悪夢は現実との離別を意味するので危険から遠ざかった証拠である
次の日家へ帰ると決めた後、二人はなんだかんだ談笑しながら食事を終え、あとは眠るだけになった。
ベッドは二つあったから、普段グランが使っているのとは別のベッドを使わせてもらった。
クローバー家のミレーの自室のベッドとは比べ物にならないほどしっかりした土台で、毛布もシーツも清潔感に溢れた白色だ。
しかもふわふわと雲のように柔らかく、4歳の頃から使っていた自分のベッドとは違って、足を伸ばしてもベッドの端から足の先が出てしまうこともない。
(なにこれ、なにこれ! すごい、気持ちいい)
掛け布団と戯れ、シーツの上でゴロゴロと転がりたいほどだ。
さすがに理性で思いとどまれたが、そんな夢のようなベッドに横たわると、それだけで眠ってしまえそうだ。
(でも眠るの、すごく勿体ない。もっとこの極上を味わっていたい……)
そう興奮していたが、結局疲労からか眠気に負け、うとうとと意識がまどろんでいった。
「ミレー、おやすみ。ゆっくり休めよ」
グランはやさしい声をかけながら、ミレーの髪にキスをしてくれた。
(今日は、本当に夢のように幸せな日だ)
そんな幸せを自分から手放そうとしているのが、本当に愚かしいと思いもしたが、今はそんな考えも霞んでしまうほどの幸せを感じている。
布団はあたたかくてやわらかく、昨日洗濯したばかりだというシーツはお日様の香りがした。
こんな素晴らしいベッドで眠れば、疲れなど一晩で治ってしまうなと思いながら、ミレーは眠りに就いた。
夢を見た。
見慣れた天井は、カーテンもない窓から差し込んだ光で照らされて、部屋の隅には蜘蛛の巣が張っており、屋根が剥がされた、骨組みだけの天蓋もよく見えた。
自分が横たわっているのは、薄汚れてくたびれた粗末なシーツと、起き上がるたびギシギシと音が鳴る瀕死のスプリングベッド。
昨日まで使っていた木製ベッドは、物心がつく前からあった。母がミレーのために、長く使える丈夫で高い物を買ってくれた。そんな記憶がある。
小さい頃はどこまでも無限に足が伸ばせてゴロゴロとベッドの上を転がることも出来たが、すぐに父より大きくなってしまったミレーは、やや身体を縮こませて、なんとかベッドから足が出ない程度であった。
足を伸ばせば、くるぶしから下がベッドの端から飛び出してしまうので、縮こまって眠っていた。
粗末なベッドシーツ、母の形見のドレスは、あっという間に丈が合わなくなり、自分で不格好ながら直して使っている。
それがとてもヘンテコだと、妹のアリサがミレーを見るたび笑うのだ。
それでも大切な母の形見のドレス。3着以外残っていないけれど、それを大切に着まわしていた。
今自分が寝そべっているのは、アリサのベッドだ。母がミレーに買ってくれた丈夫なベッドは、アリサが「お姉さまの使っているベッドが欲しいわ」とおねだりをして、父と継母に「譲れ」と強く命じられて譲ってしまった。
アリサは、継母譲りの綺麗な金髪のストレートヘアと色白の肌、父譲りの緑色の瞳を持ち、背の低い愛らしい見た目をした美少女だ。
しかし、姉であるミレーとの仲は良くない。
ミレーの継母であるアリサの実母が、ミレーの存在を良く思っておらず、何かあればミレーを攻撃し、直後にアリサを可愛がるという場面を見て育ったからかもしれない。
アリサは、ミレーに対する扱いをそこで学んだのだろう。
何かあればミレーを攻撃し、それをすぐ継母へ報告する。すると継母はアリサを可愛がり、ミレーを攻撃する。
そんなことが日常になり、アリサは何かあれば可愛らしい仕草で『おねだり』をするのだ。
いつもなら拒んでも、酷くなじられるだけで済むはずであったが、この日は何やらアリサの虫の居所が悪かったらしい。
アリサは、ミレーの大切にしている3着のうちの2着のドレスを、目の前でナイフを使ってビリビリに引き裂いたのだ。1着は今着ていたからなんとか無事だ。
だがまるで母が八つ裂きにされたような錯覚をし、そのショックからか、その夜ミレーは高熱を出して寝込んだ。無理やり取り換えられていたアリサのベッドの上で。
アリサは物を大切にしないのか、自分に押し付ける際にわざと壊したのか、天蓋は屋根の部分が外され骨組みだけが突っ立ててある不格好になっていた。
(壊れたから交換をねだったのか、交換するためにわざと壊したのか……)
シーツは交換されなかった。十何年も使い古され、薄汚れたボロボロの自分の毛布をベッドの上に乗せ、その上に「もう限界」とつぶやいて倒れ込んだ。
大切で大好きな母との記憶が、思い出だけではなく物理的にも無くなっていく。
熱を出している間、食欲もなく、起き上がることも出来ず、ただ息苦しさと寒さの中で苦しんでいた。
ミレーは18歳になるまで、風邪をひいたことがない。少なくともそんな記憶はない。
風邪をひく余裕もなかったのだ。
だが、風邪をひかないことがイコール健康、というわけではなかった。
成長期にろくな食事を摂ることも出来ず、足りない運動量は部屋の中を動き回ることと、庭へ沐浴しに行くときだけで補う。
栄養が摂れない中で、極度のストレスや肉体疲労に耐えかねたように、18になったばかりのミレーの身体が冬の冷たい空気に我慢することが出来ず、風邪をひいてしまったのだ。
最悪の誕生日だった。
(寒い……さむい…………)
ガタガタとぺらぺらの毛布に包まって眠ろうとしていると、静まり返った暗いミレーの部屋に、灯りの点いたランプと氷水が入ったタライを持ったアリサが入ってきた。
(まさか、看病してくれるの?)
だが、その期待はあっけなく砕かれた。
アリサはランプを傍らにあった小さな本棚の上に置き、タライを両手で持ち上げ、それを毛布に包まっているミレーへ、頭から浴びせるようにして冷水をぶちまけたのだ。
「~~~~~~~~!!!」
一瞬、息が止まった気がした。体中が先ほどと比較にならないほどガクガクと震えだす。
「お姉さまったら、お風呂にも入らないなんて不潔だわ。代わりに水を汲んできてあげたんだから、感謝してよね~」
ミレーが過呼吸を起こしている様子をケタケタと笑いながら、部屋の中をぐるりと見渡した。
「それにしても相変わらず汚い部屋。あ~いやだわ、不潔な女は。私は綺麗にしてもらっているわ。女として当然だものね。……ねえ、あんたってなんで生きてんの?」
身体が冷えているのに、お腹の中が鉛でも飲み込んだみたいに気持ちが悪い。寒さと吐き気に耐えていると、アリサは空になったタライをミレーの頭にぶつけた。
その打撃で、ミレーの意識が遠のいていく。
遠のく意識の中、アリサがキャッキャとはしゃぐようにまくしたてた。
「聞いて聞いて! この前の社交界で、オリヴァー様をお見かけしたの! あ、オリヴァー様って言っても、あんたにはわからないか。オリヴァー様は、グランディア公爵家の嫡子なの。グランディア公爵家って、公爵家の中でも上位の権力を持つ家柄なの。そんな家柄の一人息子であるオリヴァー様って、とても美男子で背も高くてどこか儚げな雰囲気で……たまに出る社交界では女性陣の注目を浴びて、超ねらい目なの! もちろん、私も狙っているわ! でも、あんたみたいな小汚い姉がいるなんて知られたら、良い話もないかもしれないでしょう? だから、ね? 可愛い妹のお願い。……さっさと死んでよ」
意識なく、ヒューヒューとか細い呼吸をかろうじてしている姉の顔を睨みつけ、アリサはつまらなそうに吐き捨てた。
「本当に死んでよね」
そして、もう返事がないとわかっているのに、再度そう吐き捨て、アリサはミレーの部屋を出て行った。
でも、ミレーは死ななかった。
その翌日にはもう寒気も無くなったから、風邪も治ったものだと思っていた。だからアリサから頼まれたお使いにも行った。
まさかその後、グランと会うなど、未知の体験をするとは知らずに。
目を覚ますと、そこは見知った自分の部屋の天井ではない、小綺麗にされた低い木目の天井があった。
だが、それをすぐに理解することが出来なかった。頭にモヤがかかったようにぼんやりとし、とてつもない寒気と頭痛、喉の痛みや倦怠感で、ベッドから出ることも出来ずにいる。
「ミレー。起きたのか?」
ごほごほと咳き込むと、綺麗な黒髪の男性が視界に飛び込んできた。
(あ……)
そしてようやく、昨日の状況を思い出した。
「グラン……」
さっきまで見ていたのは夢で、今見ている光景が現実だ、と理解することが出来て、安心した。
「無理に起きるな」
「え、でも……」
朝ならば起きなければ、と言うコトも叶わない。声を出そうとすると咳が先に出てしまう。
「ミレーは熱があるんだ。ゆっくり休め」
グランはミレーより早く起きていた。
起きて部屋の空気を入れ替えて、軽く掃き掃除をしていたらしい。だが眠っているミレーに配慮し、この日は簡潔に終わらせたという。
空気を入れ替えた後は窓とドアを閉め、暖炉に薪をくべて部屋を暖め直したというが、ミレーは眠っておりまったく気がつかなかった。
グランはミレーがなかなか起きて来ないことを不審に思い、そこで熱があることに気づいたという。
安心したまえ!!!




