第21話 沈黙する者
# 第二十一話 沈黙する者
翌朝。
目を覚ました将太は、しばらく天井を見つめていた。
昨日の出来事が夢ではなかったことを、目が覚めた瞬間に思い出す。
白い駅。
霧の向こうから聞こえた声。
――やっと見つけた。
そして、自分の腕を強くつかんだ白い少年。
あの必死な表情だけが、頭から離れなかった。
枕元の目覚まし時計を見る。
いつもと同じ時間。
窓の外では、小鳥の鳴き声が聞こえている。
世界は、何も変わっていなかった。
◇
学校へ着くと、教室はいつもどおりの騒がしさに包まれていた。
宿題を写させてくれと頼み込む声。
机を寄せ合って笑う女子たち。
眠そうな顔で机に突っ伏す男子。
担任が教室へ入ってくると、一斉に席へ戻っていく。
朝のホームルーム。
先生は今日の予定を話していた。
文化祭の準備。
提出物の期限。
来週の小テスト。
どれも昨日までと変わらない話だった。
将太は窓の外へ目を向ける。
校庭では体育の授業が始まっていた。
ボールを追いかける生徒たちの姿が見える。
「将太。」
隣から来海が小声で話しかけてきた。
「昼休み、体育館空くらしい。」
「マジ?」
「先生が会議で使わんって。」
「じゃあバスケ決まりやな。」
「今日は勝負。」
「負ける気しない。」
「昨日もそう言って負けかけてたやん。」
「最後勝ったし。」
「最後だけな。」
二人は顔を見合わせて笑った。
その声につられるように、近くの友達も笑い出す。
いつもの朝。
いつもの教室。
いつもの仲間たち。
将太も笑っていた。
それなのに。
笑顔の奥で、別の記憶が静かに浮かび上がる。
――見るな。
あの低い声。
あれは本当に悠真の声だったのだろうか。
それとも。
悠真の背後に立つ"誰か"の声だったのだろうか。
考えようとしても答えは出ない。
チャイムが鳴り、授業が始まった。
◇
放課後。
塾では、いつものように授業が行われた。
数学。
英語。
休み時間には、廊下で問題の解き方を話し合う声が響く。
心陽の姿も見えたが、今日は参考書を抱えたまま別の教室へ入っていった。
将太と目が合うと、小さく会釈だけを残して。
それだけだった。
授業終了のチャイムが鳴る。
教室から、生徒たちが次々と出ていく。
「将太、帰るぞ。」
「先行って。」
「また悠真待つの?」
「ちょっとだけ。」
「ほんと仲いいな。」
「違うって。」
友達は笑いながら帰っていった。
教室は少しずつ静かになっていく。
将太は廊下へ出て、教室の中を振り返った。
悠真は席に残ったまま、問題集を開いている。
消しては書き。
また消して。
何度も式を書き直していた。
先生も何も言わない。
もう見慣れた光景なのだろう。
「また残るの?」
将太が教室の入口から声をかける。
悠真は顔を上げた。
「ああ。」
「今日やめたら?」
少し笑う。
「明日もやめそうだから。」
「それが一番怖い。」
将太も笑った。
「分かるような、分からんような。」
「じゃあ、また明日。」
「うん。」
将太は軽く手を振る。
悠真も同じように手を上げた。
そのまま教室を離れようとした時だった。
何気なく窓ガラスへ目がいく。
夕暮れの教室が黒く映り込んでいる。
机。
黒板。
そして、悠真の姿。
その背後。
羽扇を持った老人が静かに立っていた。
長い衣をまとい、穏やかな顔で悠真を見つめている。
将太は息を止めた。
老人は将太を見ない。
悠真だけを見ている。
その眼差しには、どこか迷いのようなものがあった。
悠真は振り返らない。
まるで、その存在を感じてもいないようだった。
「将太?」
悠真が不思議そうに声をかける。
「どうした?」
将太は我に返る。
「……いや。」
「何でもない。」
もう一度窓を見る。
そこには悠真しか映っていなかった。
老人の姿は、跡形もなく消えている。
将太は胸の奥に小さな不安を抱えたまま、教室をあとにした。
◇
その夜。
白い駅。
ホームには今日も静かな霧が流れていた。
ベルは鳴らない。
列車も来ない。
白い少年は、線路の向こうを見つめたまま立っている。
将太は隣へ並んだ。
「なあ。」
少年は黙っている。
「悠真じゃない。」
少し間を置く。
「悠真の後ろにいる"誰か"だ。」
少年の肩が、ほんのわずかに動く。
「昨日、『見るな』って言ったの。」
返事はない。
「俺には、そう聞こえた。」
長い沈黙が流れる。
やがて少年が、小さく口を開いた。
「知らない者を守る方法もある。」
将太は少年を見る。
「知れば、守れないこともある。」
それだけだった。
説明はない。
理由もない。
けれど、その言葉だけで十分だった。
昨日の悠真の表情が浮かぶ。
あれは怯えていた顔ではない。
誰かを守ろうとする顔だった。
将太は小さく息を吐いた。
「だったら。」
「俺はいつ知れるんだ。」
少年は答えない。
霧の向こうを見つめ続けている。
将太もつられて振り返る。
誰もいない。
それでも。
見られている。
そんな感覚だけが残っていた。
その時だった。
霧の奥で、何かが動いた。
ほんのわずか。
人が一歩だけ踏み出したような気配。
将太が目を凝らす。
白い少年は静かに一歩前へ出た。
「帰れ。」
短い一言だった。
風が吹く。
白い霧が大きく揺れた。
霧の奥から、小さく笑う気配だけが返ってくる。
姿は見えない。
声も聞こえない。
ただ、その存在だけがまだそこにいると分かった。
やがて風が止む。
霧はゆっくりと静まり返り、気配も少しずつ薄れていった。
将太は少年の横顔を見つめた。
少年は最後まで、霧の向こうから一度も目を離さなかった。




