第20話 3人目
# 第二十話 三人目
体育館に、ボールの弾む音が響いていた。
キュッ。
キュッ。
シューズが床を擦るたび、短い音が重なる。
「将太、こっち!」
「おう!」
来海の声に反応し、将太は右へ走った。
パスを受ける。
一人目が前へ出る。
体を少し沈め、左へ行くと見せかけて右へ抜く。
すぐにもう一人が寄ってきた。
将太はボールを背中へ回し、その横をすり抜ける。
「うまっ!」
誰かが声を上げた。
そのままリングへ向かい、片手でボールを押し込む。
バックボードに当たったボールが、きれいにネットを通った。
「ナイス!」
「今のずるいやろ。」
「何が?」
「途中から本気出したやん。」
「最初から本気だし。」
将太は笑いながら、自陣へ戻った。
勉強とは違う。
問題文を読み、答えまでの道筋を考える必要はない。
誰がどこにいるのか。
次にどこが空くのか。
考えるより先に、体が動く。
仲間と声を掛け合い、ミスを笑い、一本決めれば素直に喜ぶ。
この時間だけは、余計なことを考えなくて済んだ。
朝の小テストで止まった消しゴムも。
音の消えた駅のホームも。
窓に映った灰色の人影も。
全部、体育館の外へ置いてきたつもりだった。
「将太!」
来海からボールが飛んでくる。
将太は両手で受け取り、そのまま床へ落とした。
一度。
二度。
相手の動きを見る。
右へ切り込もうとした、その時だった。
ぞわり。
首筋を、冷たい指でなぞられたような感覚が走った。
将太の動きが止まる。
まただ。
体育館の中は暑い。
窓も閉まっている。
風が入ってきたわけではない。
それでも、背中だけが冷たかった。
誰かに見られている。
将太は反射的に振り返った。
体育館の入口。
誰もいない。
閉じた扉の上にある小さな窓から、薄い光が差し込んでいるだけだった。
ギャラリーにも人影はない。
二階の手すり。
畳まれたネット。
壁に取り付けられた時計。
何度見ても、誰もいなかった。
「将太!」
来海の声と同時に、ボールが飛んできた。
「あっ。」
将太は慌てて両手を出した。
指先に当たったボールが跳ね、床へ落ちる。
すぐに相手チームの生徒が拾い、そのままゴールへ走っていった。
「珍し。」
来海が笑いながら近づいてくる。
「将太があれ落とす?」
「悪い。」
「今日、集中してないやん。」
「ちょっと手滑った。」
「手じゃなくて、よそ見してたやろ。」
来海が体育館の入口を見る。
「誰かおった?」
「いや。」
「女子?」
「違うって。」
「じゃあ先生?」
「誰もいなかった。」
将太の答えに、来海は少しだけ首をかしげた。
「何それ。」
「俺も分からん。」
「朝から変やな。」
「大丈夫。」
「ほんとか?」
「大丈夫だって。」
将太は笑ってボールを拾った。
「続けようぜ。」
「無理すんなよ。」
「してない。」
試合が再開する。
将太はなるべく入口を見ないようにした。
ボールだけを見る。
味方の動きだけを見る。
いつものように走る。
一本決める。
声を出す。
それでも、首筋に残った冷たさだけは消えなかった。
試合が終わり、みんなが体育館を出ていく。
将太は最後に一度だけ、入口を振り返った。
やはり、誰もいない。
だが。
扉の上にある小さな窓だけが、ほんの一瞬、外側から暗くなった。
誰かが前を横切った。
そう見えた。
将太は足を止めた。
「将太、行くぞ。」
来海が呼ぶ。
「……今行く。」
将太は答え、体育館を出た。
扉の向こうには、誰もいなかった。
◇
放課後。
将太は一人で塾へ向かっていた。
学校から駅までは、歩いて十五分ほどかかる。
商店街を抜け、大通りへ出る。
信号を二つ渡れば駅が見える。
いつもと同じ道だった。
制服姿の高校生が、自転車で横を通り過ぎる。
店先では、八百屋の店員が段ボールを片づけていた。
交差点では、犬を連れた女性が青信号を待っている。
将太は何度も後ろを振り返った。
誰もついてきていない。
それでも、視線だけが背中に残っている。
体育館で感じたものと同じだった。
気のせいだと思おうとするほど、はっきりする。
誰かがいる。
姿は見えない。
けれど、確かに見られている。
将太は歩く速度を上げた。
駅へ着き、改札を通る。
ホームには、学校帰りの生徒や仕事へ向かう人たちが並んでいた。
電光掲示板には、次の電車まで三分と表示されている。
将太はホームの中央付近に立ち、線路の向こうを見た。
昨日。
音が消えた場所。
白い駅が重なった場所。
今は何もない。
向かいのホームに立つ人々も、普通に動いている。
アナウンスも聞こえる。
電車が通過する音もする。
将太は小さく息を吐いた。
「何もない。」
自分へ言い聞かせるように呟く。
その時。
向かい側のホームに立つ人々の間から、誰かがこちらを見ていることに気づいた。
黒い服。
フードを深くかぶっている。
顔は見えない。
将太は目を細めた。
昨日の灰色の人影とは違う。
輪郭ははっきりしている。
普通の人間に見える。
だが、その人物だけが、人の流れから切り離されていた。
周囲の人はスマートフォンを見たり、電車の到着を待ったりしている。
その人物だけは、まっすぐ将太を見ていた。
電車がホームへ入ってくる。
車両が二人の間を遮った。
将太は窓越しに向こう側を見ようとした。
だが、車内の乗客が重なり、黒い服の人物は見えなくなる。
ドアが開く。
人が降りる。
将太は反対側の窓へ視線を向けた。
もう誰もいなかった。
黒い服の人物だけが、跡形もなく消えていた。
将太は乗り込まず、その場に立ち尽くした。
発車ベルが鳴る。
扉が閉まる。
電車が動き始める。
その窓に、自分の姿が映った。
そして、その背後。
誰もいないはずの位置に、一瞬だけ黒い輪郭が重なった。
将太は勢いよく振り返った。
やはり、誰もいなかった。
電車だけが、音を立てながら遠ざかっていった。
塾へ着いた頃には、夕焼けはゆっくりと群青色へ変わり始めていた。
入口では、いつものように生徒たちが参考書を片手に談笑している。
自動ドアが開く。
冷房の涼しい空気が頬をなでた。
「将太。」
聞き慣れた声に振り向く。
悠真だった。
肩からバッグを下げ、片手には英単語帳を持っている。
「お疲れ。」
「おう。」
「学校どうだった?」
「普通。」
将太はそう答えた。
普通ではなかった。
体育館で感じた視線も、駅で見た黒い人影も、頭の中から消えてはいない。
だが、自分でも説明できないことを話す気にはなれなかった。
悠真は将太の顔を見つめ、小さく笑う。
「……嘘。」
「え?」
「普通って顔じゃない。」
「そんな分かる?」
「分かるよ。」
将太は苦笑した。
「そんな顔してたか。」
「うん。」
「疲れてるだけ。」
「昨日も同じこと言ってた。」
図星だった。
将太は肩をすくめる。
「最近、ちょっと寝不足。」
「白い駅?」
その一言に、将太の足が止まった。
悠真はしまった、という顔をした。
「いや……。」
「ごめん。」
「何でもない。」
将太はじっと悠真を見る。
「今、何て言った?」
「え?」
「白い駅って。」
悠真は目を瞬かせる。
「俺、そんなこと言った?」
「言った。」
「いや……。」
悠真は困ったように首を振った。
「俺は『寝不足?』って聞いたつもりだった。」
将太は何も言えなかった。
聞き間違いだったのだろうか。
確かに。
確かに『白い駅』と聞こえた。
しかし悠真の表情を見る限り、嘘をついているようには見えない。
「……気のせいか。」
そう呟くしかなかった。
その時、始業を知らせるチャイムが鳴る。
二人は何事もなかったように教室へ向かった。
◇
授業は数学だった。
黒板いっぱいに書かれる二次関数。
先生の説明。
ノートを取る鉛筆の音。
将太は問題へ集中しようとした。
だが、どうしてもさっきの言葉が頭から離れない。
――白い駅。
悠真は本当に言ったのか。
聞き間違いだったのか。
考え始めると、数式が目に入らなくなる。
「綾小路。」
先生に名前を呼ばれ、はっと顔を上げた。
「この問題、次やってみろ。」
「はい。」
将太は立ち上がる。
黒板へ向かう途中、一瞬だけ悠真の席を見る。
悠真は問題集を見つめていた。
いつもどおりだ。
何も変わらない。
将太は黒板に式を書き始めた。
手は自然と動く。
答えも合っている。
それでも胸の奥では、小さな違和感が静かに膨らみ続けていた。
◇
授業が終わる。
夜風が昼間の熱を少しだけ和らげていた。
将太と悠真は駅まで並んで歩く。
他愛もない話をしながら、ゆっくり坂を下る。
「今日の最後の問題。」
悠真が笑う。
「将太、途中式飛ばしてただろ。」
「答え合ってたし。」
「試験なら減点される。」
「分かってる。」
「分かってない顔。」
二人は笑い合った。
その笑い声が途切れた時だった。
駅前の横断歩道。
赤信号で止まった人の列の向こう側に、一人の男が立っていた。
黒いパーカー。
深くかぶったフード。
俯いたまま、微動だにしない。
将太は息を止めた。
夕方の街灯が灯り始めている。
歩道には、人々の影が長く伸びていた。
会社員も。
高校生も。
犬を散歩させる女性も。
みんな影がある。
だが、その男だけには――影がなかった。
まるで、そこだけ光が存在しないかのように。
将太は目を離せなかった。
男はゆっくりと顔を上げる。
フードの奥は暗く、表情は見えない。
それでも。
視線だけは、はっきりと将太へ向けられていた。
信号が青に変わる。
人の流れが一斉に動き始めた。
その瞬間。
男の姿は、人波に紛れることなく消えていた。
「……今の。」
将太が思わず立ち止まる。
隣から、低い声が聞こえた。
「見るな。」
悠真だった。
だが、その声は悠真のものとは思えないほど冷たかった。
将太はゆっくり振り返る。
悠真自身も驚いたように目を見開いている。
「……え?」
小さく漏れた声は、いつもの悠真だった。
「俺……今、何か言った?」
将太は答えられない。
悠真の背後では、羽扇を持つ老人が静かに男のいた場所を見つめていた。
その眼差しだけが、今までになく鋭かった。
その夜。
将太が目を開けると、白いホームに立っていた。
どこまでも白い霧。
白い柱。
古びた木製のベンチ。
音のない駅。
何度訪れても、この場所だけは現実とは違う空気をまとっていた。
将太はゆっくりと息を吐く。
「今日は静かだな。」
返事はなかった。
ホームの先。
白い少年は線路の向こうを見つめたまま立っている。
いつもの場所。
いつもの姿。
だが、その背中にはわずかな緊張が漂っていた。
将太は隣まで歩いていく。
「どうした?」
少年は答えない。
白い霧だけが、ゆっくりと流れていく。
しばらくして。
少年が小さく呟いた。
「……来る。」
将太は眉をひそめる。
「誰が?」
返事はない。
霧の奥。
ホームの一番向こう側で、何かが動いた。
最初に聞こえたのは、足音だった。
コツ。
静かな音。
また一歩。
コツ。
誰かが歩いてくる。
姿は見えない。
霧の向こうに隠れたまま、それでも確実に近づいてくる。
将太は無意識に息を止めた。
その音だけが、白い駅に響いている。
コツ。
コツ。
一歩ずつ。
迷いなく。
こちらへ。
将太は目を凝らした。
霧が揺れる。
白い靴が見えた。
続いて、白いズボンの裾。
しかし、それより上は霧に溶けたように輪郭が定まらない。
顔も見えない。
男なのか女なのかも分からない。
それでも。
その存在だけが異様なほど鮮明だった。
将太は知らず知らず、一歩前へ出る。
もっと近くで見たい。
そう思った。
理由は分からない。
ただ、目を離してはいけない気がした。
その瞬間だった。
強い力で腕を引かれた。
「っ!」
振り返る。
白い少年だった。
今まで見たことがないほど険しい表情で、将太の腕を握っている。
「行っちゃ駄目だ。」
低い声だった。
命令ではない。
懇願でもない。
必死だった。
将太は少年の顔を見つめる。
こんな表情をすることがあるのか。
初めてそう思った。
霧の向こうの足音が止まる。
静寂。
白い駅から、時間そのものが消えたようだった。
やがて。
霧の奥から、小さく笑う気配がした。
「……やっと。」
その声は遠い。
なのに、耳元で囁かれたように鮮明だった。
「見つけた。」
将太の背中を冷たいものが走る。
その言葉は。
間違いなく、自分へ向けられていた。
霧の中の誰かが、一歩だけ前へ出る。
輪郭が、ほんの少しだけ濃くなる。
将太は息をのんだ。
見える。
あと少しで見える。
その時だった。
白い少年が将太を自分の後ろへ押しやった。
「まだだ。」
その声は震えていた。
霧の奥の存在は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく笑う。
「……まだか。」
どこか残念そうにも聞こえた。
そして。
コツ。
コツ。
足音が遠ざかっていく。
一歩。
また一歩。
白い霧の中へ溶けるように、その気配は消えていった。
長い沈黙が残る。
将太は何も言えなかった。
白い少年は、まだ将太の腕を離さない。
握る手が、かすかに震えていた。
将太は静かに尋ねる。
「……誰だったんだ。」
少年は答えない。
霧の奥を見つめたまま、ゆっくりと手を離した。
その表情には、疲労とも焦りとも違う感情が浮かんでいた。
そして、小さく呟く。
「……三人目まで。」
将太は聞き返す。
「三人目って何なんだ。」
少年は目を閉じる。
長い沈黙。
やがて、静かに首を横へ振った。
「まだ、知らなくていい。」
その言葉だけを残し、白い駅は再び静寂に包まれた。
遠くで。
姿の見えない列車のベルだけが、一度、小さく鳴った。




