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「いけません、お嬢様にそんなことをしていただくわけには……」
「大丈夫だからそこで待ってて!」
紛れもない、人間の言葉。
しかしその声は、この一年間決して忘れなかったものだ。
身を翻して走る。
スカートをたくし上げて素足を水に浸け、池の中で中腰になってシーツを持ち上げた後ろ姿を見とめ、胸が激しく上下した。
「はい。って駄目ね。びしょ濡れだわ」
「とんでもない。ありがとうございます。ですが、その……御足が……」
足? と金色の頭が傾く。本当に分かっていないらしい仕草に侍女達が困惑して顔を見合わせるのが見えた。
「足なんてすぐに乾くわ。それよりもこれ。……この、ええっと……大きな布を早く乾かさなきゃね」
そう言って彼女は両手を広げ、パンと勢いよく両手を合わせた。
その瞬間、シーツは音を立てて爆発し、白い湯気を立てる。侍女達がさっと顔色を変えたのがよく見えた。
「……魔族……っ!」
驚愕の声にわずかな恐れが混ざっている様に聞こえたのは気のせいではないだろう。初めて見る魔族に得体の知れない恐怖を感じたのだ。
まずい、とキースは急いで駆け寄ろうとしたが、一瞬で乾いたシーツが再び風にたなびき、彼女の顔目掛けて張り付いた。
「ぶっ……! あっ、あれ? 前が見えな、い……!」
手を右往左往させながら慌てふためく魔族の少女を、侍女達は唖然と見つめる。
お互いに顔を見合わせて、同時に吹き出した。
張り付いたシーツを回収する間も侍女達は笑い続けていた。再び桜色の瞳が姿を現した時には侍女達の目から恐怖は消え去り、親しみの篭る眼差しが魔族の少女へと向けてられていたのだ。
「ありがとうございました。魔族のお客様。まぁ、まるでいいお天気の日に干したみたいな良い匂い……魔法って便利ですのね」
「本当。是非一緒に働いていただきたいくらいですわ」
お礼を言われた魔族の少女は得意げに笑った。
「言ってくれたらいつでも乾かしてあげるわ。……たまに魔力を込めすぎて燃やしちゃうんだけど。本当、たまにだけど」
「ええ!?」
「それは困ります!」
慌てて侍女達がシーツを少女から離す。
数秒見つめ合い、三人で大きく吹き出した。
若い娘達の鈴の音のような軽やかな笑い声に、通りかかった兵士のやに下がる顔が視界の端に見えた。
──彼女は友達を作る天才だ。
一度心を落ち着かせるために深呼吸し、池へと歩み寄る。
立てた足音にこちらへ顔を向けていた侍女達がキースを見とめて慌てて膝をついた。
「しっ……失礼いたしました、殿下……!」
こんなところにいるキースが悪いのに、彼女達は王子の接近に気付かなかったことを謝罪してくる。本当に、この国はキースには気に食わないことだらけだ。
突然顔を青ざめさせ跪いた二人を人魚の少女は不思議そうに見つめ、二人の視線の先へと顔を向けた。そして、その表情は一変した。
桜色の瞳は溢れそうなほど大きく見開かれて輝き、口元には笑みが浮かぶ。頰は薔薇色に染まって、顔中で喜びを表した。
「タっ!……」
彼女は、大きく開いた口で叫ぶ声を慌てて両手で塞いだ。衝動を理性で押さえたような、そんな動きだ。
本能のままに動きたいのに、しては駄目だと自分に言い聞かせるように、細い体はうずうずと動く。
急にビシッと動きを止めた。
そして何事かと驚くキースの目の前で、流れるような動作で白いワンピースの裾を持ち上げ、見事に膝を折って淑やかに言ったのだ。
流暢な、人間の言葉で。
「お会いできて嬉しゅうございます、殿下。人魚族の娘、フェリシアにございます」
それは用意されたセリフを一言一句漏らさず読み上げたような挨拶だった。
その堂々とした振る舞いはまるでこの国にいるありふれた貴族の娘のようだったが、やはり彼女は彼女だ。
桜色の瞳が、投げられた枝を取って戻ってきた犬のように眩いほど輝いている。
この目も、声も、何もかもが泣きたくなるほど懐かしかった。
涙が出そうになるのをごまかして、自らの胸に手を添えて──悪戯気を起こして貴族のご令嬢に対してするように丁寧に言った。
あの日から欠かさず学び続けていた、魔族の言葉で。
「『遠いところをようこそおいでくださいました、フェリシア嬢。私はグランドーラ王国第三王子、キース・グレイフォード・グランドーラでございます』」
魔王城の庭でのように笑かければ、フェリシアはきょとんと首を傾けた。
「サラはタイシと会ったら殿下って呼ばなきゃいけないって言ってたけど、タイシとデンカとキース……グレイ? たくさん名前があるのね。なんて呼んだらいいの?」
堪らず吹き出した。
お腹を抱え、声を立てて笑うキースを、フェリシアの後ろの二人が困惑して見つめている。
人前で感情をあらわにすることは禁止される貴族社会では、これはあり得ない振る舞いだ。しかしそんなものはもう、どうでもよかった。
これまでの人生で王子と聞けば目の色を変える女ばかりだった中で、妙なところを気にするフェリシアの相変わらずさが清々しく心地良い。
瞼に溜まった涙を拭って、笑い混じりに言った。
「好きに呼んでくれたらいいよ。君に呼ばれるタイシって呼び名は気に入ってるから」
第三王子でもない、殿下でもない。ましてキースでもない。タイシとして過ごしたあの池での日々は、かけがえのないキースの宝だ。
いまだ池の中に立っていたフェリシアの笑顔は、光が灯ったように輝きを増し、水の滴る片足を上げて池の縁を踏み越えて地面に足をつける。
白い足が汚れてしまう、とキースが慌てた時には、彼女の足は白いレースの靴下に包まれ、クリーム色の革の短靴を履いていたのだ。
魔法とは、なんと便利な……。
魔法で出現した靴に目を奪われて数秒、それはキースの目の前へと足を進めていた。
顔を上げればあの日々に何度も見た、泣き出しそうなほど懐かしい笑顔がある。
「タイシ、会いたかった!」
「僕も……君に、会いたかった」
思わず口にした言葉は紛れもないキースの本心だ。彼女の真っ直ぐな言葉につられてしまった。
しかし彼女がいるならどうして──。
「さっき、魔王様と君の友達が連れ立って挨拶に来てくれたけど、どうして君はいなかったの?」
「あれ? もうそんな時間?」
フェリシアは時計を探して視線を彷徨わせたが、見つからなかったらしい。少ししょんぼりとして言った。
「お庭がとっても綺麗だったから抜け出してきたんだけど、広すぎて迷子になっちゃったの。タイシに会えるのを楽しみにしてたのに」
失敗しちゃったと残念がる彼女が可笑しくてキースはまた笑ってしまう。相変わらず自由な彼女だ。考えてみれば、この人魚が大人しく魔王様の後ろをついてくる姿が想像できない。
笑い続けのキースに不思議そうな目を向けつつも、フェリシアは気にせず手を打って声を弾ませた。
「でも会えてよかった! わたしね、タイシにずっと言いたいことが──」
「フェリシア──────っ!!!」
それは、この好天にもかかわらず落ちた雷のようだった。
突然庭に響いた怒号に、フェリシアの顔面は笑顔のままサァァと血が引いていく。
大慌てで辺りを見回し、怒りに青い髪を逆立て憤然とこちらへと駆けてくる友人の姿を見つけたフェリシアは飛び上がる。キースの背中へと大急ぎで隠れた。
「『あんた、どこ行ってたのよ! 大人しくしてろって言ったでしょうが! ああもう! 無駄だってわかってたのにあんたを信じた自分に腹が立つわ──っ!!』」
続く怒声に、フェリシアはキースの背中に抱きつく勢いでしがみつき、体を震わせながら懇願してくる。
「『助けて、タイシ! ディアは怒ると本当に怖いの!』」
密着に対する恥ずかしさに戸惑いつつも、彼女の変わらない姿に対する可笑しさが勝り、またキースは声を上げて笑った。
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