第28話 途中下車不可
# 第二十八話 途中下車不可
十二月に入ると、朝の空気は一段と冷たくなった。
吐く息は白く、制服のポケットへ手を入れて歩く生徒が増えている。
「寒っ!」
校門をくぐるなり、来海が肩をすくめた。
「手、かじかんでシャーペン持てん。」
「勉強しなくていい言い訳できたな。」
将太が笑う。
「いや、それとこれは別。」
「どっちやねん。」
二人が笑うと、後ろから天堂が追いついてきた。
「福岡の冬、なめとったわ。」
「大阪も寒いやろ。」
「寒いけど種類が違う。」
「また始まった。」
来海が苦笑する。
「大阪の風は大阪の風、やろ?」
「せや。」
天堂は真顔で頷いた。
「やっぱ分かる?」
「分からん。」
三人は顔を見合わせて笑った。
その笑い声が、冷たい朝の空へ溶けていく。
こんな時間が、ずっと続くと思っていた。
少なくとも数週間前までは。
◇
一時間目の授業が始まる。
教師が黒板へ数式を書く。
チョークの音だけが静かな教室へ響く。
将太はノートを取りながら、無意識に窓ガラスへ目を向けた。
暗く映る教室。
机。
椅子。
生徒たち。
そして、その背後。
今日も影たちは、それぞれ決められた場所へ立っていた。
悠真の後ろには、羽扇を持つ老人。
窓際の女子の後ろには、長い髪の女。
前列の男子には、甲冑姿の武者。
もう驚かない。
見えること自体には慣れ始めていた。
だが。
将太は自分の姿を見る。
自分の背後だけは、今日も空いている。
誰もいない。
いや。
何もないわけではない。
そこには"席"がある。
まだ誰も座っていない席。
将太は視線を逸らした。
見続けると、また何かが起きる気がした。
◇
昼休み。
校庭ではサッカーをする生徒たちが歓声を上げていた。
来海は友達とバスケットボールを始めている。
「将太! 来い!」
「あとで!」
窓際から手だけ振る。
校庭は冬の日差しを受けて明るかった。
校門の外を、一人の会社員が歩いていく。
犬の散歩をする老人。
自転車で坂を下る高校生。
何気なく景色を眺めていた、その時だった。
歩道橋の上。
黒いコートを着た人物が立っていた。
距離はかなりある。
顔も見えない。
ただ。
こちらを見ている。
将太は目を細めた。
人混みが横切る。
一瞬だけ視界が遮られる。
次の瞬間には、もう姿はなかった。
「……。」
将太は歩道橋を見つめ続けた。
「将太?」
来海が窓際まで来る。
「何見てる?」
「いや。」
将太は首を振る。
「何でもない。」
そう答えながらも、胸のざわつきは消えなかった。
あれは偶然ではない。
見られていた。
そんな確信だけが残っていた。
◇
放課後。
塾では授業前のざわめきが広がっていた。
教材を開く音。
友達と答え合わせをする声。
自販機の前で笑う生徒たち。
将太は悠真と並んで教室へ向かく。
「模試、もうすぐだな。」
「うん。」
「緊張する?」
「少し。」
「悠真でも?」
「するよ。」
悠真は苦笑した。
「上には、まだまだいるから。」
「でも勝ちたい。」
「もちろん。」
その答えは迷いがなかった。
将太は悠真を見る。
その後ろでは、羽扇を持つ老人が静かに目を閉じている。
いつもと同じ。
そう思った。
しかし。
老人がゆっくりと目を開いた。
見ている。
将太ではない。
教室の入口でもない。
廊下の、そのさらに奥。
誰かを待つように。
将太もつられて振り返る。
廊下の向こうから、心陽が歩いてきた。
両腕いっぱいに参考書を抱え、静かな足取りでこちらへ近づいてくる。
「こんにちは。」
「お疲れ。」
自然な挨拶。
その瞬間だった。
心陽の背後で、淡い白い光が揺れた。
将太は息を止める。
光ではない。
その中心。
ほんの一瞬だけ。
白い駅で見た"空席"が重なった。
誰も座っていない白い椅子。
瞬きをする。
もう消えていた。
「将太君?」
心陽が首をかしげる。
「どうしたの?」
「……いや。」
将太は笑ってごまかした。
「ちょっとぼーっとしてた。」
心陽も微笑み、そのまま教室へ入っていく。
悠真は何も言わない。
ただ、心陽の背中を静かに見送っていた。
その夜。
眠りへ落ちる感覚は、以前よりも自然になっていた。
目を開ける。
白い霧。
古びた木製のベンチ。
静まり返ったホーム。
将太は、何も驚かなかった。
「来た。」
白い少年が、ホームの先で小さく笑う。
「今日も待ってたのか。」
「待ってた。」
「毎日?」
「毎日。」
将太は苦笑した。
「暇なんだな。」
「そうかもしれない。」
少年も笑う。
その笑顔を見て、将太は少しだけ肩の力を抜いた。
ここへ来るたびに感じていた緊張が、今日は不思議と薄かった。
それでも。
ホームの空気は、いつもとは違っていた。
静かすぎる。
風もない。
霧も動かない。
まるで、駅全体が何かを待っているようだった。
「……何かあるのか。」
将太が尋ねる。
白い少年は答えず、線路の先を見つめる。
その横顔には、わずかな緊張が浮かんでいた。
将太も同じ方向へ視線を向ける。
霧の向こうは、何も見えない。
白だけが続いている。
その時だった。
カラン――。
ベルが鳴った。
将太の身体が小さく震える。
この音は、何度も聞いてきた。
だが今日は違う。
音が一度では終わらない。
カラン。
カラン。
一定の間隔で、静かに響き続ける。
やがて。
霧の奥に、一つの灯が浮かんだ。
白い光。
近づくにつれ、その輪郭がはっきりしていく。
「……列車。」
将太は思わず呟いた。
白い列車だった。
音もなく。
振動もなく。
霧を押し分けるように、ゆっくりとホームへ滑り込んでくる。
車体には何も書かれていない。
行き先も。
路線名も。
ただ、真っ白だった。
列車は将太の目の前で静かに止まる。
ドアは開かない。
車内だけが見えていた。
窓際には、人が立っている。
鎧姿の男。
和服の老人。
洋装の青年。
軍服の男。
法衣をまとった僧。
時代も国も違う者たちが、一つの車両へ並んでいた。
誰も話さない。
誰も動かない。
ただ。
全員が将太を見ている。
胸元には、名前が刻まれているはずの場所。
そこだけが黒く塗り潰されていた。
「この人たちは……。」
白い少年は小さく息を吐く。
「まだ知らなくていい。」
「また、それか。」
「うん。」
将太は窓へ近づく。
ガラス越しに、一人の老人と目が合った。
穏やかな目だった。
悲しそうでもあり。
どこか懐かしそうでもある。
老人は何も言わない。
ただ、将太の後ろを見ていた。
まただ。
みんな同じだ。
将太ではなく。
自分の背後にある"空席"を見ている。
将太は振り返る。
ホームには誰もいない。
「何なんだよ。」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
白い少年が静かに歩いてくる。
「将太。」
「何。」
「切符、持ってる?」
将太は制服のポケットへ手を入れた。
指先へ、紙の感触が伝わる。
取り出す。
白い切符。
何も書かれていない。
初めてここへ来た夜から、ずっと持っている切符だった。
「これ。」
「失くしてないね。」
「失くせなかった。」
「そう。」
白い少年は安心したように頷く。
「それは、君のものだから。」
将太は切符を見つめる。
「これで乗れるのか。」
「乗れる。」
「じゃあ乗ればいい。」
「まだ駄目。」
「何で。」
少年は列車へ目を向けた。
「行き先が決まってない。」
「行き先?」
「うん。」
それ以上は説明しなかった。
将太も、もう無理に聞かなかった。
聞いても答えられないことを、この少年は知っている。
あるいは。
答えてはいけないのかもしれない。
しばらく二人で列車を見つめる。
静かな時間だった。
その時。
将太は、小さく口を開いた。
「最近。」
「うん。」
「見られてる気がする。」
少年は即座に頷いた。
「気のせいじゃない。」
将太の鼓動が速くなる。
「やっぱり。」
「君は今まで、見る側だった。」
少年の声は静かだった。
「英雄も。」
「白い駅も。」
「止まった世界も。」
「全部、君が見つけてきた。」
将太は黙って聞いている。
「でも。」
少年は将太を真っすぐ見た。
「見るということは。」
一拍置く。
「いつか、見られるということでもある。」
将太は言葉を失った。
「誰に。」
その問いに、少年は答えなかった。
代わりに、ホームの先を見つめる。
将太もつられて視線を向ける。
霧の奥。
誰もいない。
そう思った。
だが。
ほんの一瞬だけ。
柱の陰から、誰かがこちらを覗いた。
小柄な人影。
将太と同じくらいの背丈。
顔は見えない。
目だけが、こちらを見ていた。
将太は息をのむ。
「誰だ!」
声を上げる。
人影は動かない。
逃げもしない。
ただ。
見ている。
次の瞬間。
カラン――。
再びベルが鳴った。
列車のドアが、小さく震える。
将太が視線を戻した、そのわずかな間に。
人影は消えていた。
「今の……。」
白い少年は霧の奥を見つめたまま、小さく呟く。
「始まった。」
「何が。」
返事はない。
白い列車が静かに動き始める。
ベルが止む。
車輪の音はしない。
列車は霧の中へゆっくりと消えていく。
最後尾の窓。
さっきの老人が、もう一度だけ将太を見た。
そして。
ほんのわずかに頷いた。
列車が完全に見えなくなる。
ホームには、将太と白い少年だけが残った。
白い少年は、霧の向こうを見つめたまま言う。
「もう。」
短く息を吸う。
「時間は、あまり残っていない。」
将太はその言葉の意味を尋ねようとした。
だが。
視界が白く染まり始める。
ホーム。
ベンチ。
柱。
白い少年。
すべてが霧へ溶けていく。
目を開けると、自分の部屋だった。
まだ夜は明けていない。
静かな部屋の中で、将太はポケットへ手を入れた。
夢の中で持っていたはずの白い切符。
あるはずがない。
そう思いながら指先を動かす。
紙の感触があった。
将太はゆっくり取り出す。
白い切符は、現実にも存在していた。
そして。
切符の裏には、今までなかった一行が浮かんでいた。
**『途中下車不可』**
将太は、その文字を見つめたまま動けなかった。




