第16話 空席の意味
# 第十六話 空席の意味
昼休みのチャイムが鳴ると同時に、将太は教室を飛び出した。
「将太、ボール!」
階段の下で、来海がサッカーボールを抱えて待っている。
「もう持ってきたん?」
「先に取ったもん勝ちやろ」
「誰と戦ってんだよ」
「バスケ組」
「平和に分けろって」
口ではそう言いながら、将太は来海からボールを奪い、昇降口へ向かって走った。
「おい、待て!」
後ろから来海の声が追いかけてくる。
外へ出ると、十一月の冷たい空気が火照った頬へ触れた。
グラウンドでは、すでに何人かが鞄をゴール代わりに並べている。将太は制服の上着を脱ぎ、校舎脇の段差へ放り投げた。
「早く始めようぜ」
「チームどうする?」
「じゃんけん」
「将太と来海は分けろよ。二人一緒だと強すぎる」
「俺はどっちでもいいよ」
「じゃあ将太、こっち」
「え、ずるい!」
好き勝手な声が飛び交う。
将太は笑いながら中央へ立った。
ボールが転がる。
走る。
相手の足元へ入る。
奪った瞬間、左側を来海が駆け上がった。
「来海!」
将太はボールを蹴り出す。
来海が受け、すぐに返す。
目の前には二人。
一人目の横を抜ける。
二人目が身体を寄せてくる。
将太は足の裏でボールを止め、逆方向へ切り返した。
「うわ、そっちか!」
空いた場所へ走り込み、そのまま右足を振り抜く。
鞄と鞄の間を、ボールが勢いよく通り抜けた。
「よっしゃ!」
「また将太かよ!」
来海が背中へ飛びついてくる。
「重いって!」
「俺のパスが良かったな」
「最後ほとんど一人で行ったやん」
「最初の一歩は俺」
「はいはい」
将太は笑った。
息が切れる。
シャツが汗で背中へ張りつく。
それでも、身体を動かしている時間が一番好きだった。
白い駅も。
黒い列車も。
あと九日という文字も。
ボールを追っている間だけは、頭から消えてくれる。
「もう一回!」
誰かが叫ぶ。
将太は中央へ戻った。
その時、校舎の窓に白いものが見えた。
三階。
自分たちの教室。
カーテンのそばに、白い少年が立っている。
少年はグラウンドではなく、将太を見ていた。
笑っていない。
何かを確かめるような、静かな目だった。
「将太、行くぞ!」
来海の声で視線を戻す。
もう一度窓を見た時、少年はいなかった。
◇
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。
将太たちはボールを抱え、急いで教室へ戻った。
「暑っ」
「十一月やぞ」
「走ったら暑いだろ」
「お前、シャツ透けとるやん」
「見るなよ」
笑いながら席へ向かう。
開け放たれた窓から風が入り、机の上のプリントが舞い上がった。
「あ」
一枚が床へ落ちる。
将太が拾おうとするより先に、近くにいた女子がしゃがんだ。
「はい」
「ありがと」
プリントを受け取る。
女子は少し呆れたように将太を見た。
「また外で走ってたの?」
「昼休みだからね」
「毎日じゃん」
「毎日、昼休みは来るだろ」
「そういう意味じゃない」
女子が小さく笑った。
如月真心。
同じクラスではあるが、これまで長く話したことはない。誰かと騒ぐタイプでもなく、教室では数人の友達と静かに話していることが多かった。
「数学、百点だったんでしょ」
「何で知ってるの?」
「先生が言ってた」
「勝手に広められてるやん」
「褒められてたよ」
「英語の点数まで言ってなかった?」
「それは知らない」
「ならよかった」
「悪かったの?」
「普通」
「その言い方、怪しい」
真心はまた笑った。
その背後には、誰もいない。
影も。
歴史上の人物らしい姿も。
ただ、窓から差し込む光だけがあった。
将太は一瞬、視線を止めた。
「何?」
真心が首を傾げる。
「いや、別に」
「また変なところ見てる」
「またって?」
「最近、誰かの後ろをよく見てるから」
将太の胸が小さく跳ねた。
「そんなことないって」
「そう?」
「うん」
真心は深く追及しなかった。
「次、英語だよ。教科書出しといた方がいいんじゃない?」
「忘れてた」
「やっぱり」
真心は自分の席へ戻った。
将太はその背中を見つめる。
誰もいない。
けれど、自分と同じ空白には見えなかった。
真心の背後には、何かが欠けている感じがしない。
最初から、そこに何も必要としていない。
そんな自然な空間だった。
「綾小路、窓閉めろ」
教室へ入ってきた教師に言われ、将太は慌てて立ち上がった。
◇
放課後。
将太は駅へ向かう歩道を歩いていた。
学校帰りの生徒。
買い物袋を下げた人。
仕事へ向かう人。
多くの人が行き交っている。
その背後には、今日もさまざまな姿が見えた。
薄い影。
寄り添うように歩く老人。
少し離れた場所から見守る武人。
本人とほとんど重なるように立つ者。
以前なら、見えた瞬間に目を逸らしていた。
今は、少しだけ違う。
怖さが消えたわけではない。
ただ、影の姿ではなく、その前を歩く人へ目が向くようになっていた。
駅前の信号が赤へ変わる。
将太も人の流れに合わせて足を止めた。
少し前で、小学生くらいの男の子が母親の手を離れた。
道路脇へ転がった消しゴムを追いかけようとしたらしい。
「待ちなさい」
母親が腕をつかむ。
男の子のランドセルから、ノートや筆箱が歩道へ散らばった。
「あーあ」
男の子が泣きそうな顔をする。
近くにいた高校生が、黙ってしゃがんだ。
ノートを拾う。
転がった鉛筆を集める。
開いた筆箱へ一本ずつ戻していく。
「はい」
「ありがとう!」
男の子が両手で受け取る。
高校生は照れくさそうに軽く手を上げ、そのまま歩き出した。
その背後。
甲冑をまとった武人が立っている。
以前、学校で見たものとは違う。
古びた鎧。
無数の傷。
厳しい顔。
武人は、歩き出した高校生の背中を見ていた。
そして、ごくわずかに頷いた。
「受験生じゃないのに……」
将太の口から言葉が漏れる。
(当然だ)
低い声が頭の奥へ響いた。
黒い羽織の青年が、信号機の柱のそばに立っていた。
「でも、あれも英雄なんだろ?」
(英雄かどうかなど、私には分からぬ)
「分からないの?」
(名を知らぬ者を、軽々しく英雄と呼ぶな)
将太は眉をひそめた。
「じゃあ、何であの高校生の後ろにいるんだよ」
青年は歩き去る高校生へ目を向けた。
(点数を見ていると思ったか)
「最初はね」
(順位に憑くのなら、紙にでも憑けばよい)
将太は思わず笑いそうになった。
「たまに変なこと言うよな」
(私は常に真面目だ)
「それが余計に変なんだって」
信号が青へ変わる。
人々が歩き始める。
青年も、流れに合わせるように進んだ。
足音はしない。
誰の身体と重なっても形を崩さない。
(彼らが見るのは、人だ)
将太は青年の横を歩いた。
「どういう人?」
(選ぶ者)
「何を?」
(その時々で違う)
青年の視線が、先ほどの高校生へ向く。
(拾うか。通り過ぎるか)
(諦めるか。続けるか)
(逃げるか。向き合うか)
将太は黙って聞いた。
(小さな選択の積み重ねが、その者を作る)
「だから、見てる?」
(見ているだけではない)
青年はそれ以上、何も言わなかった。
将太は、もう遠くなった高校生の背中を見る。
特別なことをしたわけではない。
落ちた物を拾った。
それだけだ。
けれど、誰にも言われずに動いた。
考えるより先に、身体が動いたのかもしれない。
交差点で女の子を助けた時の自分と、少しだけ重なった。
「じゃあ、俺も見られてたのかな」
青年は答えない。
「昔から」
やはり返事はなかった。
将太が隣を見る。
青年はもういなかった。
◇
夜。
机へ向かって英単語を覚えていた将太は、いつの間にか眠っていた。
頬へ冷たい空気が触れる。
目を開く。
白い駅だった。
将太は古い木製のベンチに座っている。
膝の上には、英語の単語帳が開かれていた。
「これまで持ってくるのかよ……」
単語帳を閉じる。
白い霧。
読めない駅名標。
どこまでも続くホーム。
今日は白い少年の姿が見えない。
黒い羽織の青年もいない。
将太は立ち上がった。
ホームを歩く。
以前よりも、駅が広く感じられた。
柱の間隔。
霧の向こうへ続く線路。
壁際に置かれた古い時計。
針はない。
何度も来ているはずなのに、気づかなかったものが増えている。
その先に、もう一つのベンチがあった。
将太は足を止める。
最初から置かれていたのかもしれない。
それでも、これまで一度も見た覚えがない。
古い木製のベンチ。
誰も座っていない。
中央だけが深く窪んでいる。
長い年月、同じ人物がそこへ腰掛けていたような形だった。
「空席……」
口に出した瞬間、白い少年の声がした。
「違うよ」
振り返る。
少年は、いつの間にかベンチの反対側へ立っていた。
「違う?」
少年は空いた座面へ手を置いた。
「空席は、空いている席じゃない」
「じゃあ何?」
少年は答えるまでに少し時間を置いた。
「座る人が、まだ決まっていない席」
将太はベンチを見た。
「誰かが座るの?」
少年は小さく首を傾ける。
「座るかもしれない」
「座らないかもしれない」
「それ、決まってないって言っただけじゃん」
「そうだよ」
「説明になってなくない?」
少年が少し笑う。
以前なら、もっと問い詰めていた。
今は、これ以上聞いても答えは出ないと分かっている。
将太はベンチの端へ腰掛けた。
「俺の後ろが空いてるのも、同じ意味?」
少年の笑顔が消えた。
視線が、将太の背後へ向く。
「それは違う」
「何が違う?」
少年は口を閉ざした。
答えない。
その表情だけが、先ほどまでとは違っていた。
困っている。
それとも、恐れている。
将太には分からなかった。
ホームの照明が、一度だけ瞬いた。
白い光が消え、すぐに戻る。
少年が立ち上がった。
「何?」
返事はない。
もう一度、照明が瞬く。
今度は戻るまで少し時間がかかった。
白い駅が、初めて暗闇に沈む。
風が吹いた。
これまで一度も風を感じたことのない場所で、冷たい空気がホームを走り抜ける。
霧が揺れる。
少年の顔が強張った。
「列車?」
将太が線路を見る。
ベルは鳴っていない。
白い列車の光も。
黒い列車の軋む音もない。
代わりに。
ホームの外。
線路のない霧の奥から、足音が聞こえた。
カツ。
ゆっくり。
カツ。
一定の速さで。
誰かが歩いてくる。
将太はベンチから立ち上がった。
白い少年が、将太の前へ出る。
守るように両腕を広げることはしない。
ただ、視線を霧の奥から離さない。
足音が近づく。
一つの影が、白い霧の中から現れた。
灰色の外套をまとった老人。
背は高くない。
長い白髪。
杖も持たず、真っ直ぐ歩いてくる。
白でもない。
黒でもない。
その中間の色。
老人は、将太たちから数歩離れた場所で立ち止まった。
深い皺の刻まれた顔には、穏やかな笑みが浮かんでいる。
「やっと、ここまで来たか」
将太は息を止めた。
「俺を知ってるんですか」
老人は答えず、将太の後ろへ視線を向けた。
そこには誰もいない。
けれど老人には、何かが見えているようだった。
白い少年が、かすれた声を出す。
「どうして……」
これほど動揺した少年を見るのは初めてだった。
老人は少年へ優しく微笑む。
「来てはならなかったか」
少年は返事をしない。
ホームの奥から、別の足音が響いた。
黒い羽織の青年。
青年は霧の中から現れると、老人を見て立ち止まった。
いつもの薄い笑みが消えている。
将太は二人を見比べた。
「知り合い?」
老人が先に笑った。
「知り合いか」
黒い羽織の青年は答えない。
長い沈黙。
二人の間には、初めて会った者同士にはない空気が流れている。
警戒ではない。
敵意でもない。
もっと長い時間を越えて残っているもの。
青年がようやく口を開いた。
「遅かったな」
老人は静かに首を横へ振る。
「いや」
一歩、将太へ近づく。
「間に合った」
白い少年が将太の袖をつかんだ。
ほんのわずかに。
将太を引き止めるように。
「この人、誰?」
青年へ尋ねる。
黒い羽織の青年は、しばらく老人を見ていた。
その目には、将太がこれまで見たことのない感情が浮かんでいる。
懐かしさ。
悔しさ。
そして、消えきらない信頼。
「知り合いじゃないの?」
将太が重ねて聞く。
青年は老人から視線を外さないまま答えた。
「違う」
一拍。
白い霧が、二人の間を流れる。
「戦友だ」




