第23話 代償
# 第二十三話 代償
朝、目が覚めた時から、体が重かった。
眠ったはずなのに眠った気がしない。
目を閉じれば白い霧が浮かび、耳を澄ませば、聞こえないはずの足音がどこか遠くで響いているような気がした。
将太は枕元の時計を見た。
いつもより三十分も早く目が覚めていた。
それなのに、起き上がる気力が湧かない。
「将太。」
階下から母・康子の声がする。
「朝ご飯できてるよ。」
「……今行く。」
返事をすると、自分の声まで少しかすれて聞こえた。
◇
学校へ向かう道は、久しぶりに晴れていた。
昨日までの雨が嘘のように空は青い。
水たまりだけが、昨夜までの雨を覚えていた。
「おはよう!」
来海がいつもの調子で肩を叩いてくる。
「眠そうやな。」
「そんな分かる?」
「めっちゃ分かる。」
将太は苦笑した。
「昨日、夜更かし?」
「そんな感じ。」
「ゲーム?」
「違う。」
「じゃあ勉強?」
「それも違う。」
「何やねん。」
二人は笑いながら校門をくぐる。
笑っている。
いつも通り話している。
それでも将太は、自分の体だけが少し遅れて動いているような感覚を拭えなかった。
◇
三時間目。
数学の授業だった。
黒板に書かれた問題は難しくない。
昨日なら、すぐに解けていた。
なのに今日は、式を追うだけで頭が重い。
教師の声が遠く聞こえる。
文字が少しだけ滲む。
「綾小路。」
突然名前を呼ばれた。
「大丈夫か。」
将太は顔を上げる。
「あ……はい。」
「顔色悪いぞ。」
「寝不足です。」
「無理するな。」
教師はそれ以上何も言わず授業を続けた。
来海が心配そうに横を見る。
「ほんとに大丈夫?」
「大丈夫。」
そう答えたものの、自分でもその言葉に自信はなかった。
◇
放課後。
塾へ着いても眠気は消えなかった。
授業が始まれば集中できると思っていた。
だが、問題集を開いても頭に入ってこない。
数字がただ並んでいるだけに見える。
「将太君。」
不意に声を掛けられた。
顔を上げる。
心陽だった。
胸に参考書を抱えたまま、静かに立っている。
「こんにちは。」
「こんにちは。」
「少し疲れてる?」
将太は思わず笑った。
「そんな顔してます?」
「うん。」
心陽はためらうことなく頷いた。
「今日は、いつもより。」
将太は頭をかいた。
「ちょっと寝不足で。」
「ちゃんと眠れた?」
その質問に、将太の動きが止まる。
「え?」
「夢、見なかった?」
心陽はすぐに首を振った。
「あ、ごめん。」
「変な聞き方だった。」
「いや……。」
将太は答えられなかった。
白い駅のことは誰にも話していない。
なのに、心陽の言葉は胸の奥へ真っ直ぐ届いた。
「無理しないで。」
それだけ言うと、心陽は教室を出ていく。
将太はその背中を見送った。
何気ない会話だった。
それなのに、胸のざわつきだけは消えなかった。
◇
授業が終わる。
悠真は今日も自習室へ向かった。
「将太、一緒にやる?」
「今日は帰る。」
「珍しい。」
「ちょっと頭が回らない。」
悠真は将太の顔を見つめた。
「……そうか。」
それ以上は聞かなかった。
ただ、小さく笑って言う。
「今日は休め。」
「うん。」
「本当に。」
その一言だけが、少し強かった。
◇
夜。
白い駅。
今日も列車は来ない。
白い霧だけが静かに流れている。
将太は白い少年の隣へ立った。
「眠い。」
少年は黙っている。
「最近ずっと。」
「朝起きても疲れてる。」
「授業も頭に入らない。」
少年はゆっくり将太を見た。
「当然だよ。」
「え?」
「君は、ここへ来ている。」
「夢じゃないの?」
「夢でもある。」
「現実でもある。」
将太は眉をひそめた。
「分かんない。」
「分からなくていい。」
少年は白い霧へ視線を戻す。
「一つだけ覚えて。」
「何。」
「見えることには、代償がある。」
静かな声だった。
「君が見れば見るほど。」
「こちらへ近づけば近づくほど。」
「君は、あちらでは眠り、こちらでは目覚める。」
将太はその意味を理解できなかった。
けれど。
体の重さだけは、その言葉を証明しているようだった。
「じゃあ。」
将太は小さく尋ねる。
「いつか……普通に戻れるのか。」
少年は答えなかった。
白い霧の向こうを見つめたまま、静かに目を閉じる。
その沈黙が、何より残酷な答えに思えた。
遠くで、姿の見えない列車のベルが一度だけ鳴る。
将太は自分の両手を見つめた。
何も変わっていない。
それでも、もう昨日までの自分には戻れない。
そんな予感だけが、静かに胸の奥へ沈んでいった。




