第25話 教えられない理由
# 第二十五話 教えられない理由
翌朝。
将太は、いつもより三十分早く学校へ着いた。
昇降口はまだ静かだった。
遠くから、朝練をしている運動部の掛け声が聞こえてくる。
廊下には誰もいない。
昨日まで降り続いていた雨の匂いが、まだ少しだけ残っていた。
将太は教室の扉を開ける。
机。
椅子。
黒板。
窓から差し込む朝日が、床へ長い影を落としている。
誰もいない教室は、普段より広く見えた。
将太は自分の席へ座り、鞄を机の横へ掛けた。
昨夜の白い駅が、何度も頭に浮かぶ。
姿の見えない足音。
背後から聞こえた声。
――振り返るな。
なぜ振り返ってはいけなかったのか。
あの足音は誰のものだったのか。
白い少年は、どこにいたのか。
考えても、答えは出なかった。
「いるなら出てこいよ。」
将太は教室の後ろへ視線を向ける。
誰も座っていない席。
白い少年が、何の前触れもなく現れそうな気がした。
けれど、何も起きない。
窓の外では、運動部の掛け声が続いている。
「何で、何も教えてくれないんだよ。」
呟いた声は、静かな教室へ小さく響いた。
もちろん、返事はなかった。
◇
放課後。
塾へ向かう電車の中で、将太は悠真と並んで立っていた。
車内には、同じ塾へ向かう生徒が何人もいる。
英単語帳を開いている者。
参考書へ目を落としている者。
窓へ頭を預け、眠っている者。
将太は何度か悠真を見た。
そのたびに話しかけようとして、やめる。
「何?」
先に気づいたのは悠真だった。
「さっきから、こっち見てる。」
「そんな見てた?」
「見てた。」
悠真は少し笑った。
「顔に何かついてる?」
「いや。」
将太は吊り革を握り直した。
電車が揺れる。
窓の外を流れる景色が、夕方の光に染まっていた。
「昨日さ。」
将太は口を開いた。
「変な夢を見た。」
夢。
そう言ったのは、他に言い方が思いつかなかったからだ。
悠真は笑わなかった。
「どんな?」
「駅にいた。」
「普通の駅?」
「白い駅。」
悠真の表情が、わずかに止まる。
ほんの一瞬だった。
「誰もいなかった。」
将太は続ける。
「いつもいるやつもいなくて。」
「歩いてたら、後ろから足音がした。」
「振り返ろうとしたら、声が聞こえた。」
悠真は黙ったまま聞いている。
「振り返るなって。」
電車が線路の継ぎ目を越えた。
規則的な音が、二人の間に流れる。
「それで?」
「そのまま歩いた。」
「足音は、ずっと後ろにいた。」
「最後にベルが鳴って、目が覚めた。」
悠真はすぐには答えなかった。
窓ガラスに二人の姿が映っている。
将太の背後には何もいない。
悠真の背後にも、今日は老人の姿が見えなかった。
「何だったと思う?」
将太が尋ねる。
「分からない。」
「本当に?」
「うん。」
将太は窓に映る悠真を見る。
穏やかな表情。
嘘をついているようには見えない。
それでも、何も知らない人間の顔にも見えなかった。
「悠真ってさ。」
「うん。」
「何か知ってるだろ。」
悠真は黙った。
否定しない。
その沈黙が、将太には答えのように思えた。
「知ってるなら教えてくれよ。」
思ったより強い声が出た。
近くにいた高校生が、一瞬だけこちらを見る。
将太は声を落とした。
「俺だけ何も分からないんだよ。」
「変なものが見えて。」
「時間が止まって。」
「誰かに見つけたって言われて。」
「でも、誰に聞いても何も教えてくれない。」
悠真は目を伏せた。
「……ごめん。」
短い言葉だった。
将太の胸がざわつく。
「やっぱり、知ってるんだろ。」
「俺は。」
悠真は言葉を探すように少し間を置いた。
「全部知ってるわけじゃない。」
「じゃあ、知ってることだけでいい。」
「それも、言えない。」
「何で?」
悠真は窓の外を見た。
流れていく建物。
赤く染まった空。
自分の答えを、そこから探しているようだった。
「問題ってさ。」
やがて、悠真が言った。
「答えだけ教えてもらったら、解けるだろ。」
「今、勉強の話してない。」
「分かってる。」
「でも、似てる気がする。」
悠真は将太を見る。
「答えを見れば、その問題は解ける。」
「でも、次に少し違う問題が出たら、また解けない。」
「だから?」
「自分で辿り着かないと、身につかないことがある。」
将太は眉を寄せた。
「それで、俺が危ない目に遭っても黙ってるのか?」
「違う。」
悠真の声が、少しだけ強くなる。
すぐにいつもの落ち着いた声へ戻った。
「危ないから、教えられないこともある。」
「意味分かんない。」
「俺も、分からない。」
悠真は困ったように笑った。
「分からないまま、言ってる。」
その表情を見て、将太は何も言えなくなった。
悠真も苦しんでいる。
そんな気がした。
知っているから黙っているのではない。
何かに黙らされている。
その方が近いのかもしれなかった。
電車が駅へ滑り込む。
扉が開く。
「行こう。」
悠真はいつもの顔に戻り、先に電車を降りた。
将太は少し遅れて、そのあとを追った。
◇
塾の授業が終わると、悠真は今日も自習室へ向かった。
「将太も残る?」
「今日は帰る。」
「そう。」
悠真は一度だけ将太の顔を見た。
「気をつけて。」
「何に?」
将太が聞き返す。
悠真は少し迷い、首を横へ振った。
「何でもない。」
そのまま自習室へ入っていく。
将太は閉まった扉をしばらく見つめた。
「そればっかりだな。」
小さく呟き、駅へ向かった。
◇
ホームには、帰宅する人々が並んでいた。
会社員がスマートフォンを見ている。
高校生たちが笑っている。
駅員がホームの端を確認しながら歩いている。
昨日までと変わらない光景だった。
将太は白線の内側へ立つ。
時計を見る。
次の電車まで二分。
何気なく周囲を見回した。
何も起きない。
音も消えない。
人々も止まらない。
白い駅も見えない。
「止まれ。」
将太は小さく呟いた。
自分でも、なぜそんなことを言ったのか分からなかった。
何も起きない。
「出てこいよ。」
接近メロディーが流れ始める。
遠くから電車の音が近づいてくる。
世界は、将太の言葉など聞いていないように動き続けていた。
「何なんだよ……。」
昨日は怖かった。
振り返るなと言われた時、本当は逃げ出したかった。
それなのに今は、もう一度あの場所を見たいと思っている。
何が起きているのか、自分の目で確かめたい。
誰かに教えられるのではなく。
自分で。
電車がホームへ入ってくる。
風が吹き抜ける。
将太が乗り込もうとした時だった。
柱に貼られた広告が目に入った。
塾の広告。
笑顔の生徒。
合格実績。
見慣れたものだった。
将太は一度、視線をそらす。
そして、なぜかもう一度見た。
広告は真っ白になっていた。
「……え?」
写真もない。
文字もない。
色もない。
白い紙だけが、柱へ貼られている。
将太は人の流れから外れ、広告へ近づいた。
白紙の中央。
墨を落としたような黒い染みが、ゆっくりと広がっていく。
染みは一本の線になり。
やがて文字の形を作った。
『教えられた者は、辿り着けない。』
将太は息をのんだ。
教えられた者。
辿り着けない。
意味は分からない。
けれど、悠真の言葉と重なった。
「乗らないの?」
後ろから声を掛けられる。
「あ……。」
将太は反射的に振り返った。
乗車口で、女性が困ったように待っている。
「すみません。」
将太は横へ避ける。
もう一度、柱を見る。
そこには元どおり、塾の広告が貼られていた。
笑顔の生徒。
合格実績。
真っ白な紙も、黒い文字も消えている。
発車ベルが鳴る。
将太は慌てて電車へ乗り込んだ。
閉まる扉の向こう。
柱の広告は、最後まで普通のままだった。
◇
夜。
将太は白い駅の木製ベンチに座っていた。
白い霧が、線路の上をゆっくり流れている。
昨日聞いた足音はない。
今日は白い少年もいた。
少し離れた場所で、線路の向こうを見ている。
「今日、文字を見た。」
将太が言った。
少年は振り返らない。
「教えられた者は、辿り着けないって。」
「そう。」
驚いた様子はなかった。
「お前が書いたのか?」
「違う。」
「じゃあ、誰が。」
少年は答えない。
また沈黙。
将太はベンチから立ち上がった。
「何で誰も教えてくれないんだよ。」
声が白いホームへ響く。
「悠真も。」
「お前も。」
「知ってるなら、言えばいいだろ。」
白い少年が、ゆっくり将太へ顔を向けた。
「言えない。」
「言わない、じゃなくて?」
「言えない。」
「何が違うんだよ。」
少年はしばらく将太を見つめていた。
「答えを教えた瞬間。」
一度、言葉を切る。
「それはもう、君の答えじゃない。」
将太は眉をひそめる。
「意味分かんない。」
「見えるものは教えられる。」
「場所も。」
「起きたことも。」
「でも。」
少年は自分の目元へ指を当てた。
「何を見るかは、教えられない。」
「同じものを見ればいいだろ。」
「同じものを見ても、同じ答えにはならない。」
将太は黙った。
少年の言葉は、悠真の言葉とよく似ていた。
答えだけを見ても、自分で解いたことにはならない。
誰かに言われたものだけを見ていたら、自分の目ではなくなる。
「だから、黙ってるのか。」
「そう。」
「俺が危なくても?」
白い少年の表情が、ほんの少しだけ変わった。
「危ないからだよ。」
その声は静かだった。
「君が自分で見つけた答えなら、君を守る。」
「誰かに与えられた答えは、君を迷わせる。」
将太には、まだ全部は理解できなかった。
それでも。
悠真が苦しそうに黙っていた理由。
白い少年が、何度尋ねても答えなかった理由。
その一部だけは、分かった気がした。
「じゃあ。」
将太は霧の向こうへ目を向ける。
「自分で見つければいいんだな。」
白い少年は、わずかに目を細めた。
「そう。」
「それが、君の答えになる。」
霧が静かに揺れる。
その奥には何も見えない。
けれど将太は、もう目をそらさなかった。
誰かが答えを教えてくれるのを待つのはやめる。
見えるものを見る。
気づいたことを、自分で考える。
辿り着くべき場所があるのなら。
自分の目で、そこまで行く。
将太は白い霧を見つめ続けた。
その向こうでも。
何かが、将太を見ている気がした。




