第30話 模試返却
# 第三十話 模試返却
塾へ着くと、いつもより廊下が騒がしかった。
まだ授業までは十分ほどある。
それなのに、受付前には大勢の生徒が集まっていた。
「出てる!」
「マジで?」
「全国順位!」
そんな声が飛び交う。
将太はリュックを肩へ掛け直し、人だかりの方を見た。
「何だろ。」
後ろから悠真が歩いてくる。
「模試じゃない?」
「もう返ってきたのか。」
二人も人の流れに混ざって掲示板へ近づいた。
壁いっぱいに、一枚の紙が貼られている。
全国模試。
教科別順位。
総合順位。
クラス別上位者。
数字と名前が隙間なく並んでいた。
「うわ……。」
誰かが小さく声を漏らす。
「一位、また東京か。」
「この人、毎回おるよな。」
「偏差値七十七って何なん。」
笑い混じりの声が聞こえる。
将太は順位表を見上げた。
東京。
大阪。
名古屋。
福岡。
全国の名前が並んでいる。
会ったこともない。
話したこともない。
それでも。
その一人ひとりが、自分と同じ問題を解き、同じ時間を戦った相手なのだと思うと、不思議な感覚になった。
「将太。」
悠真が小さく笑う。
「まだ返却前だから。」
「見ても意味ないぞ。」
「あ、そうか。」
将太も苦笑する。
順位表へ載るのは上位者だけ。
自分たちは、これから答案が返ってくる。
結果は封筒の中だ。
「緊張する?」
将太が聞く。
「する。」
悠真は素直に頷いた。
「毎回する。」
「悠真でも?」
「毎回。」
その返事に嘘はなかった。
「良かったら嬉しい。」
「悪かったら悔しい。」
「それは変わらない。」
将太は笑う。
「それ聞いて安心した。」
「何で。」
「悠真は緊張せん人かと思ってた。」
「そんなわけない。」
二人は顔を見合わせて笑った。
その時だった。
廊下の向こうから、静かな足音が聞こえた。
心陽だった。
参考書を抱えたまま、ゆっくりこちらへ歩いてくる。
「おはよう。」
柔らかな声。
「おはよう。」
将太も手を上げる。
「今日返ってくるね。」
心陽が微笑む。
「そうだね。」
「将太君、最近すごく頑張ってたもん。」
「いや、まだ分からんよ。」
「でも。」
心陽は少しだけ目を細めた。
「頑張った人は、自分で分かるから。」
その言葉に、将太は返事ができなかった。
結果はまだ知らない。
けれど。
以前の自分とは違う。
数学も。
英語も。
国語も。
少しずつ積み重ねてきた。
それだけは胸を張れた。
ふと。
将太の視線が心陽の背後へ向く。
以前なら、白い光が揺れて見えた。
今日は違う。
光は静かだった。
その奥にある"空席"も見えない。
何もない。
将太は小さく息を吐く。
(……見えない。)
それだけで、少し安心している自分がいた。
教室のドアが開く。
「返却するぞ。」
講師が封筒を抱えて入ってきた。
さっきまで賑やかだった廊下が、一瞬で静かになる。
生徒たちは、それぞれ自分の席へ向かった。
将太も席へ座る。
机の上へ置いた手に、少し汗をかいている。
模試の返却。
何度経験しても、この瞬間だけは慣れない。
講師は出席簿を開き、一人ずつ名前を呼び始めた。
「綾小路。」
「はい。」
将太は封筒を受け取る。
思ったより軽かった。
それなのに。
ずっしりと重く感じた。
封を切る前に、一度だけ悠真を見る。
悠真も、まだ封筒を開いていない。
二人は自然と目が合う。
どちらからともなく笑った。
「せーので開ける?」
将太が小声で言う。
悠真も笑って頷いた。
「いいよ。」
封筒へ手を掛ける。
その瞬間だった。
教室の照明が、ほんの一瞬だけ揺れた。
誰も気付かないほど、小さく。
ただ一人。
将太だけが、その違和感を覚えていた。
照明は、すぐに元へ戻った。
教室の誰も顔を上げない。
封筒を開く音だけが、あちこちで重なっている。
将太は天井を一度見上げたあと、もう気にしないことにした。
「せーの。」
悠真の声に合わせ、二人は封筒を開いた。
最初に出てきたのは、教科ごとの答案だった。
将太は数学から見る。
赤い丸。
途中式の横に書かれた、小さな減点。
最後の問題には、大きな斜線が引かれている。
だが。
「……高い。」
思わず声が漏れた。
自分で予想していた点数より、かなり良かった。
最後の一問は落としている。
その代わり、それ以外はほとんど取れていた。
途中式も、以前より丁寧に書けている。
悠真から何度も言われたことを、無意識に守っていた。
「数学、どうだった?」
悠真が小声で尋ねる。
「思ったより良かった。」
「見せて。」
将太は答案を横へずらした。
悠真が目を通す。
「最後以外、ほとんど合ってる。」
「最後は全然分からんかった。」
「ここまで行けてるなら、次は解ける。」
「ほんとに?」
「たぶん。」
「たぶんかよ。」
二人は小さく笑った。
将太は次に英語を取り出した。
数学ほどの自信はなかった。
恐る恐る点数を見る。
「お。」
大きく伸びたわけではない。
それでも、前回より安定していた。
単語で落とした問題はある。
長文でも、一つ選択肢を間違えている。
だが、以前のように途中で読むのを諦めてはいなかった。
最後まで解いている。
それだけでも、自分では変化が分かった。
「英語も悪くない。」
将太が言う。
「毎日少しずつやってたから。」
悠真は答案を見ながら頷いた。
「一気に上がらなくても、落ちなくなったら強い。」
「心陽さんも似たようなこと言いそう。」
「言いそう。」
二人はまた笑った。
最後に国語。
将太は一度だけ息を整えた。
前回、大きく崩れた科目だった。
文章を読み切れず、最後は勘で埋めた。
今回は時間配分を決めていた。
分からない問題へ止まりすぎない。
最後まで読む。
戻れる問題だけ戻る。
自分なりに考えて受けた。
答案をめくる。
点数を見る。
「……マジか。」
国語も上がっていた。
劇的ではない。
それでも、前回とは明らかに違う。
記述には部分点が入っている。
最後の大問まで、きちんと採点されている。
時間切れで白紙になった場所はなかった。
「国語も?」
「上がった。」
「よかったな。」
悠真は、自分の結果のように嬉しそうに笑った。
「前回のあと、ずっと気にしてたもんな。」
「だって、最後まで読めんかったし。」
「今回は読めた。」
「うん。」
「じゃあ、その分は自分で取った点だよ。」
その言葉に、将太は少しだけ黙った。
自分で取った点。
素直に受け取ればいい。
努力した。
間違い直しもした。
時間配分も変えた。
結果が上がる理由はある。
分かっている。
それでも。
最近、自分の中で起きていることを完全に無関係だとは思えなかった。
問題を見た瞬間。
どこから手をつければいいのか、以前より早く分かるようになっていた。
文章の中で必要な場所だけが、自然と目へ入ってくることもある。
考える時間が、ほんの少しだけ長く感じる時もあった。
止まった一秒。
音のない世界。
白い駅。
それらが、自分の頭の働きへ何も影響していないと言い切れるのか。
「将太?」
悠真に呼ばれ、顔を上げる。
「どうした?」
「いや。」
将太は首を振った。
「総合順位、まだ見てなかった。」
答案の下に、成績表が入っている。
薄い紙だった。
そこに、数字が並んでいる。
偏差値。
教科別順位。
総合順位。
志望校判定。
将太は上から順番に目で追った。
数学。
英語。
国語。
総合。
視線が止まる。
「……え。」
自分の名前の横。
これまでで一番高い順位が記されていた。
一瞬、読み間違えたと思った。
桁を見直す。
変わらない。
前回より大きく上がっている。
全国の中で。
同じ問題を受けた生徒の中で。
自分が、今までよりずっと前にいる。
「どうだった?」
悠真が尋ねる。
将太は黙ったまま、成績表を差し出した。
悠真が目を落とす。
その表情が、少しずつ明るくなる。
「すごい。」
「だよな。」
「かなり上がってる。」
「俺も、ちょっと信じられん。」
「数学だけじゃない。」
悠真は成績表を指で追う。
「英語も国語も安定してる。」
「うん。」
「ちゃんと直した結果だよ。」
また、その言葉だった。
自分で取った点。
努力した結果。
将太は嬉しかった。
胸の奥が熱くなる。
今までやったことが、数字になって返ってきた。
その事実は、やはり嬉しい。
「悠真は?」
「まあまあ。」
「見せろよ。」
「嫌だ。」
「何で。」
「将太より悪かったら恥ずかしい。」
「絶対嘘やん。」
「冗談。」
悠真は笑いながら成績表を見せた。
将太より上だった。
それも、かなり。
「全然まあまあじゃないやん。」
「でも、目標には届いてない。」
「どこ目指してんだよ。」
「もっと上。」
その言葉に迷いはなかった。
将太は成績表を見比べる。
自分は上がった。
悠真は、さらに上にいる。
悔しさはあった。
けれど以前とは違う。
遠すぎるとは思わなかった。
追いつける。
今すぐではない。
次でもないかもしれない。
それでも、進んでいけば届く場所に見えた。
「次は負けない。」
将太が言う。
悠真は少し驚いたあと、笑った。
「俺も負けない。」
その背後。
窓ガラスに映る羽扇の老人は、笑っていなかった。
老人は将太の成績表を見ている。
いや。
違う。
数字ではない。
将太自身を見つめている。
その目には、喜びではなく警戒に近いものが浮かんでいた。
将太が視線を向けると、老人はゆっくり目を閉じた。
何も見ていなかったように。
◇
休み時間。
生徒たちは答案を見せ合いながら、廊下へ出ていった。
点数を自慢する者。
笑ってごまかす者。
すぐに間違い直しを始める者。
返却された結果への向き合い方は、人それぞれだった。
将太は自動販売機の前に立ち、飲み物を選んでいた。
「結果、どうだった?」
背後から声がした。
心陽だった。
今日は参考書ではなく、模試の封筒を片手に持っている。
「上がった。」
将太は少し照れながら答えた。
「自己最高。」
「すごいじゃん。」
心陽は素直に笑った。
「頑張った結果だね。」
「みんな同じこと言うな。」
「違うの?」
「いや。」
将太は少し考える。
「そうだと思いたい。」
心陽の笑顔が、ほんの少しだけ消えた。
「思いたい?」
「最近さ。」
将太は言いかけて、やめた。
白い駅。
停止世界。
自分の中で起きている変化。
話せるはずがない。
「何でもない。」
心陽は無理に聞かなかった。
自動販売機の明かりが、二人の横顔を照らしている。
「結果って。」
心陽が静かに言った。
「一回分だけじゃ、何も決まらないよ。」
「分かってる。」
「よかった時も。」
「悪かった時も。」
「それまで何をしてきたかは、なくならないから。」
将太は模試の封筒を見る。
数字は結果だ。
でも、その数字になるまでの時間は、紙には書かれていない。
悠真と一緒に残った日。
英単語を覚えた夜。
国語の時間配分を考えたこと。
全部、自分の中に残っている。
「ありがとう。」
将太が言う。
心陽は小さく頷いた。
その瞬間。
心陽の背後で、白い光が揺れた。
将太の呼吸が止まる。
光の中心。
そこに、一脚の椅子が見えた。
白い駅で見た空席。
誰も座っていないはずの席。
けれど今日は。
そこへ誰かが座っていた。
白い服。
肩まで伸びた髪。
顔は見えない。
人影は心陽の後ろに座り、静かに将太を見ていた。
「将太君?」
心陽の声。
将太は瞬きをする。
椅子も。
人影も。
消えていた。
そこには心陽だけが立っている。
「どうしたの?」
「……いや。」
将太は無理に笑った。
「ちょっと疲れてるだけ。」
「また?」
「今回は模試のせい。」
「なら、今日は早く寝た方がいいね。」
心陽は柔らかく笑い、教室へ戻っていった。
将太はその背中を見送る。
胸の奥で、模試の結果とは別の何かが、静かにざわついていた。
心陽の背後に見えた席。
そこへ座っていた者。
あれは誰だったのか。
そして。
心陽は、本当に何も気づいていないのか。
授業開始のチャイムが鳴る。
将太は成績表の入った封筒を握り直し、教室へ戻った。
# 第三十話 模試返却(後編)
授業が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
教室を出る生徒たちは、それぞれ今日の結果を話しながら帰り支度をしている。
「次こそ勝つ。」
「数学だけやり直そう。」
「英語、マジで時間足りんかった。」
そんな声が廊下へ流れていく。
将太は鞄へ成績表をしまい、静かに立ち上がった。
「帰る?」
悠真が声をかける。
「うん。」
「今日も残る?」
「少しだけ。」
やはりそうか、と将太は笑う。
「毎日よう続くな。」
「毎日やめたら、毎日やらなくなる気がする。」
「またそれ。」
「本気。」
二人は笑い合った。
いつもの会話。
いつもの放課後。
怪異とは無縁の、穏やかな時間だった。
だからこそ将太は思う。
こんな毎日が、ずっと続けばいい。
何も知らないまま。
白い駅も。
停止世界も。
忘れてしまえたなら。
その方が幸せなのかもしれない。
「また明日。」
「また明日。」
将太は一人、駅への道を歩き始めた。
◇
夜。
目を閉じる。
白い霧が広がる。
足元の感触が変わる。
古びた木の床。
静かなホーム。
白い駅だった。
ベルは鳴っていない。
風もない。
ただ。
今夜は何かが違っていた。
将太はすぐに気づく。
白い少年が、ホームの中央ではなく線路際へ立っていた。
まっすぐ前を見ている。
その表情には、今まで見たことのない緊張があった。
「来たか。」
小さな声だった。
「どうした。」
将太が近づく。
少年は答えず、霧の向こうを見つめる。
「今日は。」
静かな声。
「君に会わせたい人がいる。」
将太は眉をひそめた。
「誰。」
返事はなかった。
代わりに。
カラン――。
ベルが鳴る。
一度。
また一度。
ホーム全体へ静かに響いていく。
霧が左右へ流れ始めた。
その奥から、一つの影が現れる。
ゆっくり。
ゆっくり。
将太と同じくらいの背丈。
細い体つき。
制服のようにも見える。
将太は息をのんだ。
停止世界で見た。
白いホームの向こうに立っていた。
あの小柄な人影だった。
今度は逃げない。
距離も縮まる。
一歩。
また一歩。
将太の正面で立ち止まる。
顔は見えない。
白い霧が輪郭だけを包んでいる。
しばらく沈黙が続いた。
やがて。
人影が初めて口を開いた。
「……やっと。」
小さな声。
「やっと会えた。」
将太の喉が乾く。
「お前……。」
「誰なんだ。」
返事はない。
人影は静かに白い少年へ目を向ける。
白い少年も見返す。
二人の間には、言葉はいらなかった。
長い時間を知る者同士だけが分かる何かが流れていた。
その時だった。
ホーム全体へ、これまでで一番大きなベルが鳴り響く。
**カラン――。**
白い駅が震えた。
将太は思わず周囲を見回す。
ホーム中央に立つ古い案内板。
今まで何も表示されていなかった黒い板が、ゆっくりと光を帯びていく。
一文字ずつ。
墨が滲むように文字が浮かび上がる。
**『観測準備 完了』**
「……観測。」
将太が呟いた瞬間だった。
ガタン。
小さな音がした。
将太は振り向く。
ホームへ停車していた白い列車。
閉じたままだった扉が、ゆっくりと開き始めていた。
白い光が車内から溢れる。
窓際に立つ者たちが、一斉に将太を見る。
鎧姿の男。
法衣をまとった老人。
異国の軍服を着た青年。
和服姿の女。
誰も名前は読めない。
胸元は今も黒く塗り潰されたままだ。
その中で、一人の老人だけが静かに頷いた。
まるで。
将太を迎えるように。
「……乗るのか。」
将太は思わず前へ出る。
「まだ。」
白い少年が静かに制した。
「今じゃない。」
「でも。」
「まだ。」
その声は、これまでで一番強かった。
将太は足を止める。
白い少年は、ゆっくりと将太へ向き直った。
少し笑う。
けれど、その笑顔はどこか寂しかった。
「ここから先は。」
一拍置く。
「もう僕一人では、君を守れない。」
将太は言葉を失う。
「どういう意味だ。」
少年は答えない。
代わりに。
将太。
白い少年。
そして小柄な人影。
三人は並んで、開いた列車の扉を見つめていた。
扉の向こうは真っ白だった。
何も見えない。
何も聞こえない。
それでも。
その先へ進めば、もう元の日常へは戻れない。
将太は、本能的にそう理解した。
白い駅へ、最後のベルが響く。
**カラン――。**
視界が白く染まる。
霧。
ホーム。
列車。
すべてが光へ溶けていく。
◇
朝。
将太は静かに目を開けた。
いつもの自分の部屋。
窓の外では、登校する小学生の声が聞こえる。
夢だった。
そう思おうとして、机へ目を向ける。
白い紙が一枚。
昨日と同じ場所に置かれていた。
ゆっくり近づく。
昨日まで書かれていた文字は消えている。
新しく浮かんでいたのは、たった一行。
**『観測開始』**
将太は、その文字を見つめたまま動けなかった。




