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憑いてる。  作者: 受験孔明
目覚め
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第12話 開戦

# 第十二話 開戦


 土曜日の朝。


 地下鉄の車内には、平日とは違う静けさがあった。


 同じ塾のバッグ。


 膝に置かれた参考書。


 英単語帳をめくる指。


 イヤホンから漏れる、かすかなリスニング音声。


 制服は違っていても、向かう場所は同じだった。


 模試会場。


 試験開始までは、まだ一時間近くある。


 それでも、もう模試は始まっている。


 綾小路将太はドアの横に立ち、流れていく暗い壁を眺めていた。


 右手で吊り革を握る。


 掌には何もない。


 黒い線も、白い紋章も浮かんでいない。


 だが、時折、皮膚の奥が脈を打つように熱くなった。


 制服の胸ポケットには、白い紙が入っている。


 朝、家を出る前に確認した時も、文字は変わっていなかった。


 ――あと九日。


 ――一人目。


 誰が一人目なのか。


 何が九日後に起こるのか。


 黒い羽織の青年へ尋ねても、答えはなかった。


 今も青年は、少し離れた連結扉の前に立っている。


 腕を組み、車内にいる生徒たちを眺めていた。


 将太を見ているようには見えない。


 だが、視線を外された気もしなかった。


「将太」


 隣から名前を呼ばれる。


 森岡悠真が、空いた吊り革をつかんだ。


「おはよう」


「おう。早いね」


「将太と違って、余裕を持って出てるから」


「俺も余裕あるだろ」


「電車が三分遅れたら、受付ぎりぎりじゃん」


「三分なら走れば何とかなる」


「それを余裕とは言わない」


 悠真は呆れたように笑った。


 目の下に、うっすらと隈がある。


「寝てない?」


 将太が聞く。


「寝たよ」


「何時間?」


「四時間くらい」


「寝てないのと変わらんやん」


「最後に数学だけ確認してたら、遅くなった」


「模試の前日に詰めても変わらんだろ」


「分かってる」


「分かってない人の行動じゃん」


「将太に生活態度を注意されるとは思わなかった」


「俺、昨日は十二時前に寝たし」


「珍しい」


「眠れんかったけど」


 二人の会話が途切れる。


 悠真は英単語帳を取り出したが、すぐには開かなかった。


 膝の上に置き、窓へ目を向ける。


「今日、順位出るよな」


「模試だから出るだろ」


「そういう意味じゃなくて」


 悠真は少しだけ声を落とした。


「前の模試とは、受ける層が違う」


 今回の模試は、難関校志望者を対象にした選抜模試だった。


 受験できるのは、塾内テストで一定の基準を超えた生徒だけ。


 問題の難度も高く、成績上位者は名前と順位が全校舎へ掲示される。


「緊張してる?」


「少し」


「悠真でもするんだ」


「するよ」


 悠真は苦笑した。


「むしろ、一度落ちてからの方がする」


 将太は何も言えなかった。


 悠真の過去を、詳しく聞いたことはない。


 合格圏内と言われながら、第一志望に届かなかった。


 その程度しか知らない。


 けれど、悠真が点数にこだわる理由は、何となく分かるようになっていた。


「今日は大丈夫だろ」


 将太は言った。


「根拠は?」


「数学八十八で悔しがるやつが、簡単に崩れると思えん」


「褒めてる?」


「一応」


「なら、もっと分かりやすく言えよ」


 悠真が笑う。


 その背後に、白い衣の老人が立っていた。


 長い髭。


 静かな眼差し。


 手にした羽扇。


 以前より輪郭が濃く見える。


 老人は悠真を見ていなかった。


 車両の奥。


 黒い羽織の青年を見ている。


 青年もまた、老人へ視線を返していた。


 言葉はない。


 敵意も見えない。


 ただ、互いの存在を確かめ合っている。


 将太は胸ポケットへ触れた。


 白い紙が、わずかに温かくなっていた。


     ◇


 模試会場は、いつもの塾とは違う校舎だった。


 受付には長い列ができている。


 壁には、過去の成績優秀者の写真と名前が貼られていた。


 全国順位。


 志望校。


 偏差値。


 数字だけを見れば、どの生徒も遠い存在に思える。


「綾小路君、教室は五階」


 受付で受験票を返される。


「森岡君は四階です」


 悠真が受験票を見た。


「別か」


「終わったら、一階で」


「うん」


 二人は階段の前で別れた。


 将太は五階へ上がる。


 廊下にも、見覚えのある名前がいくつかあった。


 他校舎の成績上位者。


 模試の順位表で見た生徒。


 廊下の端で参考書を読む者。


 目を閉じて暗記した内容を確認する者。


 友達と話していても、声は小さい。


 空気が硬い。


 将太が教室へ入ると、すでに半分以上の席が埋まっていた。


 そして。


 生徒たちの背後には、さまざまな姿が立っていた。


 鎧をまとった武将。


 法衣姿の僧。


 筆と巻物を持つ学者。


 軍服を着た男。


 長い髪を結った女。


 学校や普段の塾とは違う。


 輪郭の濃い者が多い。


 衣服の細かな模様まで見える。


 目の動きも分かる。


 教室全体が、見えない者たちで埋め尽くされているようだった。


 将太は自分の受験番号を探し、窓際の席へ座った。


 後ろを見る。


 誰もいない。


 自分の背後には、今日も空白だけがある。


 黒い羽織の青年は、教室の最後列に立っていた。


 将太の背後ではない。


 教室全体を見渡せる場所を選んでいる。


「また会うたな」


 声に振り向く。


 通路の向こうに天堂蓮が立っていた。


 同じ教室らしい。


「天堂もここ?」


「受験票に書いてるから来たんやけど」


「そういう意味じゃない」


「分かってる」


 天堂が少し笑う。


 以前より話すようにはなったが、友達と呼ぶにはまだ距離がある。


 模試や数学の話をする塾生。


 今はその程度だった。


「今回は百点取れるん?」


 天堂が聞く。


「問題見てないから分からん」


「そこは取るって言うとこちゃう?」


「取るつもりではいる」


「英語は?」


「今日はそれ聞くなよ」


「六十一やったもんな」


「何で知ってるんだよ」


「点数表に書いてたやん」


「見てたの?」


「百点をでかく書いてたら、横も目に入るわ」


 将太が顔をしかめると、天堂は笑いながら自分の席へ向かった。


 その背後には、三つの存在がいる。


 赤黒い鎧の武将。


 黒い法衣をまとった僧。


 そして、二人のさらに後ろに立つ顔のない影。


 教室のほかの存在たちは、近くを通る天堂へ目を向けた。


 すぐに逸らす者。


 身構える者。


 頭を下げる者。


 反応はそれぞれ違う。


 天堂自身だけが、何も知らずに席へ座った。


 黒い羽織の青年も天堂を見ていた。


 以前のような驚きはない。


 何かを測るような目だった。


(天堂が一人目なのか)


 将太は心の中で問いかけた。


 青年は答えない。


(悠真?)


 沈黙。


(それとも、別の誰か?)


 青年の視線が将太へ移る。


(始まれば分かる)


 ようやく返ってきた言葉は、それだけだった。


     ◇


 試験監督が教室へ入ってきた。


「机の上には、受験票、鉛筆、消しゴム、時計だけを出してください」


 教室が静かになる。


 問題冊子が配られる。


 一教科目は国語だった。


 将太は少しだけ肩を落とした。


 数学ではない。


 模試の最初から苦手教科を突きつけられた気分だった。


「開始の合図があるまで、問題冊子を開かないでください」


 時計の秒針が進む。


 あと一分。


 将太は深呼吸した。


 国語五十八点。


 英語六十一点。


 過去の点数が頭をよぎる。


 数学だけ取っても勝てない。


 それはもう分かっている。


 今日は逃げない。


 分からなくても読む。


 最後まで考える。


 将太は鉛筆を握り直した。


 その時だった。


 胸ポケットが熱くなる。


 白い紙。


 制服の上からでも分かるほど、急激に温度が上がった。


 取り出すことはできない。


 試験開始直前だ。


 将太は手を胸から離した。


 教室の音が、一つずつ消えていく。


 時計の秒針が止まる。


 問題冊子を配り終えた試験監督が、教卓へ戻る途中で動かなくなる。


 窓の外を飛んでいた鳥が、空中で静止していた。


 停止世界。


 将太は椅子に座ったまま、ゆっくり顔を上げた。


 生徒たちの背後に立つ者たちは、止まっていない。


 武将が姿勢を正す。


 僧が目を開く。


 学者が巻物を閉じる。


 教室中の存在が、何かの始まりを待っていたように動き出した。


 試験を受ける生徒たちだけが、時間の中へ取り残されている。


 将太は天堂を見る。


 天堂は鉛筆を握ったまま止まっていた。


 その背後。


 赤黒い鎧の武将が、ゆっくり刀の柄へ手を置く。


 法衣の僧は胸の前で指を組んだ。


 顔のない影だけが、教室の扉を見ている。


 悠真は別の教室にいる。


 だが、将太の耳に声が届いた。


(恐れるな)


 静かで低い声。


 白い衣の老人の声だと分かった。


 悠真へ向けられた言葉。


 壁も階も越えて、将太の中へ響いてくる。


(答えは、すでにお前の中にある)


 別の声。


(迷うな)


(最後まで立て)


 教室の中でも、背後の者たちが口を動かしている。


 すべての声が聞こえるわけではない。


 言葉にならない思いだけが、波のように流れ込んでくる。


 願い。


 期待。


 焦り。


 悔しさ。


 自分の前に座る生徒を、試験へ送り出そうとしている。


 将太は息を呑んだ。


 彼らは答えを教えているのではない。


 問題を解いているのでもない。


 ただ、その人間が持つ力を見ている。


 どこまで進めるのか。


 どこで諦めるのか。


 何を選ぶのか。


 黒い羽織の青年が、最後列から将太のそばへ歩いてくる。


(これが試しだ)


(模試が?)


(違う)


 青年の目が、止まった教室全体をなぞる。


(己が何者であるかを示す時だ)


 将太は問題冊子を見る。


 まだ開くことはできない。


 けれど、逃げるつもりはなかった。


「国語でも?」


 声に出して尋ねた。


 青年の口元が、わずかに上がる。


(敵を選べる戦場などない)


「それ、今言う?」


(今だから言う)


 将太は小さく息を吐いた。


 少しだけ肩の力が抜ける。


 その瞬間。


 顔のない影が、教室の扉へ向かって身体を傾けた。


 ギィ……。


 停止した世界の中で、扉がゆっくり開く。


 白い少年が立っていた。


 将太は目を見開いた。


 白い駅以外で少年の姿を見ることには、もう驚かなくなり始めていた。


 だが、少年の表情が違った。


 視線は将太ではない。


 教室の中を探している。


 何かを見つけ、顔を強張らせた。


 白い少年の目が向いている先。


 天堂だった。


 いや。


 天堂の背後にいる、顔のない影。


 白い少年が一歩、教室へ入る。


 赤黒い鎧の武将が、鞘からわずかに刀を抜いた。


 法衣の僧も目を開く。


 顔のない影だけは動かない。


 ただ、白い少年を見ている。


「知ってるの?」


 将太が尋ねる。


 少年は答えなかった。


 黒い羽織の青年も、天堂の背後へ目を向ける。


(動くな)


 将太へ向けられた声だった。


「何で?」


(今は、まだ戦場が違う)


 意味を聞き返す前に、胸ポケットの熱がさらに強くなる。


 将太は我慢できず、白い紙を取り出した。


 停止世界なら、誰も気づかない。


 紙の中央に、昨日までの文字が浮かんでいる。


 ――あと九日。


 その下。


 ――一人目。


 黒い染みが広がる。


 新しい一行が、ゆっくりと形を作った。


 ――開戦。


 将太が文字を読んだ瞬間。


 教室の外で、何かが鳴った。


 鐘ではない。


 ベルでもない。


 遠くで、巨大な鉄の扉が開いたような低い音。


 顔のない影が、初めて動いた。


 天堂の背後から半歩離れ、将太へ顔のない頭部を向ける。


 教室中の存在たちが一斉に身構えた。


 白い少年が両手を握る。


 黒い羽織の青年は、将太の前へ出た。


 守るように。


 その時。


 開始を告げるチャイムが鳴った。


 停止世界が砕ける。


 止まっていた秒針が動く。


 鳥が窓の外を飛び去る。


 試験監督が教卓へ戻り、何事もなかったように声を発した。


「始めてください」


 一斉に問題冊子が開く。


 紙の音。


 鉛筆の音。


 咳払い。


 現実が戻る。


 白い少年は消えていた。


 黒い羽織の青年も、教室の後ろへ戻っている。


 天堂は何も知らず、国語の問題冊子を開いていた。


 その背後には、三つの存在が立っている。


 顔のない影も、元の場所へ戻っていた。


 だが。


 顔のない頭部だけが、まだ将太を向いている。


 将太は白い紙を胸ポケットへ戻した。


 問題冊子の一ページ目を開く。


 長い説明文。


 見ただけで気持ちが重くなる。


 それでも、鉛筆を置かなかった。


 最初の一文から読み始める。


 一文字ずつ。


 一行ずつ。


 背後には、誰もいない。


 英雄も。


 軍師も。


 将太を選んだ者は、まだ一人もいない。


 それでも。


 この戦いを選ぶのは、自分だった。


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