ぎゅるるるるるは美味を求めてる
次に目を覚ました時、開いていた窓は閉じられ、閉じられていなかったカーテンから夜の空が見えた。雨は止んだらしい。
「お、ミレー。起きたか」
その視界を塞ぐように、眼前にグランの端整な顔が現れた。寝起きの人間の視界に、突然美形が写り込むのは心臓に悪い。
「ごめ、なさい。私、どのくらい寝ていたの?」
「たった30分程度だ、謝るな。ちょうど飯が出来たところだが、まだ眠いなら寝ていてもいいし。どうする?」
香ばしいにおいが鼻先まで漂ってくる。
飯とは食事のことだろう。食事とはこんなに良いにおいがするのかと、少し羨ましく思えた。
自分もいつまでも眠っているわけにはいかないと身体を起こすが、めまいがして、掛け布団にもたれかかってしまう。
なんとか起き上がろうとするミレーの身体を、グランが支えて起こしてくれた。
「あ、ありがとう……」
「無理すんなよ」
ふと下を見れば、先ほどまで裸だった身体はいま、大きめのチュニックを着ていた。
「???」
「あ、オレが着せといたぜ。真っ裸だと風邪ひくだろう?」
「……あ、ありがとう」
グランが身体を気遣ってくれると、心が躍り出しそうになる。
(でも、っていうことは、私の裸を、グランに見られたってことかしら……)
それはとても恥ずかしい。
それにこのチュニックがグランの衣服だと思うと、さらに恥ずかしいやら嬉しいやら、自分でもよく分からない感情に曝されていた。
「腹減っていないか?」
だがさして気にした様子もないグランは、ベッドから少し離れたテーブルに温かそうな湯気を放つスープと焼いたパンを並べながら、ミレーに食欲の有無を訊ねる。
「あ、お腹は減ってな」
減っていない、と答えようとしたところで、ミレーのお腹がぎゅるるると大きな音を鳴らした。
「?」
お腹を壊したのかと思っていると、グランが「ぷっ」と噴き出した。
「腹減っているみたいだな。さ、食え食え」
「え? こ、この料理を? 私も食べて良いの?」
「当たり前だろ」
グランの向かい側のテーブルに座るよう促され、わけが分からないままその指示に従い椅子に座った。
目の前にはグランの分であろうスープとパンと水の入ったグラス、そして自分の前にも同じものが並べられていた。
「多めに作ったから、足りなかったらおかわりもして良いぞ。無理そうなら、食べられる分だけ食べな」
「え、これ、グランが作ったの?」
「あぁ。材料があまりなかったから、簡単なものしか作れなかったけどな。明日、店が開いたら食材買ってくるから」
そう説明して、グランは「いただきます」と自身の前で手を合わせて食事をし始めた。だがミレーは、いつまでも目の前にある食事に手をつけられずにいた。
(食べるの? これを? ど、どうしよう……。パンもスープも、長いこと食べていなかったから、食べ方忘れちゃった。えっと、どれから食べるんだっけ。パン? スープ? 早くしないと冷めちゃう、でも……)
どうしたらいいかわからずに困っていると、グランの手がすっとミレーの前に伸びて、彼の持つ匙がミレーの前に置かれたスープをひと掬いして、ミレーの口元に近づけた。
「ほら」
これを食せば良いのだろうかと、ミレーは差し出された匙に口を寄せて、それを呑んだ。
「……ん」
スープは匙に乗っている間に少し冷めたらしく、飲んでもまったく熱くなかった。飲みやすい。
それでもぬくもりのような温かさが残っており、ミレーの身体がほんわり安堵したのを感じた。
このように美味しい食事は初めてだ、というのに、どこか懐かしさを感じる味だ。
ミレーは夢中でスープを掬って食べた。昔に学んだ食事マナーを思い出すコトも諦め、無我夢中で食べた。
自分の身体はまるで飢餓状態であるかのように、あっという間に目の前のスープを平らげてしまった。
「うまかったか?」
ミレーは空になったスープ皿を名残惜しく見つめていたが、グランに声をかけられると満面の笑みで返した。
「はい! どこか懐かしい味がして……こんなに美味しい食事、初めてです!」
「あんがとな、最高の誉め言葉だ。で、まだ食えそうならおかわりをよそうけど?」
そう問われるが、さすがにおかわりまでいただくわけにはいかないと断ろうとしたところで、ミレーのお腹がまたぎゅるるるるると鳴った。
「あ……」
どうやらお腹を壊してしまったようだ。これ以上食べるのはやはり止めておいた方がいいと断ると、グランはまた笑い出した。
「まだ足りないみたいだな」
「え?」
グランがミレーの前にある空の皿を手に取り、またそれにスープを注ぎ入れていた。
「今の音は、腹の虫つって、腹が減っているときに鳴るんだ。今まで鳴ったことないのか?」
ミレーは黙ってうなずく。気持ちがすでに、香り立つスープの入った皿に向けられている。それがグランの笑い声で我に返った。
(わ、私……グランと話をしているのに、食べ物に夢中になるなんて!)
また熱くなってきた顔を、両手で隠すように抑える。
「良いんだよ。作った甲斐があるってものだ。作った人間にとっては、それを喜んで食べてもらえれば冥利に尽きるんだ。だから、ミレーが美味しそうに食べてくれているだけで良いんだぜ」
(もしかしてグランって、神様なのかしら?)
こんな寛大な受け止め方をしてくれる人間なんて、ミレーの実家にはいなかった。
食べているスープも温かいが、それ以上にじんわりとしたぬくもりがミレーの胸いっぱいに広がる。
「もっと食べて、もう少し胸以外にも肉をつけろよ。今のままだと軽く突いただけで骨が折れそうだ」
よく今まで無事でいてくれたよ、とぼやくグランを見ながら、不思議な気持ちになる。気にしたことはないが、そんなに自分の骨は脆く見えるのだろうかと気になった。
「……なんで、こんなにしてくれるの?」
「ん?」
「今日会ったばかりの見ず知らずの私を、どうしてここまで心配してくれるの?」
「……やっぱり覚えてないか」
残念そうな声で、仕方ないか、とつぶやく。
なんと説明しようか悩みながらパンとスープを食べるグランを見て、ミレーは感心していた。
(グランの食べ方、きれい)
食事作法などずっと教わらず、食べる時も一人だったミレーは、誰もいなくなった食堂で隠れるように食べていたから、作法などわからなかった。それでもグランの作法が綺麗だと感じる。
真似をしてみるが、何故かスープが匙からこぼれてしまい、木製のテーブルを汚していく。
みじめになるから匙を置き、鳴り続けるお腹をぐっと押さえつける。
匙を置いたミレーに、グランが声をかける。
「もう腹いっぱいなのか?」
「う、うん。もう……」
否定しようとするのを遮るように、ぎゅるるる、とミレーのお腹の音がまた鳴った。
「ミレーの胃袋がまだ足りねえって言っているけど」
グランは笑いながらパンを一つまみ千切り、それをミレーの口にねじ込んで、手ぶらになった指でミレーの唇を撫でた。
「良いから食え」
にぃっと笑むグランの表情が眩しく、目を細める。
諦めて口の中に入れられたパンを咀嚼する。こちらもとても美味しい。
「飯なんて、美味しく食えればそれでいいんだよ。マナーが気になるなら、これからゆっくりと身につけていけばいい」
「これから?」
「ミレー。これから言うことは冗談じゃない。そう思って聞いてくれ」
「は、はい」
真剣な目で見てくるから、ミレーも真剣に見返した。
「一緒に暮らさないか?」
「……えっと、それは」
「ミレーが良ければ、オレと一緒に、ここで暮らさないか?」
「そこまで、グランのお世話になるわけには……」
「じゃあどうするんだ? 自分の姉を暴漢に襲わせるような妹のいる家に、オレはミレーを帰したくない」
「……その気持ちはありがたいけれど」
ありがたいどころか、嬉しい以外の感情が湧かない。会ったばかりのグランに、ミレーはすっかり心を許していたのだ。
それに、この居心地の良い家。
叶うのならばずっと居たい。グランと、ずっと一緒に。いつまでも。
「……別に結婚しようとか言っているわけじゃない。ただの同居人だって。なんならオレのことは動く置物とでも思ってくれていい」
「動く置物って……」
「なんなら、ミレーが寝るときにオレは外で寝るから」
「ちょ、ちょっとまって。本当にそこまでされると逆に困るっていうか……。なんでそこまで私をここに置こうとしてくれるの? 私にそこまでされる価値は……」
自己否定をしようとして、ハッと口をつぐむ。グランも鋭い目つきで睨みつけている。
「……私にそこまでされる価値は大いにあると思うけれど」
「なら問題ないな」
強引に舵を自分のほうへ切って勝手に話を進めようとするグランに、ミレーは頭を抱えそうになった。
「なんでそこまで帰りたいんだ? まさか、オレと住むほうが嫌だったっていう?」
「そうじゃないわ。でも、もしかしたら家族が私の帰らないことを心配しているかもしれないし、ここで暮らすのなら、ちゃんとお父様の許可も得ないと……」
家族が心配しているかもしれない。それは、ミレーの希望的観測である。グランの目もそれを言いたげにしていたが、言わなかった。じっとミレーの目を見つめただけで、なにも言わない。
しばらくそうしていたが、やがて諦めたように許可してくれた。
「わかった。でも、ミレー一人だと道中また襲われるかもしれないから、オレも同行していいか?」
「あ、ありがとう!」
帰りたくない。それがミレーの本音であった。
でも、やはり家族の許可は得ないといけないだろうと自分に言い聞かせた。自分だけで勝手に、婚約者でもない男性の家で共に暮らすわけにはいかない、そう考えた。
帰りたくはないが、帰るしか術を知らないミレーの選択を、グランは尊重してくれた。今まで、ミレーの意見が尊重されることなどない人生だったから、グランがミレーの意見を尊重してくれたことが嬉しかった。
だが同時に、我がままを言って「ここでグランと、ずっと一緒に暮らしたい」なんて言っても許してくれるだろうかという考えが頭に浮かんだ。
頭を振って、そんな考えは振り払った。
(ちゃんと、家に帰って、お父様の許可を貰って、そういう道筋を立ててからにしないと)
それがけじめである、と自分に言い聞かせた。
だがミレーは、翌日以降もクローバー家の屋敷へ帰らず、グランの家に滞在し続けることとなる。




