水が燃えてるーーーーー!!!???
「とりあえず、風呂に入ってこい。もう湯は沸いているから」
「湯が沸く?」
ひとしきり笑い合ってから、ミレーはグランに、綺麗なタオルで髪の毛を拭いてもらっていた。
彼のミレーの髪の扱い方が、優しく労わりに満ちたものであったから、少し胸の奥がくすぐったい気持ちになった。
自分で髪の毛を拭くことなど、今までなかった。そもそもタオルという概念がない。濡れた身体も顔も髪も、全部自然乾燥だ。
「風呂の湯もさっき沸かしておいた。今ちょうどいい温度だから、ぬるくなる前に入ってこい」
「?? いい温度?」
何を言っているのか分かりかねているが、グランはそれに気づいた様子もなく、クローゼットから綺麗な白いタオルを一枚と、しわのないチュニックとズボンを持ってきた。
「今ミレーが着ている服は、明日にでも洗濯するから、浴室にある籠に入れておいてくれ」
「浴室?」
「風呂がある部屋のことだ」
この家は、今ミレー達がいる部屋以外にも、トイレと風呂の部屋が別にあるらしい。
「家の中でお風呂に入れるのね。すごい」
この部屋は、ミレーの暮らした部屋と違ってとてもあたたかい。ここと同じあたたかい部屋でなら、お風呂の水も冷たくないだろう。
そう伝えると、グランは驚いたようにミレーを見た。
「……ミレーはいままで風呂はどうしていたんだ?」
「え? ちゃんと毎日入っていたわ」
「風呂に入っているかどうかじゃなくて……」
グランと話がかみ合わない気がするが、そんな疑問は浴室に入ると解決した。
浴室には木で作られた大きな桶のようなものがあり、その中から湯気が立ちあがっていた。
「も、燃えているの?! 消さないと……!」
パニックになるミレーに、グランが冷静に教えてくれた。
「これが風呂だ。温かい湯に浸かって身体をあっためて、身体の汚れを落とす……っていう感じ?」
「え……え?」
「ミレーが今まで入っていた風呂って、どんなだよ」
そこでようやくグランの質問の意味がわかった。
「い、家の庭にある池の水で身体を洗っていたの。さすがに浸かることはできないけど……」
夏でも水が冷たいから、冬は地獄だった。だからミレーは、お風呂があまり好きではなかった。けど、他のみんなもちゃんとしているのだから、自分もちゃんとしないと、と頑張って入っていた。
夜の池で家の誰とも遭遇しなかったのは、みんなミレーと会いたくないから避けていたのだと思っていた。
だがこの事実を知って、家族と使用人はあんな冷たい思いをしていなかったのではないかという考えにたどり着いたら、なんだか無性に悲しい気持ちになってきた。
「そっか。じゃあ初体験だな。あったかい風呂、体験してみようぜ」
「え、で、でも……この桶の中に、入るの?」
この桶の中の水がどれだけ熱いのだろうと予想できずに怖がっていると、グランが自分の手を桶の中に入れて見せた。
ミレーはびくりと身体を跳ねあがらせた。
(あ、熱くないのかな?)
だが、グランはリラックスした表情を浮かべている。
「ミレーも、手を入れてみろよ」
演技ではないとグランを信じ、言う通りにゆっくりと桶の中に手を差し入れ、驚いた。
「ふ、ふわぁっ……あ、あったかい!」
「だろう? ほら、いつまでも濡れたままだと風邪ひくぞ。早く入れよ」
優しいグランの声にそう言われたが、ミレーは困った。
もじもじしているミレーの意図をグランも察してくれたようで、キョロキョロ視線を彷徨わせてから「じゃあ、オレは出て行くから」と言いそそくさと浴室を出て行った。
「あ、脱いだ服は籠の中に入れておいてくれ! あとで洗濯するから!」
浴室の外から投げかけられたグランの言葉に、ミレーは小さく笑いを零してしまう。グランの余裕のない声が、かわいらしく思えたのだ。
ミレーは脱いだ服を言われたとおりに籠の中へ入れてから、中央に佇む大きな桶の中に足を踏み入れた。
「ふわっ……あッ!」
温かいお湯ではあるが、それが皮膚に沁みて、とても痛かった。
その声が外に聞こえたのか、グランが「どうした!?」と声をかけてきた。だから安心させようと、努めて元気に振る舞った声で「なんでもない」と返したが、何故か扉が開いてグランが顔をのぞかせた。
「……悪いが、ちょっと入るぞ」
「え?! そ、それは……」
「…………」
丸裸の自分の身体をグランの目にさらすのは抵抗がある、と困惑していると、そばに大きな白いタオルが投げられた。
「それ、見られたくない部分に巻いてくれ」
そこまで配慮されたのなら、とタオルを身体に巻くと、再度グランが言葉を投げてきた。
「入ってもいいか?」
「う、うん……」
ミレーの許可を得たグランは、ガラリと浴室の扉を横に開けた。この浴室はドアノブが無く、押すでも引くでもない、板が左右に開く仕組みになっていた。
身体に白いタオルを巻きつけ、桶の前でうずくまっていると、グランがミレーの前で胡坐を組んで座り込んだ。
「……ちょっと、正座してくれるか?」
言われたとおりに座ると、グランはミレーを見据えた。
「…………この痣は?」
タオルで隠れていない鎖骨部分の、紫に変色している痣を見て、グランが顔をしかめた。
「あ、えっと、いつのだっけな。アリサが苛立っていたとき、ついうっかりあの子の部屋の前を通ってしまって、その時に燭台かなんかを投げつけられたのが当たっちゃって」
「……こっちのは?」
腕が赤く腫れあがっている。これは継母に鞭で強く打たれたやつだ。たしか数日前のだ。
「……」
グランは何か言おうと力なく口を開いたまま、何も言わなかった。
ミレーも、身体に付いた傷や痣に言及されても、それは二日以上前の食事メニューを思い出すのと同じくらい面倒くさいことであった。
何故そんなことを聞くのだろうと思っていると、グランはミレーの鎖骨部分をなぞるように指で撫でた。
「っ」
「痛いか?」
グランの問いに、ミレーは頭を振る。
痛くはない。むしろ、グランの体温が直に伝わってきて、気持ち良かった。
(もっと触ってほしいだなんて……ふしだらだわ)
自分の正直な考えを恥じていると、グランが低い声で尋ねた。
「湯が沁みた場所は、どこだ?」
「え? えっと、ここだけど」
ふくらはぎの部分を指差す。これは先ほど暴漢に襲われた時蹴られたところなので、よく覚えている。
それなら思い出すのに苦が無かったと誇らしげに伝えると、何故かグランは、今にも泣きだしそうなほどに顔をゆがめた。
「……ごめんな、気づかなくて」
「え? ど、どうして謝るの? グランは何も悪いことしていないわよね?」
「お前の身体を見ることを恥ずかしがって、ちゃんと見ていなかったから、怪我をしていたのに気づかなかった。これは、完全にオレが悪い」
「悪くない。悪くないよ?」
ミレーは困った。グランが何に対して悪いと思っているのか、どうして泣きそうなのか、まったく分からなかったのだ。
ミレーにとって、暴力を振るわれるなど日常茶飯事であった。だから、毎日の食事と同じだったのだ。
それでも今までの風呂が身体に沁みなかったのは、水が恐ろしく冷たかったから、身体が麻痺していたのかもしれない。やさしいあたたかさが肌に触れたことで、はじめて身体が痛みに反応したのだ。
「気づいてやれなくて、本当にごめん……」
グランからどうしたらツラそうな表情を取りのぞけるか考えて、ミレーはあることを思いついた。
彼の後頭部を、自分の胸に寄せるようにやさしく抱きしめた。
「だいじょうぶ。だいじょうぶだよ、グラン」
誰かにこうしてもらった記憶はないと思っていた。だが、今なんとなく、今は亡きミレーの母に、こうしてもらっていたような気がすると思い出したのだ。
「ちょ、ちょっ、ミレー……!」
腕の中でグランが苦しそうにもがくから、手を広げてグランを解放した。
「……、ッ!」
グランは顔を真っ赤にしながら、何か言いたそうだが、何も言葉が出ないようで、パクパクと口を開閉させるだけだった。
「元気出た?」
「…………いや」
グランは、先ほどより一層元気のなさそうな顔をしていた。
亡き母から教わった気がする元気の出るおまじないは、グランには通じなかったようだ。
だがグランは、別のことが気になって、おまじないに集中出来なかっただけだと言う。
「飯、食ってんのか?」
「ごはん? うん、ちゃんと毎日食べているよ」
「……そうは、見えないけど」
「失礼な」
「いやまぁ、栄養が全部胸に持っていかれたのかもな……じゃなくて」
グランは何やら浮かんだ考えを掃うように、頭を振った。
「その話はあとにしよう。痛い箇所に少しずつ湯で慣らしてから、ゆっくりと桶に足を入れてみろ」
「う、うん……」
グランに言われた通り、痛いと感じる箇所に少量の湯をなでるように触れさせ、それを何度か繰り返した。
「じゃあ、ゆっくり入ってみろ。タオルは巻いたままで良いから」
その通りに、まずは痛かった右脚をゆっくり桶の中に入れてみる。若干ぴりっと痛んだが、先ほどの痛みに比べると耐えられる程度だった。そのままゆっくり腰を下ろすと、胸元まで湯に浸かることが出来た。
「……はぁぁぁ」
温かいお湯に身を浸すと、このように身体の緊張がほぐれるものなのだろうか。無意識に肩まで浸かっていた。痛みより、身体がほぐれていく感覚のほうが強かったのだ。
湯の温かさにうっとりしているミレーを、手を握ってくれているグランが優しい眼差しで見つめていた。熱に浮かされ、ぼうっとしたまま考えなしの質問をしてしまった。
「グランも入らないの?」
「……オレは後から一人で入る」
「そっか」
この温かさを共有したかったので少し残念だったが、仕方がない。
「ミレー、頭は怪我していないか?」
「うん。最近は顔から上は痛いことなかった」
「……じゃあ、桶から頭だけ出して上向きな?」
「こう?」
「そうそう。そのままじっとしていろよ」
グランはそう言うと、ミレーの髪の毛に湯をかけて、わしゃわしゃと音を鳴らしながらかき乱した。
「な、なに?」
「髪を洗っているんだよ。目をつむっていろよ、石鹸が目に入るからな」
「石鹸? 石鹸って?」
「痒いところはないか?」
質問に答えてもらえず、質問が返ってきた。
「痒いところは……あ、もうちょっと右……」
「ここか?」
グランは指示されたところをしゃかしゃかと、リズミカルにかき乱していく。
「気持ち良ひ……」
「そいつはなにより」
楽しそうな彼の声が耳に届く。
「グランの指が気持ちいいぃ。それでいて小刻みに動くから、頭がさっぱりしてく……」
「湯をかけて洗い流すから、口と目に入らないようしっかり閉じておけよ?」
「ふぁい」
うっかり眠りそうになっていたので、気を引き締め、口と目を閉じた。リズミカルに髪がかき乱されていたのも気持ち良かったが、湯で洗い流されるのもさっぱりとして気持ちが良かった。
「ミレー?」
身体もほぐされていくようだ。
これがお風呂……と感動しているミレーの頬を、お湯に濡れたグランのあたたかい手が優しく撫でていく。
「ふゎ……」
「湯あたりしているな。もう出るぞ」
グランに手を引かれて立ち上がると、世界がぐらりと回っていた。
「……れ?」
バランスを崩して倒れかけたのを、グランが抱きとめてくれた。そうして大きなタオルをミレーの身体に巻きつけると、その身体をひょいと両腕で持ち上げた。
「グランって、力持ち……」
「ミレーが軽すぎるんだよ」
呆れたような声が返ってくる。軽すぎる、の意味をわかりかねて首をひねるが、グランの腕の中が気持ちよくて、他のコトはどうでもよく思えてしまった。
(……やっぱり、幸せだなぁ)
うっとりとこの時間を味わっていると、今度は冷気がミレーの身体を包む。
(ふあ、きもちいい……)
大気を冷やす冷たい季節の風が、火照ったミレーの身体を包んだ。
浴室から出て、ミレーをベッドに横たわらせてすぐに、グランが部屋の窓を開けてくれたらしい。
濡れ滴っている身体を、グランがタオルで拭ってくれている。
(こんなことしてもらっていいのかな……)
赤ん坊のように扱われているような気もするが、それでも、これが心地よくてミレーは目を閉じた。




