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憑いてる。  作者: 受験孔明
目覚め
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第10話 黒い列車

# 第十話 黒い列車


 右手の熱は、授業が終わっても消えなかった。


 塾の教室を出た将太は、廊下の端で立ち止まり、手のひらを開いた。


 何もない。


 黒い線も、傷も残っていない。


 それでも、皮膚の下だけが脈を打つように熱を持っている。


 制服の胸ポケットには、白い紙が入っていた。


 ――契約。


 ――手を取れば、戻れない。


 意味は分からない。


 誰の手を指しているのかも分からない。


 だが、交差点で見た黒い影が右手を上げた瞬間を思い出すと、偶然とは思えなかった。


「将太」


 先を歩いていた悠真が振り返った。


「帰らないの?」


「ああ。帰る」


 将太は右手を握り、悠真の横へ並んだ。


 階段を下りる。


 受付を通り、自動ドアの外へ出ると、夜の冷たい空気が頬へ触れた。


「さっき、本当に大丈夫だった?」


 悠真が聞く。


「何が?」


「手。急に痛そうにしてただろ」


「ちょっと痺れただけ」


「紙も見てた」


「あれはメモ」


「真っ白だったけど」


 将太は足を止めそうになった。


 悠真には、文字が見えていなかった。


 予想はしていた。


 それでも、本人の口から聞くと背筋が冷える。


「書こうと思って、まだ書いてなかったんだよ」


「それをあんなに真剣に見てたの?」


「何書くか考えてた」


「ふうん」


 悠真は納得していない顔だったが、それ以上は追及しなかった。


「じゃあ、また明日」


「おう」


 駅前で別れ、将太は一人で改札へ向かった。


 少し離れた柱のそばに、黒い羽織の青年が立っている。


 人の流れの中で、誰ともぶつからない。


 誰にも見られない。


 将太は歩きながら、心の中で問いかけた。


(契約って何?)


 青年は答えなかった。


(知ってるんだろ)


 視線だけが、将太の胸ポケットへ向く。


(手を取ったら、どうなるんだよ)


 しばらくして、低い声が返ってきた。


(選択には、代価がある)


(それ、答えになってない)


(答えを聞いてから選ぶのか)


(普通そうだろ)


(ならば、お前はまだ選べぬ)


 将太は眉をひそめた。


 また、分かるようで分からない言い方だった。


(じゃあ、誰の手なんだよ)


 青年は改札の向こうへ視線を向けた。


(来る)


「え?」


 思わず声が出た。


 近くを歩いていた会社員が、不思議そうに将太を見る。


 将太は何でもないふりをして改札を通った。


 ホームへ下りる。


 電車はすでに到着していた。


 将太が乗り込むと、扉が閉まる。


 車内には、仕事帰りの会社員や塾帰りの学生が並んでいた。


 誰もがスマートフォンや参考書へ目を落としている。


 いつもと変わらない帰りの電車だった。


 黒い羽織の青年は、閉まった扉の横に立っている。


 将太は空いた席へ座り、胸ポケットから白い紙を取り出した。


 文字は消えていた。


 真っ白な紙。


 その中央へ、黒い染みが一つ浮かぶ。


 将太は紙を両手で持った。


 染みが細く伸びる。


 一本。


 また一本。


 やがて、短い文章になった。


 ――迎えが来る。


 電車がトンネルへ入った。


 車窓が黒い鏡へ変わる。


 将太の姿。


 並んで座る乗客。


 立ったまま本を読む高校生。


 その全員が、ガラスの中へ映っている。


 黒い羽織の青年だけは映っていない。


 代わりに。


 将太のすぐ隣に、白い少年が座っていた。


 将太は息を止めた。


 隣を見る。


 座席は空いている。


 窓へ目を戻す。


 少年はまだいる。


 笑っていなかった。


 黒い瞳で、将太の手にある紙を見つめている。


「これ、知ってるの?」


 小声で聞く。


 少年は答えない。


 ただ、ゆっくり顔を上げた。


 将太ではなく、窓の奥。


 暗いトンネルの向こうを見ている。


 胸ポケットへ戻しかけた紙が、急に熱を持った。


 次の瞬間。


 車内の照明が消えた。


 誰かが声を上げる間もなかった。


 人々の動きが止まる。


 吊り革が傾いたまま静止する。


 開きかけた本のページも、宙に浮いた髪の毛も動かない。


 走行音だけが消えた。


 電車は止まっていない。


 窓の外では暗闇が流れている。


 それなのに、音も振動もなかった。


 将太は立ち上がった。


「また……」


 黒い羽織の青年は、扉の前から動かなかった。


 いつもの余裕はない。


 細い目で、窓の外を見ている。


「何が来るんだよ」


 返事はなかった。


 白い少年がガラスの中で立ち上がる。


 将太の隣には誰もいない。


 それでも窓の中の少年だけが、ゆっくりと通路を歩き始めた。


 将太も、その動きを追う。


 少年が車両の先へ手を伸ばす。


 白い光が広がった。


 暗い車内から、色が抜け落ちていく。


 座席。


 床。


 天井。


 止まった乗客たち。


 すべてが白い霧に包まれ、輪郭を失った。


 将太は反射的に目を閉じた。


 冷たい空気が頬へ触れる。


 目を開く。


 白いホームに立っていた。


 読めない駅名標。


 古い木製のベンチ。


 霧の中へ伸びる線路。


 静かな、名のない駅。


 白い少年は数歩先に立っている。


 黒い羽織の青年の姿はなかった。


 将太は周囲を見回した。


「また置いていかれたのかよ」


 少年は何も言わない。


 その顔は、霧の奥へ向けられていた。


 将太も線路の先を見る。


 最初に聞こえたのは、低い金属音だった。


 ギィ……。


 錆びた扉を、無理やりこじ開けるような音。


 白い駅には似つかわしくない。


 霧の奥に、黒いものが浮かぶ。


 点だったものが、少しずつ大きくなる。


 列車。


 白い列車とは違う。


 車体は光を吸い込むように黒く、窓には一つも明かりがない。


 レールを走る音はしない。


 それでも時折、車体のどこかが軋む。


 ギィ……。


 白い少年が将太の前へ出た。


 小さな身体で、進路を塞ぐように立つ。


 将太は少年の横顔を見た。


 これまで見たことのない表情だった。


 恐れている。


 だが、逃げようとはしていない。


「知ってる列車なのか?」


 少年は答えない。


 黒い列車がホームへ入ってくる。


 白い霧が左右へ割れる。


 列車は将太たちの前で止まった。


 しばらく何も起こらない。


 窓は暗い。


 中に誰かがいるのかも分からない。


 やがて、一両目の扉がゆっくりと開いた。


 ギィィ……。


 暗闇の中から、黒い革靴が現れる。


 一人の男がホームへ降り立った。


 長い黒の外套。


 黒い手袋。


 年齢は分からない。


 三十代にも、もっと上にも見える。


 近寄りがたい姿だった。


 だが、その目には敵意がなかった。


 穏やかで。


 どこか疲れているようにも見えた。


「久しぶりだな」


 男は白い少年へ言った。


 少年の肩がわずかに動く。


 返事はない。


「変わっていない」


 男が静かに笑う。


 少年は将太の前から退かなかった。


「そんなに警戒しなくてもいい」


 男は両手を身体の横へ下ろしたまま、足を止める。


「今日は連れていかない」


 初めて、白い少年が口を開いた。


「今日は、じゃない」


 小さな声だった。


 しかし、はっきりと怒りが込められていた。


「もう、近づかないで」


 男の笑みが消える。


 怒ったのではない。


 悲しそうに見えた。


「それはできない」


「この子は違う」


「何と違う?」


 少年は答えない。


 男の視線が、将太へ移った。


 黒い影とは違う。


 顔も見える。


 声も聞こえる。


 それなのに、将太は直感した。


 交差点で出会ったあの影と、この男はつながっている。


 右手のひらが熱くなる。


 男も気づいたらしい。


 将太の右手を見て、わずかに目を細めた。


「君が、綾小路将太か」


「何で名前を知ってるんですか」


「見つけたからだ」


 白い紙に浮かんだ言葉が頭をよぎる。


 あの人は、君を見つけた。


「交差点にいたのは、あなたですか」


 男はすぐには答えなかった。


「私であり、私ではない」


「それ、どういう意味ですか」


「今の君には、同じに見えるという意味だ」


「全然分かりません」


「それでいい」


 将太は男を睨んだ。


 ここに来てから、そんな答えばかりだった。


「何で誰も教えてくれないんですか」


 男は少し考えるように沈黙した。


「答えを知れば、君の選択ではなくなる」


「知らないまま選べっていうんですか」


「知らないことと、考えないことは違う」


 穏やかな声だった。


 言い聞かせるようでも、押しつけるようでもない。


 男は一歩だけ近づいた。


 白い少年が両腕を広げる。


「来ないで」


 男は立ち止まった。


「安心しろ。触れない」


 そう言って、黒い手袋をした右手を上げる。


 差し出すのではない。


 ただ、将太に見える位置へ開いた。


 手袋の中央に、白い紋章が刻まれている。


 将太の右手が強く脈打った。


 熱い。


 皮膚の下から、同じ形が浮かび上がろうとしている。


「それが契約なんですか」


 男は答えなかった。


 代わりに、将太の目をまっすぐ見る。


「未来は一つではない」


 その言葉と同時に、視界が揺れた。


 白いホームが消える。


 赤い空。


 崩れた駅。


 地面へ膝をつく誰か。


 その背中に、見覚えのある制服。


 少し離れた場所には、羽扇が落ちている。


 さらに奥。


 黒い影を背負った少年が立っている。


 顔は見えない。


 将太が一歩近づこうとした瞬間、景色が砕けた。


「……っ!」


 白い駅へ戻る。


 将太は荒い息を吐いた。


「今のは何ですか」


「可能性だ」


「誰が倒れてたんですか」


「それを決めるのは、これからだ」


「天堂なのか。悠真なのか。それとも――」


 男は答えない。


 白い少年が男を睨んでいる。


「見せる必要はなかった」


「いずれ見る」


「今じゃない」


「今でなければ、選べない未来もある」


 二人の言葉は噛み合わない。


 どちらかが嘘をついているようには見えなかった。


 ただ、同じ未来を見ていない。


 将太には、そう感じられた。


 白い駅のどこかでベルが鳴る。


 カラン――。


 男が黒い列車へ目を向けた。


「時間だ」


「待ってください」


 将太は一歩前へ出た。


「あなたは敵なんですか」


 男は足を止める。


 少しだけ振り返った。


「それを私が答えて、君は信じるのか」


「……分かりません」


「なら、自分で見極めろ」


 男は列車へ戻りかけ、もう一度将太を見る。


「いずれ君は、誰かの手を取る」


 右手の熱が増す。


「その時、善悪で選ぶな」


「じゃあ、何で選ぶんですか」


「失いたくないものを決めろ」


 男は黒い列車へ乗り込んだ。


 重い扉が閉じる。


 ギィ……。


 列車がゆっくり動き始める。


 白い霧が黒い車体を飲み込んでいく。


 最後まで、男は窓の向こうから将太を見ていた。


 やがて黒い列車は消えた。


 軋む音も遠ざかり、白い駅へ静寂が戻る。


 将太は熱を持った右手を握る。


「今の人は、誰なんだ」


 白い少年は霧の向こうを見つめている。


 長い沈黙のあと、小さく口を開いた。


「進む先が違う人」


「敵じゃないの?」


 少年は首を横へ振らなかった。


 頷きもしなかった。


「じゃあ、味方?」


 やはり答えない。


 ただ。


 少年は自分の胸元を強く握っていた。


 何かを失わないように。


 そこにあるものを、必死で守ろうとするように。


 将太はもう一度、黒い列車が消えた霧を見る。


 白と黒。


 どちらが正しいのか。


 そんなに簡単な話ではない。


 初めて、そう思った。


 胸ポケットの紙が熱を持つ。


 取り出して広げると、新しい文字が浮かんでいた。


 ――契約は、まだ成立していない。


 その下に、もう一行。


 ――選ぶ権利は、お前にある。


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