第22話 違和感
# 第二十二話 違和感
朝から雨だった。
細い雨粒が途切れることなく空から落ち、道路の色をいつもより濃くしている。
校門へ向かう生徒たちは、それぞれ傘を差し、足早に歩いていた。
透明な傘。
紺色の傘。
派手な柄の傘。
その隙間を縫うように、将太は水たまりを軽く飛び越えた。
「危なっ。」
着地した拍子に水が跳ね、靴の先が少しだけ濡れる。
「将太、子どもか。」
隣を歩いていた来海が笑った。
「まだ中学生だからな。」
「そういう意味じゃない。」
「じゃあ、どういう意味だよ。」
「普通に歩けって意味。」
「避けた方が早いやん。」
「失敗してるけどな。」
近くにいた友達も笑う。
将太も笑い返した。
いつもの朝だった。
くだらないことで笑い、濡れた靴を気にしながら昇降口へ向かう。
昨日、白い駅で何があったとしても。
霧の向こうに誰がいたとしても。
朝になれば、学校は始まる。
そうやって、何も変わらない一日が続いていく。
将太はそう思いたかった。
◇
一時間目は数学だった。
教室の窓を、雨粒が絶え間なく流れていく。
教師は黒板へ図形を書き、その横に条件を並べた。
「それでは、この問題。」
チョークを置き、教室を見渡す。
「解ける人。」
生徒たちの視線が一斉に下がった。
教科書を見る者。
ノートへ目を落とす者。
教師と目が合わないよう、急に筆箱を探し始める者。
将太は黒板の問題を見た。
難しくはない。
補助線を一本引けば、答えまでの道筋が見える。
迷わず手を挙げた。
「はい。」
「綾小路。前へ。」
将太は席を立ち、黒板の前へ向かった。
チョークを持つ。
図形に一本線を足し、式を書いていく。
途中式。
条件の整理。
最後に答えを囲む。
「正解。」
教師が頷いた。
「補助線の引き方もいい。席へ戻っていいぞ。」
教室の後ろから、小さく拍手する音が聞こえた。
将太は少し照れながらチョークを置く。
席へ戻ろうとした、その時だった。
何となく。
本当に、何となく窓の外を見た。
雨。
濡れた校庭。
誰も使っていないサッカーゴール。
水のたまったグラウンドを、雨粒が細かく叩いている。
誰もいない。
……はずだった。
校舎の端。
グラウンドと体育倉庫の間に、一人の人影が立っていた。
傘を差していない。
雨具も着ていない。
服も髪も濡れているはずなのに、身じろぎ一つしない。
ただ、こちらを見上げていた。
遠くて顔までは見えない。
それでも、視線だけは分かった。
将太を見ている。
教室ではなく。
窓でもなく。
将太だけを。
「綾小路。」
教師の声が飛んできた。
将太は反応できなかった。
「綾小路。」
少し強い声になる。
「いつまで立ってる。席へ戻れ。」
「あ……はい。」
将太は慌てて歩き出した。
席へ戻る途中、もう一度だけ窓を見る。
人影は消えていた。
そこには雨しかない。
校舎の端にも。
体育倉庫の前にも。
誰もいなかった。
「どうした?」
席へ戻った将太へ、来海が小声で尋ねる。
「別に。」
「外に何かおった?」
「いや。」
将太はノートを開いた。
教師が次の問題の説明を始める。
黒板にチョークが走る。
周囲の生徒たちが一斉にノートを取る。
将太も鉛筆を動かした。
けれど、さっきの人影が立っていた場所だけが、何度も頭に浮かんだ。
傘を差さず。
動かず。
まっすぐこちらを見ていた。
雨に濡れていたのかさえ、分からなかった。
◇
夕方。
塾の窓にも、まだ雨粒が流れていた。
授業終了のチャイムが鳴る。
生徒たちは一斉に立ち上がり、机の上の教材を鞄へ詰め始めた。
椅子を引く音。
今日の問題について話す声。
廊下を走る足音。
教室の中は一気に騒がしくなる。
「将太、帰るぞ。」
先に鞄を持った友達が声をかけてきた。
「今日はちょっと残る。」
「珍し。」
「たまにはな。」
「悠真と?」
「まあ。」
「仲いいやん。」
「だから違うって。」
友達は笑いながら教室を出ていった。
人が減るにつれて、騒がしさも遠ざかっていく。
やがて教室に残ったのは、将太と悠真だけになった。
悠真はいつもの席で問題集を開いている。
将太も隣の机へ座り、教材を取り出した。
「今日は残るんだ。」
悠真が言った。
「毎日残ってるやつに言われたくない。」
「確かに。」
「昨日の問題、もう一回やっとこうと思って。」
「最後のやつ?」
「途中式、飛ばしたから。」
悠真が少し笑う。
「気にしてたんだ。」
「先生には言われてないけど、お前がうるさいから。」
「本番で減点されたら困るだろ。」
「はいはい。」
二人はそれ以上話さず、問題へ向かった。
教室には、シャープペンシルの音だけが響く。
雨が窓を叩く音。
時計の秒針。
ページをめくる音。
悠真と一緒に勉強していると、不思議と集中できた。
分からない問題があれば、負けたくないと思う。
悠真が先へ進めば、自分も急ぐ。
競争しているわけではない。
けれど、一人で勉強している時とは違う緊張感があった。
将太は一問を解き終え、答えを確認する。
合っていた。
隣を見ると、悠真はまだ同じ問題を考えている。
「そこ、補助線引いた方が早いぞ。」
「分かってる。」
「分かってない顔してるけど。」
「今、考えてるところ。」
将太は笑い、次の問題へ進んだ。
その時だった。
悠真が消しゴムを取ろうとして、机の端に置いていたノートへ腕をぶつけた。
パラリ。
ノートが床へ落ちる。
「あ。」
「拾う。」
将太は椅子から手を伸ばした。
落ちたノートは、開いた状態で伏せるように床へ落ちていた。
将太が持ち上げる。
その瞬間。
開いたページに書かれた文字が目に入った。
数学の式ではない。
英単語でもない。
ページの中央に、一行だけ。
『まだ見てはいけない。』
細い字だった。
悠真の字に似ている。
けれど、普段ノートへ書いている字より、ずっと整っていた。
「これ。」
将太が顔を上げる。
悠真の表情が止まった。
ほんの一瞬。
目が見開かれ、唇がわずかに動く。
だが、すぐにいつもの表情へ戻った。
「何?」
「これ、何のメモ?」
将太はノートを見せた。
悠真は素早く受け取り、閉じる。
「勉強のメモ。」
「勉強?」
「うん。」
「何を見たら駄目なんだよ。」
「答え。」
「答え?」
「問題を解く前に、答えを見るなってこと。」
理由としては通っている。
少し不自然ではあるが、あり得ない説明ではない。
「わざわざ、こんなふうに書く?」
「忘れるから。」
悠真は笑った。
「すぐ答え見たくなるだろ。」
「お前が?」
「俺だって見る時あるよ。」
「へえ。」
将太はそれ以上聞かなかった。
けれど。
ノートを鞄へ入れる悠真の指先が、小さく震えていた。
寒いわけではない。
教室には暖房が入っている。
悠真は震えを隠すように手を握り、すぐに問題集へ視線を戻した。
「続き、やろう。」
「うん。」
将太もノートへ目を落とす。
シャープペンシルを持つ。
しかし、問題文は頭に入ってこなかった。
――まだ見てはいけない。
それは誰へ向けた言葉だったのか。
悠真自身へ。
それとも。
別の誰かへ。
将太は隣を見た。
悠真は何事もなかったように式を書いている。
その背後には、何も見えない。
羽扇を持つ老人の姿もなかった。
だからこそ。
何もいないことの方が、将太には不自然に思えた。
◇
塾を出る頃になっても、雨は弱くならなかった。
悠真とは入口で別れた。
「明日な。」
「うん。また明日。」
悠真は傘を差し、人の流れへ入っていく。
将太はその背中をしばらく見送った。
追いかけて、もう一度聞こうかと思った。
ノートに書かれていた言葉。
昨日の「見るな」という声。
羽扇を持つ老人。
全部、悠真と関係があるのか。
けれど、将太は動かなかった。
守るために黙ることもある。
白い少年の言葉を思い出したからだ。
駅のホームへ着く。
屋根はあるが、風に押された雨が入り込み、床の端を濡らしていた。
将太は電車を待ちながら、ホームのガラス壁へ目を向けた。
雨粒のついたガラスに、自分の姿がぼんやりと映っている。
濡れた前髪。
肩にかけた鞄。
少し疲れた顔。
その背後。
ガラスの端に、白いものが映った。
人ではない。
顔もない。
長い袖のようなものだけが、将太の背後から伸びている。
将太は息を止めた。
ゆっくりと振り返る。
誰もいない。
ベンチにも。
階段にも。
券売機の前にも。
ホームには将太以外、誰もいなかった。
もう一度ガラスを見る。
白い袖は消えている。
映っているのは、自分だけ。
「疲れてるだけか。」
将太は小さく呟いた。
声に出せば、少しは本当らしく聞こえると思った。
だが、その言葉は雨音に紛れ、すぐに消えた。
電車がホームへ入ってくる。
ガラスの向こうを、光が横切る。
将太は目をそらさなかった。
最後まで、何も映らなかった。
それでも。
誰かが自分のすぐ後ろに立っているような感覚だけは、電車へ乗り込んだあとも消えなかった。
◇
その夜。
将太は白い駅に立っていた。
ホームを覆う霧は、いつもより薄かった。
遠くまで見える。
白い柱。
古いベンチ。
どこまでも続く線路。
列車は来ない。
ベルも鳴らない。
白い少年は、いつものようにホームの端に立っていた。
将太はその隣へ並ぶ。
「最近さ。」
「何?」
「違和感ばっかりなんだ。」
白い少年は線路の向こうを見たまま、静かに聞いている。
「学校でも誰かいる気がするし。」
「悠真も何か隠してる。」
「駅では、変なものが映るし。」
少年は答えない。
将太は少し苛立った。
「何で俺だけなんだよ。」
「前はこんなの見えなかった。」
「普通だった。」
そこで少年が、ゆっくりと将太を見る。
「普通?」
「そうだよ。」
「何も見えなかったし、変な声も聞こえなかった。」
「白い駅にも来なかった。」
「それを普通って言うんだろ。」
少年はわずかに微笑んだ。
「違うよ。」
「何が?」
「世界が変わったから、違和感が生まれたんじゃない。」
将太は少年を見る。
「君が変わったからだ。」
「俺が?」
「今まで見えなかったものが、見えるようになった。」
「聞こえなかったものが、聞こえるようになった。」
「気づかなかった視線に、気づくようになった。」
少年は白い霧へ目を向ける。
「世界は、最初からここにある。」
静かな声だった。
「君が見ていなかっただけ。」
将太は何も言えなかった。
その言葉を否定しようとした。
けれど、できなかった。
学校で見た人影。
悠真の背後に立つ老人。
駅のガラスに映った白い袖。
あれらが突然現れたのではなく、ずっと前からそこにいたのだとしたら。
自分だけが、気づいていなかったのだとしたら。
「じゃあ。」
将太は霧の向こうを見る。
「俺が気づいたから、向こうも俺に気づいたってこと?」
少年は答えなかった。
沈黙が、その問いへの答えに思えた。
霧がゆっくりと揺れる。
何も見えない。
それでも、向こう側に誰かがいる。
将太には分かった。
姿ではない。
音でもない。
ただ、そこにある気配。
将太は目をそらさなかった。
しばらくして。
霧の奥で、何かが一歩だけ動いた。
今度は、見間違いではなかった。
将太が息をのむ。
白い少年は何も言わない。
ただ、将太と同じ場所を見ていた。
霧の向こう。
見えない何かもまた。
こちらを見ていた。




