第19話 止まった一秒
# 第十九話 止まった一秒
朝から、妙な感じがしていた。
何が変なのかは分からない。
空はいつもと同じ色をしていた。通学路を走る車の音も、コンビニから漂ってくる揚げ物の匂いも、前を歩く生徒たちの制服も、昨日までと何も変わっていない。
それなのに、将太は何度も後ろを振り返った。
誰かに見られている。
そんな気がする。
けれど、振り返った先にいるのは、眠そうな顔で歩く生徒や、自転車を押す高校生だけだった。
「将太!」
背後から名前を呼ばれ、肩が跳ねた。
来海が鞄を揺らしながら走ってくる。
「何びびってんの?」
「別に。」
「めっちゃびびってたやん。」
「急に呼ぶからだろ。」
来海は将太の隣へ並ぶと、息を整えながら校門を見上げた。
「今日、体育あるよな。」
「ある。」
「バスケ?」
「たぶん。」
「よし。昼もやろう。」
「どんだけ好きなんだよ。」
「将太に言われたくない。」
「俺は別に、そこまでじゃないし。」
「昨日も昼休みずっとやってたやん。」
「あれは、お前がやるって言ったから。」
「はいはい。」
二人は笑いながら校門をくぐった。
いつもの朝だった。
昇降口では、上履きを忘れた男子が友達に笑われている。廊下では、宿題を見せてくれと頼み込む声が飛び交っていた。
何もおかしくない。
だからこそ、胸の奥に残る違和感が気持ち悪かった。
将太は下駄箱の扉を閉めると、もう一度だけ背後を見た。
誰も、自分を見てはいなかった。
◇
一時間目は英語だった。
将太は数学ほど英語が得意ではない。
苦手というほどではないが、単語を一つ知らなければ、そこで文章が途切れてしまう。答えが一つにつながっていく数学とは違い、どこか手応えが曖昧だった。
先生が小テストの用紙を配っていく。
教室の空気が少しだけ静かになる。
「昨日やった?」
前の席の男子が、先生に聞こえない声で振り返った。
「少し。」
「その少しで俺より取るの、腹立つ。」
「数学ならな。」
「英語もそこそこ取るやろ。」
「そこそこ。」
「その言い方が一番むかつく。」
前の男子が顔をしかめる。
将太が笑いかけたところで、先生が教卓へ戻った。
「では、始めてください。」
一斉に紙をめくる音が重なった。
教室のあちこちで鉛筆が走り始める。
将太も問題へ目を落とした。
一問目。
空欄に入る単語を書く。
二問目。
動詞の形を変える。
三問目。
見覚えのない単語があった。
将太は一度だけ眉を寄せ、その問題を飛ばした。
止まって考えるより、先に進んだ方がいい。
いつものやり方だった。
次の問題を読もうとした、その時だった。
前の席の机から、消しゴムが転がり落ちた。
白い消しゴムが、机の端をゆっくり滑っていく。
将太は何気なく目で追った。
机から離れる。
床へ落ちる。
その途中で。
止まった。
床まで、あと数センチ。
消しゴムは宙に浮いたまま、動かなかった。
「……え?」
声が漏れた。
将太は瞬きを忘れた。
教室では、誰かの鉛筆が紙をこすっている。
先生が列の間を歩いている。
窓の外では、雨上がりの枝が風に揺れている。
全部、動いている。
そう見えた。
けれど、その動きは妙に遅かった。
先生の足が床から離れ、次の一歩を踏み出すまでが長い。
窓の外で揺れる葉も、途中で迷っているように見えた。
鉛筆の先が紙の上を進む音だけが、どこか遠くから聞こえてくる。
将太は息を吸った。
自分の胸が膨らむ。
呼吸はできる。
指も動く。
試しに右手を持ち上げると、普通に動いた。
時間が止まったわけではない。
世界全体が、薄い水の中に沈んだように遅くなっている。
将太だけを残して。
何秒たったのか分からなかった。
十秒にも感じた。
一分にも感じた。
やがて。
コトン。
消しゴムが床へ落ちた。
同時に、教室の時間が元へ戻る。
鉛筆の音。
先生の足音。
誰かが鼻をすする音。
全部が一度に押し寄せてきた。
前の男子は何事もなかったように消しゴムを拾った。
「落ちすぎやろ、これ。」
小さく呟き、また問題へ向かう。
誰も顔を上げない。
誰も気づいていない。
将太は問題用紙へ目を戻した。
英文が頭に入ってこなかった。
さっきまで読めていた単語が、ただの記号に見える。
本当に止まったのか。
それとも、自分がそう感じただけなのか。
分からない。
時計を見る。
秒針は普通に進んでいる。
一秒。
また一秒。
何事もなかったように、同じ速さで。
将太は鉛筆を握り直した。
けれど、その後の問題はほとんど覚えていなかった。
◇
昼休み。
来海は約束どおり、ボールを抱えて将太の席まで来た。
「行こうぜ。」
「今日はいい。」
「は?」
「ちょっとだるい。」
来海が疑うように顔をのぞき込む。
「お前がバスケ断るとか、珍し。」
「そんな珍しくないだろ。」
「熱ある?」
額へ手を伸ばしてくる。
将太はすぐに払いのけた。
「ない。」
「じゃあ何?」
「別に。」
「朝から変やぞ。」
来海はしばらく将太の顔を見ていたが、やがて諦めたようにボールを抱え直した。
「無理すんなよ。」
「分かってる。」
「あとで気が変わったら来いよ。」
「うん。」
来海が教室を出ていく。
将太は机に肘をつき、窓の外を眺めた。
グラウンドでは、来海たちがすぐに試合を始めていた。ボールを追う足音や、大声で名前を呼ぶ声が、窓越しに聞こえてくる。
その光景を見ているうちに、朝の出来事が急に馬鹿らしく思えてきた。
寝不足だったのかもしれない。
白い駅を見るようになってから、眠りが浅くなっている。
夢と現実の境目が曖昧になり、目の錯覚を起こした。
それなら説明できる。
将太はそう考えようとした。
けれど、消しゴムが宙に浮いていた光景だけが、何度も頭の中に戻ってきた。
見間違いにしては、長すぎた。
◇
放課後。
塾へ向かう電車は、いつもより混んでいた。
将太はドアの近くに立ち、吊り革につかまっていた。
電車がトンネルへ入る。
窓の外が黒くなり、車内の景色が鏡のように映り込んだ。
スマートフォンを見る会社員。
参考書を読む高校生。
座席で眠る老人。
その中に、自分の姿もある。
将太は窓に映る自分をじっと見た。
背後には誰もいない。
何度見ても、そこだけが不自然に空いている。
「何見てるの?」
声に振り返る。
悠真が立っていた。
「いつからいた?」
「今の駅で乗った。」
「全然気づかなかった。」
「ぼーっとしてたから。」
悠真は将太の隣へ立ち、同じ吊り革につかまった。
窓には二人の姿が並ぶ。
悠真の背後には、いつもの老人がいた。
羽扇を持ち、目を閉じている。
けれど今日は、将太が視線を向けると、老人もゆっくり目を開いた。
その視線が、将太へ向く。
「今日、元気ないな。」
悠真の声で、将太は我に返った。
「そう見える?」
「少し。」
「普通だけど。」
「普通の人は、窓をそんなに見ない。」
「自分の顔見てただけ。」
「将太が?」
「何だよ。」
「いや。珍しいと思って。」
悠真が笑う。
将太もつられて笑ったが、すぐに表情を戻した。
話すかどうか迷った。
白い駅のことは、まだ誰にも話していない。
見える影についても、悠真は知らない。
話せば、自分がおかしいと思われるかもしれない。
それでも、さっきから胸の中に抱えたままの違和感を、誰かに確かめたかった。
「なあ。」
「うん。」
「一秒だけ、めちゃくちゃ長く感じることってある?」
悠真の顔から、笑みが消えた。
「どういうこと?」
「今日、消しゴムが落ちたんだよ。」
「消しゴム?」
「机から落ちて、床につく前に止まった。」
「止まった?」
「そう見えた。」
将太は言葉を選びながら続けた。
「周りは動いてた。でも、すごく遅かった。俺だけ普通に動けた気がする。」
悠真は黙った。
電車が揺れる。
吊り革が一斉に同じ方向へ傾いた。
「本当に止まったの?」
「分からない。」
「何秒くらい?」
「一秒だと思う。」
「一秒?」
「でも、もっと長かった。」
矛盾した説明だった。
自分でもそう思う。
それなのに、悠真は笑わなかった。
窓に映る羽扇の老人も、将太から目をそらさない。
「疲れてるんじゃない?」
しばらくして、悠真が言った。
声はいつもどおりだった。
「模試も続いてたし、寝不足とか。」
「やっぱりそうかな。」
「今日は早く寝た方がいいよ。」
「そうする。」
将太は小さく笑った。
悠真も笑う。
だが、窓に映る悠真の手は、吊り革を強く握りしめていた。
指の関節が白くなるほど。
将太はそれに気づいたが、何も聞かなかった。
◇
塾では、いつもどおり授業が行われた。
先生が黒板に式を書く。
生徒たちがノートを取る。
問題を解き、答え合わせをする。
将太は何度も教室の時計を見た。
秒針が動くたびに、また止まるのではないかと思った。
だが、何も起こらなかった。
一秒は一秒のまま過ぎていく。
授業が終わる頃には、朝の出来事も少し遠くなっていた。
やっぱり疲れていただけだ。
将太はそう自分に言い聞かせ、鞄を肩にかけた。
教室を出る。
廊下の向こうから、心陽が歩いてきた。
昨日と同じように、参考書を胸に抱えている。
「こんばんは。」
心陽が足を止める。
「こんばんは。」
将太も答えた。
「飲み物、ありがとう。お金返す。」
鞄から小銭を出そうとすると、心陽は首を横に振った。
「今度でいいよ。」
「今あるから。」
「じゃあ、次に会った時。」
「何で?」
「また会う理由になるでしょう?」
心陽はそう言って、少しだけ笑った。
将太は返事に困った。
「勉強、今日はどうだった?」
「普通。」
「普通ならよかった。」
それだけ言うと、心陽は歩き出した。
数歩進んだところで、ふと立ち止まる。
振り返らないまま、静かに言った。
「今日は、早く帰った方がいいかも。」
「え?」
心陽は答えなかった。
そのまま廊下の角を曲がり、姿を消す。
将太はしばらくその場に立っていた。
なぜそんなことを言われたのか分からない。
顔色が悪く見えたのかもしれない。
悠真と同じように、疲れていると思ったのだろう。
そう考えれば自然だった。
なのに、心陽の声だけが、妙に耳に残った。
◇
塾が終わった頃には、外はすっかり暗くなっていた。
駅のホームには、帰宅を急ぐ人々が並んでいた。
会社員。
高校生。
買い物袋を下げた女性。
母親の手を握る小さな子ども。
将太は列の最後尾に立ち、電光掲示板を見上げた。
あと二分。
いつもならスマートフォンを見るところだったが、今日はその気になれなかった。
朝の消しゴム。
電車での悠真の反応。
心陽の言葉。
全部が、どこかでつながっている気がする。
接近メロディーが流れ始めた。
『まもなく、一番線に――』
アナウンスが途中で途切れた。
音が消えた。
将太は顔を上げた。
ホームにいる人々は動いている。
会社員はスマートフォンを操作している。
高校生たちは口を開けて笑っている。
子どもは母親の腕を引っ張っている。
全員、普通に動いている。
なのに、何も聞こえない。
話し声も。
足音も。
衣服がこすれる音も。
遠くから近づいてくるはずの電車の音も。
完全な無音だった。
将太は息を吸う。
自分の呼吸さえ聞こえない。
胸へ手を当てる。
心臓は激しく動いている。
けれど、その音もない。
「……おい。」
声を出した。
喉は震えた。
口も動いた。
だが、自分の声は聞こえなかった。
誰も振り向かない。
世界から、音だけが抜け落ちている。
将太は一歩後ろへ下がった。
その時。
ホームの向こう側が白く霞んだ。
本来なら、線路を挟んで反対側のホームが見えるはずだった。
だが、その場所へ別の景色が重なっていく。
白い柱。
古い木製のベンチ。
線路を覆うように漂う霧。
何度も夢で見た、あの場所。
「白い駅……。」
声は聞こえない。
それでも、唇は確かにその言葉を形作った。
向こうのホームに、一人の人影が立っている。
白い少年ではなかった。
背丈は将太より少し高い。
白でも黒でもない、灰色の輪郭。
顔は見えない。
胸元にも、英雄の名前は浮かんでいなかった。
人影はまっすぐ将太を見ていた。
こちらに気づいている。
将太には、それが分かった。
一歩、前へ出る。
人影も同時に一歩近づく。
線路を挟んでいるはずなのに、距離が縮まったように見えた。
将太はもう一歩、足を出しかけた。
その瞬間。
音が戻った。
『危ないですから、白線の内側までお下がりください。』
耳を突き刺すようなアナウンス。
レールをこする金属音。
風を押しのける轟音。
電車がホームへ滑り込んでくる。
将太は反射的に後ろへ下がった。
目の前を車両が通り過ぎる。
白いホームは消えていた。
灰色の人影もいない。
周囲の人々は何事もなかったように乗車口へ集まっていく。
誰も立ち止まっていない。
誰も向こう側を見ていない。
将太は胸を押さえた。
息が速い。
足に力が入らない。
今のは夢ではない。
眠ってもいなかった。
白い少年に呼ばれたわけでもない。
自分から、白い駅を見た。
いや。
白い駅の方から、現実へ近づいてきた。
ドアが開く。
人々が電車へ乗り込んでいく。
将太も押されるように車内へ入った。
閉まりかけた扉の窓に、自分の顔が映る。
青ざめていた。
その背後には、誰もいない。
いつもの空席だけが映っている。
将太は小さく息を吐いた。
やがて扉が閉まる。
電車が動き始める。
その時。
窓の端に、白いホームが映った。
そこに立つ灰色の人影が、静かにこちらを見ていた。
電車が速度を上げる。
ホームも、人影も、すぐに闇の中へ消えていく。
それでも。
最後まで動かなかったその視線だけが、将太の胸の奥に残り続けた。




