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静かになった廊下に、遠くで人の話す声が風に乗って運ばれてくる。
こちらに向き直った相手になんと声をかけたら良いものか、リディアはわずかに迷った。
そんなリディアの内心はお見通しだろうこの男性はあっけらかんと言ったのだ。
「あの人はああいうところが憎めませんねぇ」
相変わらずの明るい声に、今度は相手を睨め付けたリディアだった。
「……どこから聞いていましたの」
「おや、ばれましたか」
楽しげに笑うこの男はどうやら最初から自分達の会話を盗み聞きしていたらしい。
先ほどの失態を知られているとわかって、羞恥に体が熱くなる。
ごまかして問いかけた。
「殿下についていかなくてもよろしいのですか。急用とのことでしたが」
「ええ。後ほど向かいますよ。時間がかかるでしょうから。……貴女はこれからどうなさいます?」
「わたくしは屋敷に戻ります」
「では供を致しましょう。どうぞ、お嬢様」
恭しく差し出された手には少し笑ってしまうが、苦情だけは伝える。
「その言い方はやめて頂戴」
「お嬢様に違いはないでしょう。貴女は本家の嫡女、私は分家の次男ですから」
僅かに浮上した心がすとんと落ちる。
思わず見つめ返した瞳は面白そうに笑っていた。
「……子供の頃なら手を繋いで歩くことくらい沢山あったでしょう」
「ええ。全て物を知らない子供の時分の思い出です」
「思い出……?」
相手を見つめる目にも、問いかける声にも非難する調子が篭る。
差し出していた手を引っ込めたライルは困ったように笑っている。
その笑みがひどく、腹立たしかった。
「あなたはもう思い出にしてしまったのね。……そうね、子供の頃の……他愛もない約束だわ。無邪気な思い出にしてしまったあなたは賢明な人なのでしょうね」
子供の頃幾度となく交わされた約束事をリディアは忘れたことはなかった。
『リディアは僕のお嫁さんにしてあげてもいいよ』
『本当? 本当にライルのお嫁さんにしてくれる?』
『うん。いいよ。約束する。君は僕のお嫁さんになるんだよ』
熱を持った目を誤魔化して俯くリディアにかけられた声は重くて悲しくて、計り知れなく冷たかった。
「約束とは何の話でしょう? なにぶん幼い頃の話で、申し訳ありませんが忘れてしまいました」
恨めしく見つめ返した瞳はもう、いつもの笑みを浮かべている。瞳の奥の本心を上手く隠す笑みだ。
何度となく行われたやり取りに気持ちが落ち込んで立ち去ろうとした時、ライルが手をポンと打った。
「そうだ。せっかくですから、貴女も紫陽花の間に一緒に参りませんか。紹介したい人がいるんです。貴女とはきっと、仲良くしてくださると思いますよ」
そう言われて紫陽花の間にいる方の正体を聞き、それは確かに挨拶をしておかなければならないと頷いた。
紫陽花の間へと足を向けたリディアの後方に、ライルはさりげなく身を寄せる。
これが、この男性とリディアの立ち位置だ。
もう決して、隣り合って歩く日は来ないのだろう。
その当たり前の事実を恨めしく思った自分を恥じて、リディアは洗練された身のこなしで歩みを進めた。
その背に向けられた、狂おしいほどの熱を帯びた視線に気付かずに。
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