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憑いてる。  作者: 受験孔明
目覚め
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第17話 努力する者

# 第十七話 努力する者


「戦友だ」


 黒い羽織の青年の声が、白いホームへ静かに落ちた。


 将太は青年と灰色の老人を見比べた。


 戦友。


 その言葉から思い浮かぶのは、同じ戦場で肩を並べた者だった。


 だが、二人はあまりにも違って見える。


 青年は黒い羽織をまとい、背筋を真っ直ぐ伸ばしている。鋭い目と、感情を隠すような薄い表情。


 一方、灰色の老人は穏やかだった。


 長い旅を終え、ようやく目的地へたどり着いたような、静かな笑みを浮かべている。


「いつの戦友?」


 将太が尋ねる。


 青年は答えない。


 老人が小さく笑った。


「お前は、昔から言葉が足りぬな」


「余計な言葉が多いよりよい」


「それで誤解されたことも、一度や二度ではあるまい」


「誤解する者にまで配慮する暇はなかった」


「今も変わらぬか」


「お前ほどではない」


 二人の言葉は素っ気ない。


 それでも、初めて会った者同士の会話ではなかった。


 将太には分からない時間が、二人の間に流れている。


 白い少年は、まだ将太の袖をつかんでいた。


 強く引いているわけではない。


 ただ、老人へ近づかないようにしている。


「この人、危ないの?」


 将太が小声で聞く。


 少年は答えなかった。


 老人の目が将太へ向く。


 穏やかな目だった。


 黒い列車から降りてきた男とも違う。白い駅で会った、年齢の分からない男とも違う。


 将太を値踏みしているようには見えない。


 むしろ、ずっと前から知っているような目だった。


「綾小路将太」


 老人が名前を呼んだ。


「何で俺の名前を?」


「聞いていた」


「誰から?」


 老人の視線が、黒い羽織の青年へ移る。


 青年は黙っている。


「こいつが俺の話をしたんですか?」


「話してはいない」


「じゃあ、どうやって」


「将太」


 白い少年が初めて口を挟んだ。


 それ以上、聞いてはいけない。


 声には、そんな響きがあった。


 老人は少年を見る。


「まだ隠すのか」


「まだ、知らなくていい」


「知る時は選べぬ」


「選べるよ」


 少年の声が、わずかに強くなる。


「今度は」


 その二文字で、空気が変わった。


 老人の笑みが消える。


 黒い羽織の青年も、少年へ視線を向けた。


 将太だけが意味を理解できない。


「今度って何?」


 誰も答えなかった。


 白い駅の照明が、一度だけ明滅する。


 遠くでベルが鳴った。


 カラン――。


 老人が線路の先へ目を向ける。


「時間か」


「どこへ行くんですか」


「まだ、ここにはいられぬ」


「また会えますか」


 将太が尋ねると、老人は少しだけ考えた。


「お前が進めば」


「どこに?」


「それを決めるのは、お前だ」


 また同じだった。


 誰も答えを教えない。


 将太が顔をしかめると、老人は楽しそうに目を細めた。


「その顔も、よく似ている」


「誰に?」


 老人は答えない。


 代わりに、黒い羽織の青年へ顔を向ける。


「九日では短いぞ」


 将太の胸が跳ねた。


「九日のこと、知ってるんですか」


 老人は将太を見た。


「短いが、足りぬとは限らぬ」


「何が九日後に起きるんですか」


「起きるのではない」


 老人の声から、笑みが消えた。


「起こすのだ」


 ホームの照明が再び明滅する。


 霧が老人の足元から湧き上がった。


「待って!」


 将太が一歩踏み出す。


 白い少年が袖を握る力を強めた。


 灰色の外套が霧へ溶けていく。


 最後まで見えていた老人の目は、黒い羽織の青年へ向けられていた。


「今度こそ、間違えるな」


 青年の眉が、わずかに動いた。


 次の瞬間、老人の姿は消えていた。


 白いホームに静寂が戻る。


「今の、どういう意味?」


 将太は青年を見る。


 答えはない。


「間違えるなって、前にも何かあったの?」


 青年は老人が消えた場所を見つめていた。


 長い沈黙のあと、低い声で言った。


「起きろ」


「は?」


「時間だ」


 視界が白く弾けた。


     ◇


 将太は机に突っ伏したまま目を覚ました。


 開いた英語の問題集。


 握ったままのシャープペンシル。


 窓の外は、まだ暗い。


 机の時計は午前一時四十七分を示していた。


「……夢じゃないよな」


 胸ポケットへ手を入れる。


 白い紙はない。


 引き出しを開ける。


 紙は一番上に置かれていた。


 ――あと九日。


 ――一人目。


 文字は変わっていない。


 老人が言った言葉だけが、耳の奥に残っている。


 起きるのではない。


 起こすのだ。


「何をだよ……」


 返事はなかった。


 黒い羽織の青年も、部屋にはいない。


 将太は英語の問題集を閉じ、ベッドへ入った。


 だが、なかなか眠れなかった。


     ◇


 数日後。


 選抜模試の成績表が返却された。


 塾の教室には、歓声とため息が入り混じっていた。


「上がった!」


「あと二点でクラス変わったのに」


「英語、平均低くない?」


「数学の最後、正答率三パーセントだって」


 将太は自分の結果表を机へ広げた。


 数学は九十六点。


 一問、計算の途中で符号を間違えていた。


 国語は前回より上がった。


 英語も、六十一点からは大きく伸びている。


 それでも、目標にしていた順位には届かなかった。


 悪くはない。


 以前なら、そう思って終わっていた。


 今は違う。


 国語の選択問題。


 英語の長文。


 数学の計算ミス。


 失った点数が目に入る。


 何が足りなかったのか。


 どこで崩れたのか。


 結果より先に、敗因を探していた。


「顔、怖いぞ」


 声に顔を上げる。


 森岡悠真が立っていた。


「そんな顔してた?」


「答案を敵みたいに見てた」


「敵ではあるかも」


「誰かに影響された?」


「ちょっと面倒くさい人に」


 悠真が小さく笑った。


「順位、どうだった?」


「前より上。目標には届いてない」


「英語は?」


「七十四」


「上がってるじゃん」


「まあね」


 少し嬉しかった。


 それを隠す必要もないと思った。


「悠真は?」


 悠真は自分の成績表を将太へ差し出した。


 将太は数字を見て目を見開く。


「すご」


 前回より、順位が大きく上がっている。


 どの教科も高い。


 特に英語と国語は安定していた。


 数学も九十点を超えている。


「全国でもかなり上じゃん」


「うん」


「もっと喜べよ」


「嬉しいよ」


 そう言いながら、悠真は笑っていなかった。


 視線は成績表ではなく、返却された数学の答案へ向いている。


 最後の大問。


 赤い線が引かれている。


「またそこ?」


 将太が聞く。


「またって?」


「前も最後の一問をずっと見てただろ」


「今回は前と違う」


「何が?」


「解けたはずなんだ」


 答案の余白には、途中まで正しい式が並んでいる。


 最後の変形。


 そこで方針を変え、間違った式へ進んでいた。


「途中まで合ってる」


「だから悔しい」


「順位上がったんだろ」


「順位と、この一問は別だよ」


 悠真は答案を閉じない。


 赤いバツをじっと見ている。


「解説見たら?」


「まだ見ない」


「何で?」


「自分がどこで間違えたか、自分で見つけたい」


「でも、答え見た方が早くない?」


「早いよ」


「じゃあ」


「早く答えを知ることと、次に解けることは違う」


 将太は言葉を失った。


 悠真は答案へ視線を戻す。


 悔しさを引きずっているだけではない。


 次に同じ場所へ来た時、必ず進めるようにしようとしている。


 その背後。


 白い衣の男が立っていた。


 羽扇を胸元へ寄せ、悠真の答案を見つめている。


 表情は穏やかだった。


 褒めてもいない。


 急かしてもいない。


 ただ、悠真が自分で答えへたどり着くのを待っている。


 将太が見ていることに気づいたのか、白い衣の男が顔を上げた。


 目が合う。


 今日はすぐに視線を逸らさなかった。


 男の唇が動く。


 声は聞こえない。


 それでも、短い言葉だけが将太の中へ届いた。


 ――見よ。


 将太はもう一度、悠真を見た。


 答案。


 消した跡。


 書き直した式。


 何度も同じ場所へ戻った赤いペンの跡。


 結果表には表れない時間が、そこに残っていた。


     ◇


 授業が終わった。


 生徒たちが次々と教室を出ていく。


「帰ろうぜ」


 将太が鞄を持つ。


「先に帰っていいよ」


 悠真は席を立たなかった。


「まだやるの?」


「もう少し」


「解説見ずに?」


「うん」


「今日中に解けなかったら?」


「明日もやる」


「明日も無理だったら?」


「明後日」


 あまりにも普通の顔で言うので、将太は笑ってしまった。


「何?」


「いや。しつこいなと思って」


「褒めてる?」


「一応」


「なら、もう少し言い方あるだろ」


 悠真も少し笑った。


 将太は教室を出る。


 廊下へ出てから、足を止めた。


 帰ってもよかった。


 電車の時間もある。


 けれど、何となくそのまま帰る気にならなかった。


 自動販売機で飲み物を二本買い、教室へ戻る。


「何してるの?」


 悠真が顔を上げる。


「待つ」


「先に帰っていいって」


「俺も英語やるから」


「ここで?」


「家だとスマホ見るかもしれんし」


「自覚あるんだ」


「あるから対策してる」


 将太は一つ離れた席へ座り、英語の問題集を開いた。


 悠真は少し驚いた顔をしたあと、答案へ戻った。


 静かな教室。


 シャープペンシルが紙を擦る音だけが続く。


 将太は長文を読む。


 一行目。


 二行目。


 知らない単語に印をつける。


 意味を推測する。


 すぐに集中が切れそうになる。


 顔を上げる。


 悠真はまだ同じ問題を考えている。


 式を書き。


 消し。


 図を描き直す。


 手が止まっても、問題から目を逸らさない。


 将太は英語へ視線を戻した。


 もう一段落だけ読む。


 次の段落も。


 気づけば、長文の最後まで進んでいた。


「……解けた」


 悠真の声がした。


 時計を見る。


 授業が終わってから、四十分近く経っていた。


 悠真は答案の横に、新しい式を書いている。


 解答冊子を開く。


 見比べる。


 口元が、わずかに緩んだ。


「合ってた?」


「うん」


「よかったじゃん」


「時間かかった」


「四十分」


「数えてたの?」


「時計見た」


 将太は飲み物を悠真の机へ置いた。


「でも、自分で解けたんだろ」


「うん」


「なら四十分分、強くなったってことじゃん」


 悠真はペットボトルを見てから、将太を見る。


「たまにいいこと言うな」


「たまにって何だよ」


「ありがとう」


 二人は教室を出た。


     ◇


 外はもう暗くなり始めていた。


 駅へ続く道を、将太と悠真は並んで歩く。


「将太は何してた?」


「英語」


「珍しい」


「みんなそれ言うな」


「最後までできた?」


「一応」


「理解した?」


「七割くらい」


「なら、明日もう一回読んだ方がいい」


「今、達成感に浸らせてくれない?」


「そこで終わったら忘れるだろ」


「厳しいな」


「将太にだけは言われたくない」


 二人で笑う。


 悠真の背後には、白い衣の男が歩いていた。


 夕方より、少しだけ輪郭が濃くなっているように見える。


 男は悠真へ視線を向けたまま、羽扇を静かに閉じた。


 胸元は、まだ黒く閉ざされている。


 文字は見えない。


 それでも将太は、以前より男のことが分かる気がした。


 悠真が問題へ向き合う間、答えを教えなかった。


 諦めさせもしなかった。


 ただ、待っていた。


 将太はふと、自分の横を見る。


 黒い羽織の青年はいない。


 いつもなら、少し離れた場所からついてくる。


 だが今日は姿が見えなかった。


「どうした?」


 悠真が聞く。


「いや、何でもない」


 将太は前を向く。


 待ってくれる者。


 突き放す者。


 導く者。


 試す者。


 憑いている存在にも、それぞれ違いがある。


 それは、その前を歩く人間が違うからなのかもしれない。


     ◇


 その夜。


 将太は白い駅のベンチに座っていた。


 隣には白い少年がいる。


 灰色の老人も、黒い羽織の青年も見当たらない。


「今日、少し分かった」


 将太が言う。


「何が?」


「どうして悠真の後ろに、あの人がいるのか」


 少年は将太を見る。


「頭がいいからじゃない」


「うん」


「努力するから?」


 少年はすぐには頷かなかった。


「努力する人は、たくさんいるよ」


「じゃあ、何が違う?」


「理由」


「努力する理由?」


 少年は線路の先へ目を向けた。


「続ける理由」


 将太は悠真の横顔を思い出す。


 順位が上がっても、一問の間違いを見ていた。


 早く答えを知ることより、次に解けることを選んだ。


 四十分かかっても、手を止めなかった。


「負けたくないから?」


「誰に?」


 少年に聞き返され、将太は黙った。


 ほかの受験生。


 順位表の上にいる誰か。


 落ちた学校。


 以前の自分。


 どれも当てはまる気がする。


 だが、どれか一つではない気もした。


「分からない」


「それでいいよ」


「また?」


「分かったつもりになるよりいい」


 少年が少し笑う。


 白い霧の中でベルが鳴った。


 カラン――。


 遠くから白い列車の光が近づいてくる。


「俺も見られてるの?」


 将太が尋ねる。


「誰に?」


「みんなに」


 少年は答えなかった。


 将太は続ける。


「悠真と比べられてる?」


 白い列車がホームへ入ってくる。


 窓の向こうには、多くの人影が立っている。


 顔は見えない。


 それでも、全員の視線が将太へ向いているように感じた。


 列車が止まる。


 扉は開かない。


 白い少年が静かに言った。


「比べているのは、君だよ」


「俺が?」


「悠真と自分を」


 将太は何も言えなかった。


 確かにそうだった。


 数学では負けない。


 総合点では負けた。


 努力の量でも。


 問題へ向き合う時間でも。


 知らないうちに、悠真と自分を比べていた。


「比べるのは駄目なの?」


「駄目じゃない」


 少年は列車の窓を見る。


「でも、誰かになろうとすると、自分が空く」


 将太の胸がざわついた。


「空く?」


 少年はそれ以上答えない。


 列車がゆっくりと動き始める。


 窓の中の人影が、一人ずつ白い霧へ消えていく。


 最後の車両。


 一人の男が、窓際に立っていた。


 白い衣。


 手には羽扇。


 悠真の背後にいる男だった。


 男は将太を見ている。


 その胸元。


 黒く閉ざされていた場所に、一瞬だけ細い光が走った。


 文字にはならない。


 まだ読めない。


 だが、確かに何かが開きかけた。


 将太が目を凝らす。


 男はゆっくり首を横へ振った。


 まだだ。


 そう告げるように。


 白い列車は霧の向こうへ消えた。


 将太は何もなくなった線路を見つめる。


「努力する理由……」


 隣を見る。


 白い少年も、もういなかった。


 ホームには、将太一人だけが残されている。


 古いベンチの端に、見覚えのない紙が置かれていた。


 白い紙ではない。


 薄い灰色の紙。


 将太はゆっくり手を伸ばす。


 紙の中央へ、黒い文字が浮かび上がった。


 ――二人目。


 将太は息を止めた。


 その下へ、もう一行。


 ――見つけよ。


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