、動いていた分霊たちは、一斉に同じ方向を向いていた。


 将太の後ろ。


 まただ。


 誰一人として将太を見ていない。


 その背後だけを見つめている。


「何なんだよ……。」


 ゆっくり振り返る。


 誰もいない。


 暗い住宅街が続いているだけだった。


 その時。


 足元に違和感を覚えた。


 濡れたアスファルト。


 そこへ、小さな足跡が残っている。


 将太の靴より、少し小さい。


 子どものものにも見える。


 けれど。


 その足跡は、雨の上についていた。


 本来なら、雨粒が落ちてからでなければ残るはずがない。


 あり得ない光景だった。


 将太は足跡を追う。


 一歩。


 また一歩。


 駅前の広場を抜けた先。


 白い霧が、ゆっくりと立ち込め始めていた。


「……白い駅。」


 霧は現実の駅へ重なるように広がっていく。


 境界が曖昧になる。


 現実なのか。


 あちら側なのか。


 その区別が消えていく。


 霧の奥に、一つのホームが浮かび上がった。


 古い柱。


 木製のベンチ。


 白い駅だった。


 ホームの中央に、一人の人影が立っている。


 さっき追っていた存在とは違う。


 小柄だった。


 将太と同じくらいの背丈。


 制服のようにも見える。


 その人物は静かに将太を見つめている。


 やがて。


 ゆっくり右手を上げた。


 挨拶なのか。


 合図なのか。


 将太には分からない。


 それでも。


 敵意だけは感じなかった。


 将太も無意識に右手を上げる。


 その瞬間だった。


 カラン――。


 どこからともなく、ベルが鳴った。


 世界が揺れる。


 止まっていた雨粒が、一斉に落ち始めた。


 車が動く。


 信号が切り替わる。


 人々の笑い声。


 電車の走行音。


 風の音。


 現実が一気に押し寄せてくる。


「危ないですよ!」


 誰かに肩をつかまれた。


 将太は我に返る。


 駅前の歩道。


 自分は白線ぎりぎりの場所へ立っていた。


「あ……すみません。」


 慌てて頭を下げる。


 通行人は不思議そうな顔で去っていく。


 将太はゆっくり辺りを見回した。


 白い駅はない。


 霧も消えている。


 人影もいない。


 すべて、いつもの駅前だった。


 夢だったのか。


 そう思いかけて、足元を見る。


 濡れたタイルの上。


 自分の靴のすぐ前に、小さな足跡が一つだけ残っていた。


 続きはない。


 その一歩だけ。


 まるで。


 「ここにいた」という証拠だけを残すように。


     ◇


 家へ戻ると、将太は制服も脱がず、自室へ入った。


 机の上には、白い紙が置かれている。


 今朝までと同じ場所。


 同じ紙。


 違っていたのは、文字だった。


 **『あと三日』**


 その数字が、墨を垂らしたようにゆっくり滲んでいく。


 三。


 その文字が消えた。


 代わりに、新しい文字が浮かび上がる。


 **『あと二日』**


 将太は紙を見つめたまま動けなかった。


 さらに。


 その下へ、もう一行。


 黒い文字が静かに現れる。


 **『観測開始』**


「観測……。」


 誰が。


 誰を。


 その問いに答える者はいない。


 ただ。


 部屋の窓ガラスへ映る自分だけが、不自然だった。


 鏡の中の将太は、紙を見ていない。


 ゆっくりと顔を上げ。


 将太の背後を、じっと見つめていた。


 将太は息を止める。


 振り返る。


 誰もいない。


 もう一度、窓を見る。


 そこには、いつもの自分しか映っていなかった。


 それでも。


 胸の奥では確信していた。


 もう、自分だけが見ているのではない。


 どこかで誰かが。


 自分を見始めている。



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