第18話 心陽
# 第十八話 心陽
塾の廊下は、授業前とは思えないほど賑やかだった。
友達と問題の答えを言い合う声。
階段を駆け上がる足音。
参考書を抱えた生徒が、教室へ急ぐ。
その光景は毎日のように繰り返されているはずなのに、受験が近づくにつれて、空気だけは少しずつ張り詰めていた。
誰もが同じ方向を向いて歩いている。
けれど、その速さは人それぞれだった。
「将太。」
後ろから声が飛んできた。
振り返ると、悠真が小走りで追いついてくる。
「おはよう。」
「おう。」
二人は自然と並んで歩き出した。
少しの沈黙のあと、悠真が照れくさそうに笑う。
「昨日さ。」
「ん?」
「最後まで付き合ってくれて、ありがとな。」
将太は肩をすくめた。
「何だよ、急に。」
「いや……ちゃんと言っとこうと思って。」
「別に礼なんかいらねぇよ。」
将太は照れ隠しに笑う。
「俺も勉強になったし。」
それは本音だった。
悠真と問題について考えていると、自分一人では気づかなかった考え方に出会えることがある。
勝ち負けだけじゃない。
一緒に勉強する意味が、少しずつ分かり始めていた。
悠真も笑う。
「でも、次は負けない。」
「俺も。」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
その時だった。
廊下の向こうから、一人の女子生徒が歩いてきた。
胸に抱えた参考書は、片手では持ちきれないほど厚い。
歩く速さは決して遅くない。
なのに、不思議と急いでいるようには見えなかった。
周囲の喧騒だけが遠ざかり、その人の周りだけ時間の流れが少し違って見える。
「あ……。」
悠真が小さく声を漏らした。
「心陽。」
少女は顔を上げる。
肩まで伸びた髪が、歩みに合わせて静かに揺れた。
「おはよう。」
穏やかな声だった。
柔らかいのに、不思議とよく通る。
悠真へ微笑むと、その視線が将太へ向く。
一瞬だけ目が合った。
「こんにちは。」
軽く頭を下げる。
将太も慌てて会釈した。
「あ……こんにちは。」
それだけだった。
少女はまた前を向き、何事もなかったように歩いていく。
振り返る生徒はいない。
けれど、将太だけは無意識にその背中を目で追っていた。
「同じクラス?」
「いや。」
悠真が首を横に振る。
「一つ上。」
「先輩か。」
「うん。」
「成績いいの?」
「かなり。」
「へぇ。」
将太はもう一度、遠ざかる背中を見る。
参考書は重そうなのに、その歩き方には無駄な力が入っていなかった。
抱えているというより、大事に運んでいる。
そんな印象だった。
「どんな人なん?」
悠真は少し考える。
「説明するの、難しいんだよな。」
「そんな変わってる?」
「変わってる……というか。」
一度言葉を切る。
「不思議な人。」
それだけ言うと、悠真は苦笑した。
将太も笑った。
「何それ。」
「俺も最初はそう思った。」
「でも?」
「話してみると分かる。」
「何が?」
「……たぶん、お前も。」
そこでチャイムが鳴った。
生徒たちが一斉に教室へ向かう。
将太は最後にもう一度だけ廊下の奥を見た。
心陽の姿は、もう見えなくなっていた。
授業が終わると、教室は一気に活気づいた。
椅子を引く音。
問題の答えを確かめ合う声。
次の授業へ向かう生徒たちが、廊下へと流れ出していく。
将太も大きく伸びをすると、肩にかけたバッグを持ち上げた。
「ちょっと飲み物買ってくる。」
悠真にそう告げると、教室を出る。
廊下の突き当たりにある自動販売機の前には、数人の生徒が並んでいた。
炭酸にするか、お茶にするか。
そんなことを考えながらバッグに手を入れる。
「……あれ。」
もう一度探す。
筆箱の横。
参考書の下。
小さなポケット。
ない。
「財布……。」
思わず苦笑いが漏れた。
机の中に置いたままだ。
「やっちゃったな。」
仕方なく教室へ戻ろうと振り返る。
「これ。」
静かな声がした。
目の前に、一本のペットボトルが差し出される。
将太は驚いて顔を上げた。
「あ……。」
そこに立っていたのは、心陽だった。
先ほど廊下ですれ違った少女が、穏やかな表情のままペットボトルを差し出している。
「え、でも……。」
「今日は暑いから。」
その言い方は、ごく自然だった。
押しつけるでもなく、遠慮するでもない。
まるで、「困っている人に傘を貸す」くらい当たり前のことのように。
「いや、お金……。」
「あとで返してくれたらいいよ。」
将太は少しためらったあと、両手で受け取った。
「ありがとう。」
キャップの冷たさが手に伝わる。
「でも、何で?」
「ん?」
「俺、飲み物買おうとしてたって分かったの?」
心陽は少しだけ首をかしげた。
「自販機の前でバッグを何回も探してたから。」
そう言って、小さく笑う。
「違った?」
「あ……。」
将太も思わず笑ってしまった。
「そっか。」
「財布忘れたとか、そういうことかなって。」
「正解。」
将太は頭をかいた。
「教室に置きっぱなしだった。」
「よかった。」
「よかった?」
「落としたんじゃなくて。」
その一言に、将太は少し驚いた。
普通なら、
『忘れ物?』
『ドジだね。』
そんな言葉が返ってきそうな場面だった。
でも心陽は、最初に心配したのが財布そのものではなく、自分が困っていないかどうかだった。
「ありがとう。」
今度はさっきより素直に言えた。
心陽は小さく微笑む。
「勉強、大変?」
不意の質問だった。
「え?」
「将太君。」
自分の名前を呼ばれ、将太は一瞬だけ目を丸くする。
「あ……ごめん。」
心陽は少しだけ照れたように笑う。
「悠真君が、この前話してたから。」
「ああ、そういうことか。」
理由としては自然だった。
それでも、どこか胸の奥に、小さな引っかかりが残る。
初めて話す相手なのに、どこか以前から知っているような距離の近さを感じる。
気のせいだろうか。
「さっきの質問だけど。」
心陽が続けた。
「勉強、大変?」
将太は苦笑した。
「まあ、毎日問題ばっかりだからね。」
「そうだよね。」
「心陽先輩は?」
心陽は腕に抱えた参考書へ視線を落とした。
「私はね。」
少し考えるように間を置く。
「分からなかったことが、分かるようになる瞬間が好き。」
その言葉に、将太は思わず聞き返した。
「好き?」
「うん。」
「点数より?」
「点数も大事。」
心陽は穏やかに頷く。
「でも、一つ分かると、昨日まで見えなかった景色が見えることがあるでしょう?」
将太は返事ができなかった。
そんなふうに勉強を考えたことは、一度もなかったからだ。
「じゃあ。」
心陽は軽く頭を下げる。
「また。」
そう言って歩き出す。
参考書を抱えた背中は、小柄なのに不思議と大きく見えた。
将太はペットボトルを握ったまま、その後ろ姿を見送る。
――また。
たった二文字なのに、なぜかその言葉だけが胸に残った。
心陽が角を曲がって見えなくなっても、将太はしばらくその場を動けなかった。
ありがとうございます。
この後編では、第18話を静かに締めながら、第30話以降にもつながる伏線を置きます。
ポイントは、**白い少年はすべてを説明しないこと**です。そして、心陽の存在が「ただの先輩ではない」と読者には感じさせつつも、正体はまだ分からないまま終える構成にしています。
夜。
気づけば将太は、白いホームに立っていた。
風はない。
音もない。
どこまでも白く続く駅だけが、静かにそこにあった。
天井のない空間には、昼でも夜でもない淡い光が満ちている。
時間という概念だけが、この場所から切り離されているようだった。
ホームの先には、いつものように白い少年が立っている。
線路の向こうを見つめたまま、振り返ることはない。
将太はゆっくりと隣へ並んだ。
「今日さ。」
少年は何も言わない。
「心陽って人に会った。」
少し間を置いて、少年が目を閉じる。
「……そう。」
それだけだった。
将太は少年の横顔を見る。
いつもと変わらない。
それなのに、ほんのわずかに空気が変わった気がした。
「知ってるんだろ。」
返事はない。
「何なんだ、あの人。」
静寂だけが流れる。
遠くで、レールがきしむような音がした。
少年はようやく口を開く。
「将太。」
「何。」
「君は、あの人をどう思った?」
突然の問いだった。
将太は腕を組み、少し考える。
「変わった人。」
それが最初に浮かんだ言葉だった。
「静かだし。」
「勉強も好きそうだった。」
「……あと。」
言葉が止まる。
自分でも理由が分からない。
ただ、心の奥に引っかかっている感覚だけがあった。
「初めて会った気がしなかった。」
その瞬間だった。
白い少年の肩が、ほんのわずかに揺れた。
驚いた。
そう思ったのは初めてだった。
感情を見せることのなかった少年が、一歩だけ後ろへ下がる。
「……そうか。」
その声は、いつもより少しだけ小さかった。
将太は眉をひそめる。
「何だよ。」
「何か知ってるのか。」
少年は答えない。
代わりに、線路の先へ視線を向けた。
カラン――。
静かなベルの音が、ホームに響く。
白い列車が、音もなく滑り込んできた。
窓には誰の姿もない。
いや――。
一番後ろの車両。
窓際に、一つだけ人影が立っていた。
白く霞んで顔は見えない。
それでも、その人物はこちらを見ていた。
列車が止まることはない。
ゆっくりと通り過ぎながら、その人影は小さく頷いた。
まるで、誰かに合図を送るように。
将太は思わず身を乗り出した。
「あれ、誰――」
問いは最後まで言えなかった。
列車は白い霧の中へ消え、人影もまた、跡形もなく消えてしまう。
静寂が戻る。
少年は列車が消えた先を見つめたまま、小さく呟いた。
「……早い。」
「何が?」
将太が尋ねる。
少年は目を閉じる。
「本当なら。」
短く息をついた。
「まだ、出会うはずじゃなかった。」
将太は意味が分からず、少年を見る。
「どういうこと?」
返事はなかった。
ホームには、再び静寂だけが降りる。
聞こえるのは、自分の鼓動だけ。
その音さえ、この白い世界に吸い込まれていくようだった。
将太はもう一度、列車が消えた闇を見つめる。
胸の奥に残るのは、不安ではない。
懐かしさにも似た、不思議な感覚だった。
――心陽。
その名前が、静かに心の中へ溶け込んでいく。
まだ将太は知らない。
この日の出会いが、自分の運命を大きく動かす最初の一歩だったことを。




