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第11話 選ばれる側

第十一話 選ばれる側


 月曜日。


 昼休み。


 教室は騒がしかった。


「今日の体育だるくね?」

「昨日の課題やった?」

「先生、絶対小テストするやろ」

「購買行こうぜ」


 いつもの昼休み。


 いつもの教室。


 なのに将太は、少し落ち着かなかった。


 視線を感じる。


 最近、それが増えた。


 はっきり見られているわけではない。


 誰かがこちらを凝視しているわけでもない。


 だが、空気の端が自分に触れてくる。


 以前は、教室の中で将太はそれほど目立つ存在ではなかった。


 成績は悪くない。

 人付き合いも最低限はできる。

 だが、中心ではない。


 誰かを引っ張る側でも、誰かに守られる側でもない。


 それでよかった。


 そのはずだった。


「将太」


 振り返る。


 陽斗だった。


 サッカー部。

 クラスの中心。

 よく笑い、よく人を巻き込む。


 その後ろには、今日も赤い布のような影が揺れていた。


 王の影。


 名前を持つほど濃いものではない。


 だが、人を集める型としては十分に強い。


「昨日の数学の宿題やった?」


「……一応」


「見せて」


「自分でやれよ」


「頼むって。将太の解き方、最近わかりやすいんだよ」


 将太の手が止まった。


「最近?」


「うん。前より説明うまくなった気がする」


 陽斗は何気なく言っただけだった。


 だが、将太の胸の奥が冷えた。


 前より。


 変わった。


 また、それだ。


「どうした?」


「……いや」


 将太はノートを出した。


 陽斗は軽い調子でそれを受け取り、周囲の男子たちに声をかける。


「将太の見れば一発やぞ」


「マジ?」

「見せて見せて」

「綾小路、最近数学強くね?」


 いつの間にか、数人が将太の机の周りに集まっていた。


 前なら、こんなことはなかった。


 質問されることはあっても、ここまで自然に人が寄ってくることはなかった。


『始まっているな』


 三成が窓際で呟いた。


 将太は小さく顔をしかめる。


「何が」


『中心側がお前を認識し始めた』


「中心側?」


『教室には序列がある。陽斗のように人を集める者。志保のように場を整える者。来海のようにどこへでも入れる者。そういう者たちが、お前をただの端役ではなく、使える駒として見始めている』


「駒って言うな」


『では、席と言おうか』


 将太は黙った。


 嫌だった。


 目立ちたくない。


 普通でいたい。


 父の言葉が頭をよぎる。


 日常を捨てるな。

 その普通が、最後に残る。


 だが普通は、少しずつ形を変え始めていた。


「ねえ、将太」


 今度は志保が声をかけてきた。


 学級委員。

 成績上位。

 先生にも生徒にも顔が利く。


「今日の放課後、数学の小テスト対策、何人かでやるんだけど来る?」


「俺、塾ある」


「あ、そうか。最近忙しそうだもんね」


 志保は笑った。


 その背後の静かな女の影が、教室全体を見ている。


 笑顔の中に、管理する側の視線がある。


「でも、今度教えてよ。将太の解き方、陽斗たちがわかりやすいって言ってたし」


「……まあ、時間あれば」


「助かる」


 志保はそう言って戻っていった。


 将太は椅子にもたれた。


 何もおかしなことは起きていない。


 ただ、クラスメイトに宿題を見せて、勉強を聞かれただけ。


 普通の昼休み。


 普通の学校。


 だが将太には、それが別のものに見えた。


 自分の席が、誰かの都合で少しずつ動かされている。


『選ばれる側になり始めている』


 三成が言った。


「選ばれる?」


『中心に置かれる。利用される。期待される。近づかれる。人間の世界では、それを人気とか信頼とか呼ぶこともある』


「悪いことみたいに言うなよ」


『悪いこととは限らん』


 三成は静かに教室を見渡した。


『だが、選ばれるというのは、自由を失うことでもある』


 将太は返事をしなかった。


 昼休みの教室には笑い声が響いている。


 陽斗が笑う。

 周囲が笑う。

 志保が空気を整える。

 来海が別のグループへ流れていく。


 いつもの教室。


 だが、そのどこにも将太の席はない。


 いや。


 なかったはずの席が、今、誰かの手で作られようとしている。


   *


 放課後。


 将太は天神の塾へ向かった。


 地下鉄を降り、ビルのエレベーターに乗る。


 夕方の塾ビルは、学校とは違う種類の緊張があった。


 制服の違う中学生。

 親に連れられた小学生。

 自習室へ急ぐ高校生。

 受付前で講師に質問する生徒。


 ここでは、学校の序列はそのまま通用しない。


 点数。

 クラス。

 順位。

 志望校。


 別の物差しで、人が並べ直される。


 将太は自習室へ向かおうとした。


 その時だった。


「綾小路」


 低い声がした。


 振り返る。


 天堂蓮がいた。


 ポケットに手を入れ、壁にもたれている。


 同じ学校ではない。


 だが、模試会場や特訓講座で何度か顔を合わせるうちに、塾の中では妙に存在感のある相手になっていた。


 天堂の背後には、信長が立っている。


 以前よりも濃い。


 他の影はほとんど見えない。


 信長だけが、天堂の後ろで静かに笑っていた。


「……何」


「休憩スペース来い」


「は?」


「話ある」


 天堂はそれだけ言うと、非常階段横の方へ歩き出した。


 三成が低く言う。


『行くな』


「でも、断ったら余計面倒だろ」


『近づきすぎる』


「わかってる」


『わかっていない』


 将太は舌打ちした。


「何なんだよ、あいつ」


『王の器だ』


「それ、何回も聞いた」


『何回でも言う。王に近づく時は、距離を間違えるな』


 将太は三成を無視して、天堂の後を追った。


   *


 塾ビルの非常階段横には、小さな休憩スペースがあった。


 自販機。

 丸いテーブル。

 古い長椅子。

 窓の向こうには、夕方の天神のビル群。


 授業前の時間だからか、人はほとんどいなかった。


 天堂は自販機で缶コーヒーを買い、長椅子に座っていた。


「遅ぇ」


「急に呼ぶなよ」


「まあ座れ」


 将太は警戒しながら、少し離れて座った。


 天堂はそれを見て、少し笑った。


「そんな警戒すんな」


「お前が呼ぶからだろ」


「それもそうか」


 意外だった。


 もっと威圧的に話すのかと思っていた。


 だが、天堂は妙に自然だった。


 強いのに、力を見せびらかさない。


 人が集まるのに、誰かと一緒にいる感じがしない。


 そのずれが、将太には不気味だった。


「お前さ」


「……何」


「何か隠してるよな」


 将太の心臓が跳ねる。


「別に」


「嘘だな」


 天堂は即答した。


「お前、周りを見すぎなんだよ」


 将太は黙った。


「普通の奴って、もっと自分のことしか考えてねぇ。問題ができたとか、順位がどうとか、親がうるさいとか、あいつに勝った負けたとか」


 天堂は缶を揺らす。


「でもお前、ずっと周りを見てる」


「そんなことねぇよ」


「ある」


 また即答だった。


「観察してる感じ」


 将太は言葉に詰まった。


 天堂には三成も見えていない。


 孔明も信長も見えていないはずだ。


 なのに、なぜか核心に近いところを触ってくる。


 その時だった。


 非常階段の扉が開いた。


 高校生が三人入ってきた。


 同じ塾の上級生らしい。


 制服はばらばら。

 だが、雰囲気は似ている。


 自分たちが年上であることを、力として使い慣れている顔だった。


「お、天堂じゃん」


 一人がにやつく。


「最近、調子乗ってるらしいな」


 将太の空気が固まる。


 だが天堂は動かなかった。


「別に」


「先輩無視?」


 一人が天堂の肩を軽く掴んだ。


 静寂。


 将太は息を呑む。


 天堂は怒らない。


 騒がない。


 缶コーヒーを持ったまま、ただ相手を見る。


 それだけだった。


 だが、空気が変わった。


 天堂の背後で、信長がゆっくり目を細める。


 燃えるような圧。


 誰かが怒鳴ったわけではない。


 でも、そこにいる全員が理解する。


 これ以上踏み込むと、面倒なことになる。


 数秒。


 沈黙。


 先輩たちの方が、先に目を逸らした。


「……行こうぜ」


「ああ」


 三人は気まずそうに笑いながら、非常階段の扉へ戻っていった。


 扉が閉まる。


 休憩スペースに、また静けさが戻った。


「何だよ、今の……」


 将太が呟く。


 天堂は肩をすくめた。


「知らね」


 だが将太は、初めて理解した。


 怖いのは信長だけではない。


 天堂本人が怖い。


 人を従わせる何かがある。


 本人は、それを当たり前のように扱っている。


「お前さ」


 天堂が急に言った。


「何」


「俺と似てるよな」


「どこが」


「分かんねぇ」


 天堂は笑った。


「だから気になる」


 将太は黙った。


 その言葉が妙に引っかかった。


 似ている。


 どこが。


 王と空席。


 人が集まる者と、人の輪の外にいる者。


 まるで正反対に見える。


 その瞬間だった。


 視界が揺れた。


 一瞬だけ、天堂の奥に何かが見えた。


 王座。


 炎。


 無数の人間。


 歓声。


 恐怖。


 支配。


 そして、とてつもない孤独。


 誰もが見上げている。


 誰もが従っている。


 誰もが道を空けている。


 だが、隣には誰もいない。


 玉座の横は、空いている。


「っ……!」


 将太は思わずテーブルに手をついた。


 頭が痛い。


 吐き気がする。


「おい」


 天堂が眉をひそめる。


「大丈夫か?」


 視界が戻る。


 休憩スペース。

 自販機。

 缶コーヒー。

 夕方のビル群。


 ただそれだけ。


 三成の顔は険しかった。


『見るな』


 低い声。


『深く見るな』


 将太は息を整える。


 今のは何だったのか。


 わからない。


 だが、天堂の中に何かを見た。


 王座。


 孤独。


 そして、空いた隣の席。


「お前、たまに本当に変な顔するよな」


 天堂が言った。


「うるせぇ」


「やっぱ変だわ」


「お前に言われたくない」


 天堂は少し笑った。


 その笑いは、教室や模試会場で見せるものより、少しだけ普通だった。


「まあいいや」


 天堂は立ち上がる。


「またな、綾小路」


「……またな」


 天堂は休憩スペースを出て行った。


 その背後で、信長が一瞬だけ将太を見た。


 炎のような目。


 低い声が、耳の奥に残る。


『空いておる』


 将太は目を伏せた。


 聞かなかったことにした。


   *


 その夜。


 将太はスマホを開いた。


 塾のグループチャット。


 未読が増えている。


 何気なく開いた瞬間、指が止まった。


『最近さ、綾小路って何か変じゃね?』


 その一文。


 将太の背筋が冷える。


 スクロールする。


『わかる』

『模試の時からちょっと違う』

『成績上がってる?』

『てか天堂と話してたよな』

『あいつら接点あったっけ』

『森岡も綾小路のこと見てたらしい』


 将太はスマホを閉じた。


 胸がざわつく。


 目立ちたくなかった。


 普通でいたかった。


 なのに、少しずつ、確実に何かが変わり始めている。


 学校でも。

 塾でも。

 模試でも。


 将太の名前が、誰かの会話に混ざり始めている。


『早かったな』


 三成が静かに言った。


「何が」


『見つかるのがだ』


 将太は返事ができなかった。


 窓の外は暗い。


 向かいのマンションのベランダには、今日は何もいない。


 それなのに、見られている感覚だけが消えない。


 スマホがもう一度震えた。


 通知。


 差出人は、知らないアカウントだった。


 本文は一行だけ。


 ――選ばれる前に、白い駅へ来い。


 将太の手が止まる。


 三成の表情が消えた。


 部屋の中の空気が、急に冷たくなった。

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