12_求婚
「パパやーだー! ママがいーのー!!」
これは…結依か? そうだ、結依がまだまだ小さい時。
俺が手に持ってるのは…子供用の歯ブラシだ。
「ママは今手が離せなくて、パパが歯磨きやってもいーい?」
「やだー! ママがいーの!!」
(はぁ、また今日もダメだな。今日も、というよりいつもだが…。)
「礼奈、頼んだ。」
「司、もうちょっと頑張ってよ!」
キッチンで皿を洗う礼奈から苛ついた声が飛んでくる。
思わず俺もイラッとしてしまう。
「こんな状態の結依にどうやってやれってんだ!? 歯磨きも着替えも風呂も全部ママママだろ!」
「だから少しでもそれをどうにかしてっていつも言ってるでしょ!!」
「どーやったらどうにかできんだよ!! 結依と過ごす時間は礼奈の方が圧倒的に長いんだから、そうなるに決まってんだろーが!!」
「だったら毎日少しでも早く帰ってきて結依と遊んであげたらたらどーなの!!! このまんまじゃ全っ部わたしじゃない!!!」
「それが出来たら苦労しねーよ!!!」
「いっつもいっつも遅く帰ってきて!仕事が忙しいのは分かるわ!分かるけど、少しは私たちのことも考えてよ!!」
「考えてるよ…っ!」
「考えてないじゃん! 週末は疲れ切ってずっと横になってるし! そのうちどこか悪くなるわよ! もう司ひとりの命じゃないんだからね!! そこんとこどう考えてるのよっ!!!」
親が声を荒げるのを見て、結依がさらに泣き叫ぶ。
いつもの夫婦喧嘩だ。このいつもの夫婦喧嘩さえ無くなってしまったのは、いつからだろうか。
―◇―◇―◇―
椅子に背を預け、大きく伸びをする。
ここは…会社か? 見慣れたデスク、見慣れたPC。うん、会社だな。
給料はそこそこの代わりに残業が絶えなかったが、新卒以来システムエンジニアとして仕事に勤しんできたんだっけか。
腕時計を見る。17:16を指している。
今日は保守対象システムの障害もなく、新規開発案件のWBSの遅延もなく、このまま何事もなく14分が過ぎると、久しぶりの定時上がり。
(珍しいこともあるもんだ。)
さて今日は定時まで時間潰して、さっさと帰るか。
なんて思っていたときだった。
「鏑木さん、すみません、少しお力を貸してもらえませんか…?」
後輩の高橋が済まなさそうに声をかけてくる。
「どうした?」
「先ほどハイデン製造から在庫が合わないと連絡がありまして、リカバリーパッチデータの作り方について問い合わせを受けたんですけど…」
「それで?」
「在庫データを調べてはみたんですが、新しい拠点コードの在庫のため、データの作り方が分からなくて…」
「まーだそんなこと言ってんのかよ。ハイデン製造のシステムを俺から引き継いで何ヶ月経つんだ。」
「はい、スミマセン…」
(あー、これに対応してたらいつもの残業コース確定だな。せっかくの定時上がりが。。だけど…)
――家に帰って起きてる礼奈の顔を見ずに済む――
「どんなデータだ、見せてみろ。新しい拠点が追加されたときのリカバリデータの作成方法についてもう一回教えてやるよ。」
高橋の顔がパッと明るくなる。
「ありがとうございます鏑木さん! 今度一杯奢ります。」
「未だに一回も奢ってもらったことはないけどな。ほら、早くしろ。22時の夜間バッチまでに間に合わせないと、明日も在庫ズレたままになっちまうぞ。」
「はい!」
いつからだろう。家に帰って礼奈が寝ているとほっとするようになったのは。
―◇―◇―◇―
俺は夜道を歩いている。ここはどこだ?
見慣れた住宅街。
暗澹たる気持ちと、もう礼奈の顔を見ないで済むという安堵。
あぁ、これは礼奈が結依を連れて出ていった日だ。
協議離婚のため、一足先に礼奈と結依が出ていった、その日だった。
歩みを進め、マンションの部屋の玄関前にたどり着く。
鍵を開け、ガチャリとドアを開け、家に入る。
真っ暗な玄関の電気を手探りで探し、点ける。
「ただいま」。そのひと言さえ言わなくなったのは、いつからだろうか。
リビングに進み、電気を点け、カバンを下ろす。
片付けられたリビングのテーブルの上には、礼奈からの言伝が書かれたメモ切れが置かれている。
『結依を連れていったん出ていきます。今後の調整はお互いの代理人を通してください。』
そう、簡素に書かれたメモ切れを手に取り、一人残された家にぽつんと佇む。
リビングの棚の上の写真立て。俺と礼奈と、まだ幼い結依が笑顔を向けている。
あれはいつだったか…。
もう思い出せないが、背景から近所の公園に出掛けたときに自撮りしたものだろう。
もう二度と戻らない優しい時間が、容赦なく心を抉る。
確かに、家庭を徐々に避けるようになっていったのは事実だ。
とはいえ、稼がなければならなかったのも事実。
だから自分ができることを、出来るだけやってきたつもりだった。
確かに悪いのは俺なんだろう。
それでも、こんな仕打ちを受けなきゃならない程悪かったのだろうか。
歩み寄り、思わず写真に手を伸ばす。
礼奈、結依…。
刹那、後ろにグイっと引っ張られるような感覚を覚え、と同時に視界が外側から白く塞がっていく―――
―◇―◇―◇―
目に映るのは剥き出しの木板、太い梁―――
…ここは俺の家…か?
夢で伸ばした左手は、現実では天井に伸ばしていたことを認める。
その左手が何かに掴まれ、視界が何者かの顔で埋め尽くされた。
シルバーの流れるような髪に、細面の顔貌。その切れ長の目は泣き腫らしたかのように赤く腫れており、一筋の涙が頬を伝う。その両手には、しっかりと俺の左手が握られていた。
長い長い夢を見ていたようだが、俺はこの人を知っている。
「ポーラ…」
ポーラは部屋のドアに向かって「ミラさん!ユーナさん! ツカサさんが目を覚まされましたわ!!」と叫んだ。
それを合図に、下の階から慌ただしく誰かが駆けあがってくる。
勢いそのままにドアが開け放たれると、ウェーブがかったブロンドの髪を乱れさせたシュミーズ姿の女性――ミラが駆け寄ってきて、そのまま胸に顔を埋めて「良かった」と嗚咽を漏らし始めた。
あとから入ってきた紫ローブの小柄な女性――ユーナがゆっくりと歩を進め「気が付いたようで良かったわ。」と安堵の表情を浮かべる。
(どうして、こんなところに…。)
未だはっきりしない頭で記憶を手繰る。
(確か、ヴェルデ村で雑草除去の依頼をこなし、ヴェルデの森でコンパウンドボウの練習をして…。)
先ほどまでの夢は霧散し、だんだんとこちら側の記憶が蘇る。
(ユーナに話しかけられて、弓の説明をして、それから…。)
―――鋭く大きな牙、真っ黒な体毛。怒りと殺気に溢れた赤い目―――
「魔化狼は…!」
思わず跳ね起きる。喰われた胸や腹、強打した頭や背中を急いで確認する。
魔化狼の牙が穿ったであろう傷がどこにもない。どころか、全身にこれといった痛みもなければ傷跡すら見当たらなかった。
「私が治癒魔法で治しておいたわよ。でも魔化狼の咬齧攻撃をまともに受けて無事だったのは強化魔法と、それからあなたが装備していたそれの効果が大きいわ。」
ユーナの視線の先、ベッドの脇に置かれた小さな棚の上にいつも着用していた防刃チョッキが置いてある。手に取って広げると、無残に穴だらけになっていた。
(これはもう使えねぇな…。)
「ユーナ、ありがとう。」
「いえ、私こそごめんなさい。普段は一人だから誰かと組んでの戦闘は初めてで、あまり大きな魔法を使うとあなたを巻き込んじゃうから、魔化狼の1匹ごときにてこずちゃった…。」
「魔化狼はゴールドランクの魔物ですのよ! 今回助かったのは運が良かっただけですわ! このまま目を覚まされなかった、わたくしどうしよかと…。」と目を潤ませるポーラに「でも、無事に目覚めてくれてよかったです。」と涙声のミラ。
無意識に二人の頭を撫でる。
「モテモテじゃない。自分だけの命じゃないんだから、もっと自分を大事にしなさいね。」
自分一人の命じゃない。昔どこかで言われたことがある言葉に、ぐっと息がつまる。
「…ところで、俺はどのくらい眠ってたんだ?」
「三日間よ。」
「三日もか!?」
「そうよ。あの後治癒院に連れて行ったのだけど、治癒魔法で快復してる患者をいつまでも寝かせておくベッドは無いってことでひと晩だけ入院させてもらったわ。その間に冒険者ギルドであんたのことを受付嬢に聞いたら、ここが家だっていうから治癒院から連れて来てあげたのよ。その時の、この二人の憔悴しきった顔ったらないわ。帰る場所があるんだから、もっと大切になさい。」
ふぅっと息をついてユーナが続ける。
「とはいえ、あんなところに魔化狼が出るなんてね。普通なら有り得ないことだけど、可能性はゼロじゃない。あの魔化狼、たぶん群れからはぐれたか追い出された個体よ。魔化狼は通常、何匹かの群れで行動するから。」
「なるほど、そういうことか…。もしかしたら手負いだったのかもな。ユーナ、改めてありがとう。心からの礼を言わせてくれ。それからポーラ、ミラ、済まなかったな。心配かけた。」
「本当ですわ! どれだけ心配したことか…。ツカサさんは商人として十分やっていけるんです、だからもう危険な真似はしてほしくないですわ…!」
「ミラもポーラ様と同じ意見です。冒険者稼業からは足を洗ってもらえると嬉しいです…!」
ミラとポーラが縋るような目を向けてくる。
「…俺はな、もっと強くなるよ。」
「わたくしの話を聞いておいでですの!?」
「私の話を聞いてましたか!?」
「違う、違うんだ。聞いてくれ。この世界で、魔物に襲われたとき、助けを呼んだところで誰かが親切に助けてくれるか? 賊に襲われて「軍に言いつけるぞ」と言ったところであぁそうですかと退いてくれるか? 答えは否だ。だから、どんなときでも自分を守れるくらい力を付けるしかない。そういうことだ。」
「「ツカサさん…」」
「見上げた覚悟ね。でも確かにその通りよ。この世界は弱肉強食、弱ければやられるのは道理よ。魔化狼に食い殺されかけて尚その意気、嫌いじゃないわ。」
「でも、だとしても…」
ポーラが何かを言いかけたのをユーナが遮る。
「ツカサ、あんたが冒険に出るときは私も同行するわ。だから決して一人で勝手に依頼を受けないこと。いいわね?」
「ユーナさん…」
「あんたに対する負い目が無いと言えば噓になるけど、どちらかというと好奇心ね。あんたの力、あんたが召喚するモノ、それから何よりあんたという存在自身。ポーラたちから聞いたわよ。あんた男なんだって?これ以上面白い存在はないわ。私が時間を割く理由は十分ある。そうでしょ?」
「…命の恩人に隠し事は良くないと思い、つい…」
ミラが俯く。
「ミラ、別に構わない。だからそんな顔しないでくれ。それからユーナ、重ね重ねありがとう。お言葉に甘えさせてもらうよ。」
「そ。じゃぁ話はまとまったわね。無事に目覚めたことだし、私はもう帰るわよ。次冒険に行くときはここから北にある住宅街に来なさい。「魔導師ユーナの家はどこだ」って聞いたら誰かしら答えてくれるはずよ。それから、しばらくはその娘たちを労ってあげることね。あんたが寝てる間、殆ど付きっ切りで面倒みてたんだから。」
それだけ言うと、ユーナは踵を返して出て行った。
静まり返った主寝室に落ちた沈黙をポーラが破る。
「ツカサさん、目覚める前、とてもうなされてましたのよ…。」
「…悪い夢でも、見てたんだろう…。」
「レイナ、ユイ…と、とても苦しそうな顔で口にしておられましたわ…。」
「…」
「ツカサさんが知るなにか、いえ、誰かなのではございませんか? もしかしたら…」
手を振ってポーラを制す。
「ポーラ、ミラ。悪いが少し一人にしてくれ。あとで降りる。それから少し話そう。」
その言葉に二人とも何か言いたそうだったが、おずおずと部屋を出ていった。
ー◇ー◇ー◇ー
三日間寝たきりだった身体は重く、半ば引きずるように階下に降りる。
食堂には二人が食卓に座り紅茶を飲んでいた。
「ツカサさん!? あ、あのすみません、お夕飯の準備はまだでして…。何日も寝込まれていたので、ツカサさんがお口にできるものを聞いてから作ろうかと…」
「いや、いい。気を遣わせてしまって済まないな。…ちょっと、お前たちに話しておきたいことがある。少し時間いいか?」
二人の顔に緊張が走ったのがわかる。
これから俺が何について話すのか、大方の見当がついたからだろう。
ー◇ー◇ー◇ー
そこから俺は、故郷では結婚して子供がおり、そして離婚したことを打ち明けた。
「まぁ、そういうわけだ。ポーラ、先ほど俺が『レイナ』『ユイ』と呻いてたと言っていたな。礼奈は元妻、結衣は娘だよ。」
「元奥さんと、娘さん…」
「そうだ。離婚の原因も、まぁありていに言って俺が不甲斐なかったことが原因だ。礼奈からは三行半を突きつけられたよ。だから、俺はお前たちが思うような立派な男ではない。」
「…」
「ツカサさんは、そのレイナさんとユイさんと、元に戻りたいのでしょうか…?」
ミラの問いに、ポーラが僅かに目を見開く、この問いは、ポーラ聞きたくても聞けなかった問いなのだろう。
「別にそんな気はない。二人ともどこかで元気に生きていてくれるなら、それだけで十分だ。」
ポーラが口元を抑えて嗚咽し、ミラが肩を落とす。
(さて、そろそろ幕、だな…。バツイチ子持ち、しかも妻に三行半を突きつけられたことも話したんだ。この二人が愛想を尽かして出て行っても、それはそれで仕方がないこと。それを隠して関係を続ける方が、よっぽど嫌だからな。)
「今話したことが、お前たちが想う男の本性だ。だから俺という存在に変な期待をするのはやめてくれ。俺は神話に出てくる存在でも、ましてや神でもない、ただの愚かな人間でしかない。そういう過度な期待、いや幻想と好意を履き違えているのなら…」
「舐めないでくださいまし!」
ポーラが吠える。
(え…?)
「神話の存在だの、ましてや神などと混同などしておりませんわ!! わたくしはこれまで生身のツカサさんと接して、わたくしたちと同じ一人の人間として想っているのです…!」
隣のミラが大きく頷く。
「ツカサさん、お一人で考えて、お一人で決めつけられるのは、ちょっと悲しいです。。」
(ぇぇええ…!)
「他に逃げ口上はごさいますの!」
「いや、その…」
「無いんですのね!?」
「いや、だから…」
「無・い・ん・で・す・の・ね!?」
「…う、うん、ない…。」
ふぅっと、ポーラが溜息をつく。
「であれば、あとはツカサさんがわたくしたちをどう思っておられるかだけですわ…。」
先程の勢いはどこへやら、ポーラが目を伏せる。
「ミラも同じです。ツカサさんの過去は過去、今は今です。元奥さんとヨリを戻したいならミラは身を引くつもりでしたが、そうでないなら、あとはツカサさんがミラたちのことをどう思われているかだけかと…。」
「ここでしっかり聞かないと、また煙に巻くおつもりなのでしょう?」
ポーラが上目遣いの視線が刺さる。
「そんなことはない…。」
ふっと身体の力が抜ける。
もう、誤魔化すことはできないようだ。だったら――
「魔化狼に襲われたとき、正直死を覚悟した。別に俺一人が喰い殺されたところでどうとでもない、とな。でも、すんでのところで、お前たち二人の顔が頭をよぎった。帰りたい、帰らなければならない、理屈でなくそう思った。だから最後まで戦えた。…ポーラ、ミラ。毎度身勝手で済まないが、もしお前たちさえ良ければ、これからも俺と一緒にいてほしい。それが、俺の答えだ…。」
二人がはっと息を呑む気配が伝わる。
ポーラが口に手を当て涙を流し、ミラも目尻に涙を浮かべてはにかんでいる。
「わたくしたち、夫婦ですわね…」
「はい、ミラとも夫婦です!」
(夫婦!?…そうか、そうなるのか…。)
「…夫婦、か。」
「ミラさん、いえ、ミラ。今日からわたくしたちはツカサさんの妻でしてよ? もう他人行儀な呼び方は無しですわ。」
「はい! ポーラさ…ポーラと私は同じ妻ですもんね。」
「ポーラ、お前はフォルテ商会の令嬢だ。こんな大事なことを自分の意思だけで決められるものなのか?」
「お母様は反対されてませんわ。というより、応援していただいておりますのよ。」
「重婚でも?」
「勿論ですわ。お母様にはミラのことも含めて情報共有しておりましてよ。」
「そ、そうなんだ…。」
(そんな簡単でいいの!?)
こうして、この世界での家族ができた。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
これにて第1章『生活基盤』編は完了となります。
この世界で2人の妻と生活基盤を得たツカサ。神話の世界の存在である『男』であることに加えて、この規格外の能力。心穏やかに第2の人生を謳歌したい本人の意向とはうらはらに、周りが放っておくはずもありません。
さて、次はどんな展開が待ち受けているのでしょうか。
次回から第2章『王国内戦』編スタートです!!




