28
突然拳に痛みが走って、我に返った。
見ると血が滲んでいる。
苛立って、無意識に拳で思い切り壁を殴ったらしい。血の滲む拳がひりついて、痛い。
今日も女の甲高い耳障りな声が談話室に溢れている。
次は何を言われようとも無視して通り過ぎてしまおう。あの派手なドレス姿を見るだけでも煩わしい。
「キース殿下」
そう思ったのに、今度は向こうから声をかけられるのだから、ままならないものだ。
嘆息して振り返った先にいる令嬢を見て、キースはわずかに胸を撫で下ろした。
「なんでしょう。リディア嬢。なにか私に用でも?」
相手は父王すら目線を合わせて接するほどの重臣、公爵家の嫡女だ。歳はキースと同じ十八。貴族の最高位である公爵家の令嬢でありながら、華美ではない落ち着いた装いの緑のドレスに身を包んでいる。
「妙な噂を耳にしたものですから。その確認に、お声をかけてはいけませんか」
相手の口調も表情も、ひどく硬い。
それはキースも同じことだ。
「彼女は魔王様がお連れになった賓客です。持て成してなにか問題がありましたか。それとも、私のような者では外国からの賓客とのお茶の場に同席することすら許されないのでしょうか」
目の前の令嬢は僅かに眉を顰めた。
「わたくしがいつ貴方様を貶めました。そのようなことを申し上げたことは一度もありませんでしょう」
「…………」
確かに彼女には一度も侮辱された覚えがない。完全な八つ当たりだった。
さすがに居心地悪く感じて軽く頭を下げ、謝意を示す。
彼女も軽く頭を下げて、続けた。
「……その女性を妃にとお考えであるならば、陛下に相談なさればよろしいのに。どうしてそうせずふてくされておられるのか、わたくしには不思議でなりません」
「……貴女がそれを言いますか。私の婚約者候補の筆頭である、貴女が?」
リディアは一瞬、不快げに眉を寄せた。しかしそれもすぐに消して、無表情に戻る。
「ええ。ですから言いました。本当にその人魚の方を望まれているのであれば、是非ともわたくしとの話が本決定になるまでに解消を申し付けて頂きたいものです」
「そうはなりません。私は貴女を妻に迎えるつもりでおりますから。陛下の仰せであることが全てです」
「まぁ。ではその方はお妾にでもなさいます? 第三王子殿下が愛人を持つなど、どれほどの醜聞となりますことか──」
リディアはハッと口を噤んだ。
慌てて深々と頭を下げる。
「言葉が過ぎました。お許しください」
震える手をごまかして、スカートに重ねた指に力が籠る。
頭上から、言葉が落ちた。
「国王なら、愛人を持っても誰も咎めないものな」
ああ、しまった、と。後悔しても遅い。
これだけは、この王子殿下に言ってはいけないと分かっていたのに。
手が震えるのは、この王子の怒りに対する恐怖からではない。
自らの失言による激しい羞恥心に指先が震え、顔を上げられなかった。
「──ライル」
再び頭上からした声はリディアの後方へと掛けられた。
「これは、御二方がお揃いでどうされました。ああ、私はもしやお邪魔をしてしまいましたか?」
張り詰めた空気を霧散させる明るい声に、全身から力が抜ける。安堵の息はまだ震えていた。
「いらない気遣いをしなくていい。何か用か?」
「ええ、少し。殿下にお知らせしておいた方が良い話を耳にしたので」
「……良い話か?」
「殿下には……あまり良い話ではないかもしれませんねぇ」
キースの姿を遮るように、ライルがリディアの前に割り込んでくる。
自然な仕草でキースの耳元に口を寄せ、何かを囁いた。途端、キースは素っ頓狂な声を上げた。
「はぁっ!?」
「噂ではなく事実ですので、一応耳に入れておいた方が宜しいかなと」
「一応じゃなくて確実に耳に入れてくれよ! ──どの部屋だ!」
「紫陽花の間だそうです」
「よりにもよって……!」
先ほどの苛立ったものとは違う、歯軋りするような形相になったキースは一転してリディアへと目を移した。
「すまないが急用が出来たので失礼します」
「え……ええ。どうぞ」
くるりと身を翻して紫陽花の間へと数歩ほど足を進めたキースは、なぜかまたくるりとこちらに向き直って足早に戻ってきた。
「彼女を愛人になどする気はないし、無用な詮索はやめてもらいたい。心配をかけたならお詫びする」
早口に言って本当に深く頭を下げ、今度こそキースは足早に去って行ってしまった。
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